盤上の駒、盤外の神(中編)
王都の作戦司令部は、レンが発した「全軍撤退」命令によって、絶望と非難の嵐が吹き荒れていた。
古参の将軍たちは、レンを「臆病者」「売国奴」と罵り、国王に彼の更迭を声高に要求していた。
民衆の間でも、英雄とまで呼ばれた若き軍師への失望と怒りが、急速に広まっていた。
レンは完全に孤立していた。
少なくとも、盤上の誰の目にもそう映っていた。
宰相リヒテンベルクの元にも、その情報は逐一届けられていた。
「…ふふふ、愚かな若造め、自らその牙を抜きおったわ」
帝都の執務室で、宰相は届けられた報告書を読みながら、愉悦に満ちた笑みを浮かべていた。
レナード・アルバートが、民衆の信頼という最大の武器を自ら手放した。
これ以上の吉報はない。
「ハルトマン、我が軍の進捗はどうか?」
「はっ。全て、閣下のご計画通りに。王国軍は無様に撤退を続けており、我が軍は、三方向から破竹の勢いで進軍しております。すでに、王国領の十分の一を完全に掌握いたしました」
ハルトマン伯爵が、得意げに報告する。
「うむ。だが、油断はするな。あの若造のことだ、何か裏があるやもしれん」
「ご心配には及びません。王国貴族の中の『協力者』たちが、彼の動向を逐一、報告してきております。
彼は作戦司令部に籠り、ただ敗戦の報告を聞いているだけの無力な抜け殻と化している、とのこと」
「そうか…」
宰相は少しだけ物足りなさを感じていた。
あまりに呆気ない。
もう少し歯ごたえがあると思っていたが、所詮は田舎貴族の小僧。
プレッシャーに耐えきれず自滅したか…。
「ギュンターからの連絡は?」
「はっ、こちらも順調そのもの。アルバート領の防衛戦力は、我らが流した毒によってすでに半減。
領民の間にも、レナードへの不信感が広がり内側から崩壊寸前とのことです。ギュンターは、今頃、あの忌々しい領地を火の海に変えていることでしょう」
「そうか、そうか!」
宰相は高らかに笑った。
「完璧だ! 全てが、私の描いた筋書き通りに進んでいる! この大陸の歴史は、この私、リヒテンベルクの手によって、新たに紡がれるのだ!」
彼の心は、万能感に満たされていた。
チェス盤の全ての駒は、彼の意のままに動いている。
そう信じて疑わなかった。
しかし、彼は致命的なことを見落としていた。
レンはチェス盤の上で戦っていると見せかけ、その実、水面下で、全く別のゲーム――ポーカーを始めていたのだ。
王都の作戦司令部
レンは、将軍たちの罵声をまるでBGMのように聞き流しながら、地図の盤面をただ静かに見つめていた。
彼の表情は抜け殻のようだったが、その脳内は常人には理解不能な速度で回転し続けていた。
(…ブラフは、成功した)
レンは内心で静かに呟いた。
全軍撤退命令
それは、敵を欺き、味方さえも欺く危険なブラフ『ハッタリ』だった。
彼は、あえて自らを孤立させ無力な存在だと宰相に思い込ませた。
ポーカーで、弱い手札を装って相手に大きな賭けをさせるように。
(宰相は、俺が、この盤面しか見ていないと思っている。
だが、本当の戦場はここじゃない)
レンの本当の戦場は、目に見えない情報と兵站のラインだった。そして、その戦場で彼の仕掛けた罠が、今、まさに発動しようとしていた。
「報告します! 帝国第一軍、第二防衛線を突破! ですが、敵の兵站が、異常なまでに伸びきっております! 補給部隊が、全く追いついていない模様!」
「帝国第二軍も同様です! 占領したはずの村や町で、原因不明の食中毒が多発! 兵士の三割が、戦闘不能に陥っているとの情報!」
「第三軍は、後退した我が軍が仕掛けた巧妙なトラップと、小規模な土砂崩れによって、山岳地帯で完全に孤立! もはや、身動きが取れない模様です!」
司令部に今までとは全く質の異なる報告が次々と舞い込み始めた。
罵声を浴びせていた将軍たちは、その報告の意味が理解できず、ただ、顔を見合わせるばかりだった。
レンの戦略的撤退は単なる後退ではなかった。
それは、FPSにおける『引き撃ち』と『エリアコントロール』の概念を、国家規模で実行するという前代未聞の作戦だった。
彼は、敵をあえて自国の領土の奥深くまで引き込みながら、その進路上に、無数のそして地味で気づかれにくい罠を張り巡らせていたのだ。
放棄した村の井戸には、セレスティアが密かに開発した、無味無臭の強力な下剤を投入。
街道の要所は、一見すると分からないように、しかし、大軍の重量がかかれば、必ず崩れるように事前に基礎部分を破壊工作しておく。
兵站ルートとなりうる脇道は、木を倒したり、沼を作ったりして徹底的に塞ぐ。
それは、一つ一つは戦況を大きく変えるものではない。
だが、その無数の小さな罠が、帝国軍という巨大な機械の歯車を少しずつ、しかし確実に狂わせていったのだ。
帝国軍はあまりにスムーズに進軍できたが故に、油断していた。
自分たちが巨大な罠の只中へと、自らの足で嬉々として歩みを進めていることに気づくのがあまりにも遅すぎた。
伸びきった兵站、機能しない補給線、そして、いつの間にか敵地で孤立していく各軍団。
彼らは勝利を確信した瞬間に、気づけば首まで底なしの沼に浸かっていたのだ。
そして、レンはこの作戦の最も重要な「切り札」を、その手の中にずっと隠し持っていた。
それは…帝国と内通していた王国の裏切り者たちのリストだった。
セリナが水面下で帝国の良識派から密かに入手した物で
誰がどのように王国を売ったのかが詳細に書かれていた。
彼らは表立って宰相を敵にすることは出来なかったが
最後の良心と宰相への反発心から行動したのだった。
「…さて、と」
レンはゆっくりと立ち上がると、司令部の隅で不安げな顔で戦況を見守っていた貴族たちへと、氷のように冷たい視線を向けた。
「あんたたちが、帝国にせっせと情報を流してくれたおかげで、俺の作戦は完璧に成功した。ご苦労だったな、メッセンジャーの諸君」
「な、何を言うか、アルバート顧問…!」
「我らは、断じて、裏切り者などでは…!」
貴族たちが必死に弁明しようとする。
だが、レンはそれを冷たく遮った。
「あんたたちが帝国に渡していた、我が軍の配置図や兵站ルート。あれは、全て俺がこの手で書いた『偽情報』だ。あんたたちを炙り出し、そして、帝国軍を俺が望む罠のど真ん中へと正確に誘導するためのな」
裏切り者の貴族たちは、顔面蒼白になった。
彼らは自分たちがレンの掌の上で、完璧に踊らされていたことにようやく気づいたのだ。
彼らは、良かれと思って、あるいは、自らの保身のために祖国を売った。
だが、その行為そのものが敵であるはずの帝国軍を地獄へと突き落とす、最大の手助けとなっていた。
「あんたたちは、自らの手で味方であるはずの帝国軍を罠にかけた。見事な売国奴っぷりだ。いや、見事な道化、と言うべきかな?」
レンは国王から預かった全権の名の下に、その場で裏切り者たち全員の拘束を命じた。
王国の腐敗した膿を、一掃した瞬間だった。
罵声を浴びせていた将軍たちは、今度は畏怖と賞賛の入り混じった目で、この若き軍師を見つめていた。
盤上の黒い駒は、レンの手によって次々と白へと塗り替えられていく。
信頼を失ったと見せかけ、敵の油断を誘い、情報を逆手に取って敵軍を内部から崩壊させる。
それは、もはや戦争ではなくレンという名の神がかり的なギャンブラーが、国家というテーブルで宰相という名のプレイヤーを完膚なきまでに打ち負かす鮮やかなポーカーゲームだった。
レンは窓の外を見つめた。
王都の空はまだ暗い。
だが、東の空が少しだけ白み始めていた。
(セレスティアは、うまくやってくれたようだな…)
彼はアルバート領の方向を見つめ静かに呟いた。
(さあ、ここからは俺の番だ。お前のキングを、直接、獲りに行く)
レンは司令部の指揮を信頼できる将軍に任せると、たった一人部屋を出た。
その腰には、「軌跡の刃」が、静かに、だが確かな存在感を放っていた。




