懐かしい故郷
数日間の旅路を経て、一行の眼前に、懐かしい故郷の風景が広がった。
緩やかな丘陵地帯に広がる豊かな麦畑、地平線の向こうに霞む森、そして丘の上に慎ましくも威厳を保って佇むアルバート家の屋敷。それは、レンが孤独なゲーマー「高槻レン」として生きていた頃には決して見ることのなかった、温かく、そして少しだけ気恥ずかしい光景だった。
(実際に暮らした年月はそれほど長くなくても、懐かしく思うものなんだな…)
転生者であるレンが、アルバート家で実際に暮らしたのは数年足らずだ。レンは故郷の光景を懐かしいと感じる自分に驚いていた。
「お帰りなさいませ、レナード若様!」
屋敷の門前には、父であるアルベルト男爵をはじめ、兄たち、そして使用人たちが勢揃いで彼らを迎えていた。その表情は、かつて「落ちこぼれ」と蔑んでいた頃の冷ややかさとは全く異なり、困惑と、安堵と、そして隠しきれない誇りが入り混じった、実に複雑なものであった。
「うむ…よくぞ戻った、レナード。長旅、ご苦労であった」
父、アルベルト男爵は、精一杯の威厳を保とうとしながらも、その声は微かに震えていた。没落寸前だった家を救い、王都の英雄として凱旋した息子の姿を、彼はどのような思いで見つめているのだろうか。レンは、その不器用な愛情表現に、思わず口元を緩めた。
兄たちの態度は、さらに顕著だった。かつてレンに剣の手ほどきをしながら、その才能のなさに呆れ返っていた長兄は、レンの顔をまともに見ることができず、次兄に至っては「お、おう…」と意味のない相槌を打つばかりだ。彼らのプライドと、弟への感謝、そして弟が自分たちの手の届かない場所へ行ってしまったという戸惑い。
その滑稽で人間味あふれる姿に、レンは、FPSの画面越しでは決して感じることのできない、家族というものの温かさを改めて実感していた。
レンの凱旋は、アルバート家の人間だけを驚かせたわけではない。
領民たちの反応は、より直接的で熱狂的だった。
かつては「男爵家の出来損ない」と陰で囁かれ、誰からも期待されていなかった青年が、今や自分たちの生活を救った英雄なのだ。レオンハルト王子の経済封鎖によって困窮していた領地の民にとって、レンの活躍はまさに神の救いであった。
「若様! おかげで、また麦が作れます!」
「英雄様! このパンをどうぞ!」
領地を視察するレンの周りには、常に領民たちの感謝と尊敬の輪ができた。差し出される無骨なパンの温かさ、子供たちの屈託のない笑顔。それらは、王都で得たどんな名声や報酬よりもレンの心を深く満たした。
彼は、この世界で守るべきものが何であるかを肌で感じていた。それは、国家の安寧や貴族としての名誉ではない。目の前にいる、この素朴で温かい人々の笑顔なのだと。
一方、レンの周りでは王都とはまた違った、穏やかでしかし熾烈な戦いが繰り広げられていた。リシア、セリナ、エレノア。三人の少女たちは、領地という穏やかな環境の中で、レンとの関係をより個人的なものへと深めようと、静かな火花を散らしていた。
「兄様、こちらのお菓子、私が焼きましたの。あーん、して差し上げますわ」
「レナード! 甘いものばかり食べていては体が鈍るぞ! 私と手合わせをしろ!」
「レナード様。こちらの資料は、今後の領地経営に関する改善案です。ご一読を。…それと、夜、お部屋に伺っても?」
リシアの献身的な愛情、セリナのストレートな好意、そしてエレノアの知性を駆使したアプローチ。三者三様の求愛は、穏やかな日常に甘酸っぱい彩りを添えた。レンは、FPSで鍛えたはずの状況判断能力が、この恋愛という未知の戦場では全く役に立たないことを痛感し、タジタジになるばかりだった。
しかし、そんな日々の中で三人の間にも確かな変化が生まれていた。初めはレンを巡るライバルとして互いを牽制しあっていた彼女たちだったが、共に食卓を囲み、領地の子供たちと遊び、アルバート家の不器用な家族模様に笑い合ううちに、いつしか奇妙な友情が芽生え始めていた。
ある晴れた午後、リシアが庭で育てている花壇の手入れをしていると、セリナとエレノアがやってきた。
「リシア、それは何という花だ? 帝国では見かけないな」
「これは、アルバート家に古くから伝わる『陽光の涙』という花ですわ。…セリナ様も、エレノア様も、よろしければ一緒にいかがですか?」
三人は、土の匂いに包まれながら、他愛もない話に花を咲かせた。好きな食べ物のこと、故郷のこと、そして少しだけ、レンのこと。その光景は、まるで昔からの姉妹のように自然で温かいものだった。
レンは、屋敷の窓からその光景を眺めながら、静かに微笑んでいた。王都の英雄としての「レナード」でも、孤独なゲーマー「レン」でもない。ただの「レナード・アルバート」として、家族や仲間、そして領民たちに囲まれて過ごす時間。それは、彼がこの世界に転生して、初めて手に入れた、何物にも代えがたい宝物だった。
彼の本当の強みは、FPSの知識や「軌跡の刃」の力ではない。この温かい絆を守りたいと願う、その心そのものなのだ。
次の戦いがいつ訪れるのかは分からない。だが、レンはもう何も恐れてはいなかった。守るべきものがある人間は、誰よりも強くなれる。彼はこの穏やかな日常の中で、その真理を深くそして確かに実感していた。アルバート家の領地に流れる時間は、レンとその仲間たちに、次なる戦いへと向かうための、最も大切な力を与えてくれていた。