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偽りの聖戦と、二つの戦場(後編)

王都から発せられた「全軍撤退」の命令は、アルバート領にも、深刻な動揺をもたらしていた。


領主である父アルベルト男爵の執務室で、エレノアは王都からの伝令が届けた羊皮紙を、信じられないという思いで何度も読み返していた。


「…兄様が、領地を…民を見捨てろ、と…?」


隣に立つリシアは、顔を真っ青にしてか細い声で呟いた。


彼女にとって、兄は絶対的な英雄であり民を守る盾そのものだった。


その兄が民を見捨てろと命じている。


その事実が、彼女の心を激しく揺さぶっていた。


「落ち着いてください、リシア様」


エレノアは、自らの動揺を押し殺し、冷静さを保とうと努めた。


「これはレナード様の作戦です。きっと、何か深いお考えがあってのこと…。私たちが今、動揺してはそれこそ兄様の思う壺です」


エレノアは、レンの思考をトレースしようと必死だった。


情報を遮断された状態での防衛戦は無意味。

ならば、一度敵を引き込み相手の情報を古くさせる。

理屈は分かる。

だが、それはあまりにも多くのものを犠牲にする危険な賭けだった。


その時、屋敷の外がにわかに騒がしくなった。

窓から広場を見下ろすと、領民たちが不安げな顔で寄り集まり、ひそひそと何かを話し合っている。

その輪は、時間と共にじわじわと大きくなっていく。


「おい、聞いたか? 王都からのお達しだ。若様が俺たちを見捨てて、土地を明け渡せって…」


「そんなはずはねえ! 若様が、俺たちのことを見捨てるわけが…」


「だが、伝令の兵士がそう言ってたんだ!

王都の英雄になったら、俺たち田舎者のことなんざ、どうでもよくなったんだよ!」


レンの後退命令は、領民たちの心に「疑心暗鬼」という名の最も効果的な毒を植え付けていた。


エレノアはこれが宰相の狙いの一つであることを見抜いていたが、一度広がり始めた不信の輪を、言葉だけで止めることはもはや容易ではなかった。

領民たちの間に生まれた亀裂は、エレノアが築き上げてきた情報網をも麻痺させ始めていた。


そして、その領内の混乱の最中、ギュンター率いる「黒狼」は、静かに行動を開始した。


彼らは夜の闇に紛れて、領内の主要な水源である、五つの井戸とそこから流れる小川に、密かに毒を流したのだ。

それは飲んだ者を、数日間激しい腹痛と高熱でじわじわと苦しめる、遅効性の特殊な毒だった。

症状は、ただの食中毒や風邪と区別がつきにくい。


翌日の昼過ぎ、領地のあちこちで体調不良を訴える者が続出した。

それは、不思議なことに民兵として日頃から訓練を受けていた屈強な若者たちに集中していた。

有事の際に、真っ先にアルバート領の戦力となるはずの者たちが、まるで示し合わせたかのように次々と戦闘不能に陥っていく。


「なんて、卑劣な…!」


エレノアは領内の診療所から報告を受け、すぐに井戸の水を調べさせた。

そして、ごく微量に含まれた未知の毒物の存在に気づいた。


しかし、すでに手遅れだった。

領地の防衛戦力は、実質的に半減してしまったのだ。


そして、追い打ちをかけるように、その日の夕暮れ領地の境界にエレノアが設置していた、魔力式の見張りの狼煙が四方八方から同時に上がった。



敵襲



しかも、その数はエレノアの想定を遥かに超えていた。

ギュンターは、自らの部隊をさらに細かく分散させ、領民の中から協力者を募り彼らに帝国兵の旗を持たせて陽動部隊としてけしかけたのだ。


どこが本隊でどこが陽動なのか……


その判断を、極限の混乱の中でエレノアに迫った。


「エレノア様! どうしますか!?」


兄のルーファスが、血相を変えて執務室に駆け込んでくる。彼の顔にも焦りの色が浮かんでいた。


「西の森から、帝国兵が! 数は、およそ二百!」


「北の丘からもです! こちらは、百!」


「南の街道にも!」


エレノアは唇を強く噛んだ。

兵力は毒によって半減し、領民は疑心暗鬼に陥っている。

そして敵は四方から迫る。

あまりにも不利な状況。


レンならばどうする?

彼の思考を、彼の戦術を、今、この場で自分が再現しなければならない。


「…リシア様を、一番安全な屋敷の中央の塔へ。父上と母上もご一緒に」


エレノアは即座に決断を下した。


「ルーファス様とセシル様は、残った兵を率いて最も手薄な東門の防衛を。敵の陽動に惑わされず、一点を死守してください。私は、敵の主力が向かうであろう西門へ向かいます」


「エレノア!?」


リシアが悲鳴のような声を上げた。


「あなた一人で、どうするのですか! 無茶です!」


「時間を稼ぐしかありません」


エレノアは、壁にかけてあった自らの細身の剣を手に取った。


「レナード様が、必ずこの状況を打開してくれるはずです。それまで、私たちがこの土地を…レナード様が愛したこの場所を守り抜くのです!」


エレノアは、そう言うと自ら鎧を身につけ、西門へと走り出した。

その華奢な背中には、この領地の全てを背負う悲壮な決意が満ちていた。

彼女はもはや、ただの軍師ではなかった。

自ら刃を振るい仲間を守る、一人の戦士となっていた。


西門では、すでに激しい戦闘が始まっていた。

ギュンターは、エレノアが西門に来ることを見越して主力をここに集中させていたのだ。


「あの女狐が出てきたか! 全員、殺せ! あの女だけは、俺が直々に嬲り殺してくれる!」


ギュンターの狂的な号令の下、帝国兵たちが津波のように押し寄せる。アルバート家の兵士たちは、数的不利の中で必死に抵抗するが、一人、また一人と倒れていく。


エレノアは、城壁の上から戦況を見つめ的確な指示を飛ばした。


「弓兵隊、敵の第二波に集中放火! 敵の勢いを削いで! 槍兵は、門の内側で陣を組み、決して突破させるな!」


彼女の指揮は的確だった。

しかし、圧倒的な物量の差はいかんともしがたい。

やがて、敵の破城槌が城門に轟音を響かせ始めた。

巨大な城門が、ミシミシと悲鳴を上げる。

陥落はもはや時間の問題だった。


レンは王都で孤立し、信頼という最大の武器を失いつつあった。


そして、彼の故郷は毒と偽情報によって内側から崩され、圧倒的な戦力差の敵に、今まさに蹂躙されようとしていた。


宰相リヒテンベルクの策略は、二つの戦場で完璧に機能していた。レンとその仲間たちは、同時に、そして為す術もなく絶望的な苦境に晒されていた。


現実は、彼らにいまだかつてない最も過酷な試練を突きつけていた。

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