盤上の駒、盤外の神(後編)
アルバート領の戦場は、セレスティアという「盤外の神」の降臨によって、混沌の坩堝と化していた。
ギュンター率いる帝国軍特殊部隊「黒狼」は、その生涯で経験したことのない、理不尽なまでの暴力の前になす術もなく混乱していた。
「うろたえるな! 隊列を組め! 魔法兵、はやくあの塔を破壊しろと言っているのが聞こえんのか!」
ギュンターは、自らの馬上で狂ったように叫んでいた。
彼のプライドはズタズタに引き裂かれていた。
帝国最強と謳われた自らの部隊が、たった一人のそれも小娘が操る奇妙な兵器の前に、赤子のようにあしらわれている。この屈辱は耐え難いものだった。
(宰相閣下は、いったい何を考えておられるのだ…!
このような規格外の兵器の存在を、なぜ我々にお伝えくださらなかったのだ…!)
彼の心に、初めて宰相リヒテンベルクに対する不信感が芽生えた。
自分はただの捨て駒だったのではないか。
この厄介な兵器の情報を得るための生贄だったのではないか。
その疑念が、彼の冷静さをさらに奪っていく。
「ええい、ままよ! 本隊がどうなろうと知ったことか!」
ギュンターは、ついに合理的な判断を放棄した。
「俺の任務は、この土地の殲滅とリシアという小娘の確保だ! 全軍、あの忌々しい塔は無視しろ! 中央の屋敷へ突撃だ! リシアを人質に取ればあの女も手出しはできん!」
ギュンターは、残った兵力の全てを、リシアが避難している屋敷の中央の塔へと一点集中させた。
それは、軍事的にはあまりにも愚かな選択だった。
だが追い詰められた彼にはもはや、それしか残されていなかった。
その時、彼の背後で、穏やかだが凛とした芯の通った声が響いた。
「―――それ以上、私の家族に、私の愛する人々に手を出すことは、許しません」
振り返ったギュンターの目に映ったのは、屋敷の門の前に、たった一人で立つ一人の少女の姿だった。
レナード・アルバートの妹、リシア。
その手には、彼女がいつも大切に抱えている古びた聖典が握られていた。
その姿はあまりにも無防備でか弱く見えた。
「小娘が…! 兄に続いて、妹まで俺を愚弄するか! ちょうどいい、貴様から先に八つ裂きにしてくれるわ!」
ギュンターが、下卑た笑みを浮かべ馬を駆ろうとした。
しかし、リシアは一歩も引かなかった。
彼女は、兄から、そしてエレノアやセリナ、セレスティアといった、強く、優しい仲間たちから信じることの本当の強さを学んだ。
彼女は聖典を、静かにしかし力強く開くと、祈るように、しかし、戦士のように、力強い声で言葉を紡ぎ始めた。
彼女が紡ぐのは、神への祈りの言葉ではない。
それは、エレノアが命がけで帝国領内から集め、レンが分析し、そしてリシアに託された「真実」という名の何よりも強力な弾丸だった。
「帝国兵の皆さん、聞いてください! あなたたちが信じる聖女アステル様は、宰相に利用された、ただの孤児です!
あなたたちの家族は今、宰相が起こした、この無謀な戦のせいで、かつてないほどの重税と、飢えに苦しんでいます!
あなたたちが英雄と信じるバルクホルン将軍は反逆者などではありません!
宰相の非道に、ただ一人立ち向かった真の愛国者です!」
リシアの声は不思議な力を持っていた。
それは彼女が聖女として持つ、人の心を癒し真実を心の奥底まで響かせる特異なカリスマの力だった。
その声は戦場の喧騒を突き抜け帝国兵たちの耳に、そして、心に、直接届いた。
帝国兵たちの間に激しい動揺が走る。
彼らの多くは、聖戦という大義を信じ、故郷に残した家族のために、この戦いに身を投じていた。
その大義が今、根底から揺さぶられている。
自分たちは騙されていたのではないか?
自分たちは一体、何のために戦っているのか?
「黙れ、小娘が! その薄汚い口を、閉じろ!」
ギュンターが恐怖に駆られて絶叫した。
「惑わされるな、者ども! こいつは魔女だ! 殺せ! 殺してしまえ!」
ギュンターが、自ら剣を抜きリシアに斬りかかろうとした、その瞬間。
彼の頭上から、まるで黒い彗星のように一つの影が舞い降りた。
「―――お前の相手は、俺だ」
漆黒の戦闘服に身を包み、そこに音もなく着地したのは、この戦場にいるはずのない男、レナード・アルバートだった。
王都での指揮を信頼できる腹心に全て任せ、彼はセレスティアが密かに開発していた、魔力駆動式の小型高速艇を使い、単騎、この故郷へと駆けつけたのだ。
その手にはセレスティアが届けた「軌跡の刃」が、夕陽を反射し青白い不気味な光を放っていた。
「レナード…アルバート…!」
ギュンターは幽霊でも見たかのような顔で絶句した。
「な、なぜ、貴様がここに…! 王都は、どうしたのだ!」
「お前のような、盤上の駒に俺の動きが読めると思うな」
レンは、ゆっくりと「軌跡の刃」を構えた。
「お前の役目は終わった。ご苦労だったな」
レンの登場
それはこの戦場における絶対的なゲームチェンジャーの降臨を意味していた。
彼の存在そのものが、味方にとっては勝利の確信となり、敵にとっては死の宣告となる。
「兄様…!」
リシアが涙ぐんだ声で兄の名を呼ぶ
「よく、頑張ったな、リシア」
レンは妹に優しい笑みを向けた。
「あとは俺に任せろ。少し早いかもしれないが、こいつに、俺たちの『本当の力』を見せてやろう」
レンは再びギュンターへと視線を戻した。
その瞳はもはや人間のものではなかった。
無数の戦場を経験し勝利と敗北の全てを知り尽くした究極のゲーマーの瞳。
その瞳が、目の前の敵をただの「ターゲット」として完全にロックオンしていた。
盤上の駒はほぼ全てが白に返った。
そして盤外の神は、今、敵のキングに、静かに、そして、冷徹にチェックメイトを告げようとしていた。
戦いの物語は絶望の淵から、輝かしい逆転劇へと、大きく舵を切った。
クライマックスの幕は、今、静かに上がった。




