それぞれの「戦場」
アルバート家の領地に流れる時間は、王都のそれとは明らかに異なっていた。秒針の刻む音さえ聞こえそうな静寂と、鳥のさえずりや人々の笑い声が織りなす穏やかな協奏曲。
レンはこの地で、軍事顧問という重々しい肩書を一時的に脱ぎ捨て、一人の領主後継ぎ「レナード・アルバート」としての日常を送っていた。そして、彼を追ってきた三人の少女たちもまた、この陽光あふれる土地で、自らの心と向き合う、それぞれの「戦場」に立っていた。
<リシア・アルバート: 最初の理解者という誇り>
リシアにとって、兄レナードは世界のすべてだった。
幼い頃、剣も魔法も苦手で誰からも期待されず、屋敷の裏庭で一人、黙々と石を並べて奇妙な陣形を組んでいた兄の孤独を知っているのは自分だけだという自負があった。
その孤独な背中を守りたい、支えたい。
それがリシアの原動力であり喜びだった。
しかし、王都から英雄として凱旋した兄の姿は、リシアの心に小さな影を落としていた。
領民たちは、兄を「若様」「英雄様」と呼び、その一挙手一投足に歓声を上げる。子供たちは、まるで伝説の騎士を見るかのように、キラキラとした瞳で兄を見つめている。
兄がみんなに愛されている。その事実はもちろん嬉しい。嬉しいはずなのに、胸の奥がチクリと痛むのだ。かつて、自分だけが知っていた兄のすごさを、今では誰もが知っている。自分だけの兄様が、みんなの英雄様になってしまったような、一抹の寂しさ。
(お兄様が、こんなにたくさんの人から必要とされて、愛されている……それは、私にとって、何よりも誇らしいことなんだ)
王都でレンが脚光を浴び始めた時、一度は気持ちの中に閉じ込めた感情…だが、家族、使用人達、故郷の領民、リシアが幼い頃から知っていた人々の兄への掌返しのような賞賛を目の当たりにして、リシアは複雑な想いに駆られていた。
そんなリシアの心の機微を、レンは敏感に感じ取っていた。
ある日の午後、レンはリシアを誘い二人で昔よく遊んだ小高い丘へと散歩に出かけた。眼下には、黄金色に輝く麦畑と、活気を取り戻した村の風景が広がっている。
「すごいな…」
レンが呟いた。
「俺がやっていたことは、ただのゲームの真似事だったのに。それが、こんな風に本物の景色になるなんて」
「兄様は、すごい方ですもの。当然ですわ」
リシアは、少しだけ拗ねたように答えた。
レンはそんな妹の横顔を優しく見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「みんなが俺を英雄だって言ってくれる。正直、くすぐったいけど嬉しいよ。でもな、リシア」
レンはリシアのほうに向き直り、その瞳をまっすぐに見つめた。
「俺が、屋敷の裏で一人で石を並べていた時、誰もが俺を馬鹿にしていた。父上も、兄上たちも。でも、リシアだけは、いつも隣で『兄様、すごい!』って言ってくれた。あの時、お前が俺のやっていることを信じてくれたから、俺は自分のやっていることが間違いじゃないって思えたんだ」
その言葉は、リシアの心の奥深くに、温かい光のように染み込んでいった。
「みんなに知ってもらえて嬉しいんだ。でも、それと同じくらい、リシアが最初に俺を信じてくれた、ってことも、みんなに知ってほしい。お前が、俺の最初の、そして最高の理解者なんだってことを」
リシアの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
それは、寂しさの涙ではなかった。
兄の中で自分が誰よりも特別な存在なのだと再確認できた、喜びの涙だった。兄を独り占めしたいという子供っぽい独占欲は、いつしか、兄がこれほど多くの人々に愛されているという事実への、誇らしい気持ちへとあらためて昇華していた。
「はい、兄様…! リシアは、いつまでも兄様の一番の理解者ですわ!」
太陽の光を浴びて輝く兄の横顔を見上げながら、リシアは強く誓った。
この人を支えることが自分の幸せなのだと。
そして、この人の隣に立つ自分もまた誇り高い存在なのだと。
彼女の小さな戦場は、温かい陽光の中で輝かしい勝利の瞬間を迎えたのだった。
<セリナ・ヴァルクス: 武力で測れない強さ>
ヴァルクス帝国の姫騎士セリナにとって、強さとはすなわち武力であった。磨き抜かれた剣技、揺るぎない闘志。
それこそが戦士の価値を決定づける絶対的な指標だと信じて疑わなかった。だからこそ、自分を赤子のようにあしらったレンの戦術に衝撃を受け、彼をライバルと定めたのだ。
アルバート領に来てからも、彼女の行動は一貫していた。毎朝、夜明けと共に叩き起こし、手合わせを願う。しかし、レンは「今日は畑仕事を手伝うから」「今日は村の集会があるから」と、のらりくらりとかわすばかり。剣を交えるどころか、まともに訓練の時間さえ取ろうとしない。
「レナード! 貴様、王都での勝利に驕っているのか! 戦士が鍛錬を怠るとは、それでも私のライバルか!」
業を煮やしたセリナが詰め寄ると、レンは困ったように笑って言った。
「ごめんごめん。でも、今日は領民と話す大事な日なんだ。これも俺にとっては大事な戦いなんだよ」
戦い? 領民と話すことがなぜ戦いなのだ。
納得のいかないセリナは、その「戦い」とやらを確かめるべく、レンの様子をこっそりと観察することにした。
村の広場に集まった領民たちに、レンは一人ひとり丁寧に声をかけていた。腰の痛みを訴える老婆の話に真剣に耳を傾け、水路の補修について男たちと意見を交わし、子供たちが作った歪な形の泥団子を「すごいな!」と褒めてやる。そこに、剣も魔法も、ましてや「軌跡の刃」の力など微塵も介在しない。ただ、対話があるだけだ。
セリナは、初めは退屈そうにその光景を眺めていた。しかし、時間が経つにつれて、彼女は異様な事実に気づき始める。
領民たちの表情が、レンと話すうちにみるみる明るくなっていくのだ。
不安そうな顔をしていた老婆は、レンに肩を揉まれて安心したように笑い、難しい顔で議論していた男たちは、レンの提案に納得して力強く頷いている。子供たちの笑い声は、広場全体を包み込んでいる。
ある時、村の少年が隣村の子供との些細な喧嘩で仲間外れにされ、泣いているのをレンが見つけた。レンは、無理に仲直りをさせようとはしなかった。ただ少年の隣に座り、彼の悔しい気持ちを、うん、うんと頷きながら聞いてやった。
そして、こう言ったのだ。
「そっか、悔しかったな。でも、お前が本気で謝ったら、きっとあいつも許してくれる。お前は、そういうことができる強い奴だって、俺は知ってるぞ」
その言葉に、少年は顔を上げ涙を拭って走り去っていった。その背中には確かな決意がみなぎっていた。
セリナは雷に打たれたような衝撃を受けていた。
あれは、戦いだ。
武器を交えない、もう一つの「戦場」。
レンは、力で人を従わせるのではなく、人の心に寄り添い、その心を掴むことで問題を解決している。人々が彼に寄せる信頼、尊敬、そして愛情。それらが、彼の部隊の圧倒的な結束力を生みレオンハルト王子の完璧な論理さえも打ち破る力となっていたのだ。
セリナは、自らの未熟さを恥じた。自分は、武力という物差しでしか人の価値を測ることができなかった。
だが、レンは違う。
彼は、戦闘だけではない人々の心という広大な戦場を完全に掌握している。
これこそが彼の真の強さなのだ。
その日から、セリナは無理に手合わせを強要しなくなった。代わりに、レンが領民と話す輪の中に少しだけ離れた場所から加わるようになった。武力だけでは測れない「リーダー」としてのレンの姿に、彼女はライバルとしてだけでなく、一人の女性としてより深い尊敬と焦がれるような愛情を抱き始めていた。
<エレノア・アークライト: 『笑顔』というデータ>
元密偵エレノア・フォン・アークライトは、論理とデータの信奉者だった。
感情という不確定要素を排し、効率と合理性のみを追求すること。それが、彼女がレオンハルト王子から学んだ唯一の生存戦略だった。
レンの軍師となってからも、その基本理念は変わらないはずだった。
アルバート領の復興計画を任された彼女は、その能力を遺憾なく発揮した。土地の生産性、人口分布、労働効率、財政状況。あらゆるデータを収集・分析し、完璧な復興計画書を一夜にして作り上げた。
水路の最適なルート、作物の効率的な輪作計画、税収の最適化。その計画は、誰が見ても非の打ち所のない、完璧なものだった。
自信満々で計画書をレンに提出したエレノアに、しかし、レンは意外な言葉をかけた。
「すごいな、エレノア。完璧だ。でも…」
レンは、計画書のある一点を指さした。
「この計画には、『笑顔』というデータが抜けている」
笑顔? エレノアは眉をひそめた。
笑顔などという非論理的で数値化できないものを、どう計画に盛り込めというのか。
「まあ、見ててよ」
レンはエレノアを連れて、彼女が計画した新しい水路の建設予定地へと向かった。そこには村の子供たちが秘密基地として使っている、大きな古い木があった。
エレノアの計画では、その木は効率を優先するために伐採されることになっていた。
レンは、子供たちを集めて言った。
「みんな、すごい計画があるんだ。この村をもっと豊かにするために新しい水路を作る。でも、そうすると、この木を切らなきゃいけないかもしれないんだ」
子供たちの顔が、一斉に曇った。
「えー! やだ!」
「この木、大好きのに!」
レンは、その反応を見て頷くと、エレノアに向き直った。
「これが、俺の言った『笑顔』のデータだよ。エレノアの計画は、確かに効率的だ。でも、この子たちの笑顔を奪ってまで手に入れた豊かさに、どれだけの価値がある?」
エレノアは言葉に詰まった。
彼女の完璧な計画は、村の未来を豊かにするはずだった。しかし、その過程で今ここにある幸せを破壊してしまう可能性に全く気づいていなかった。
レンは、村の長老や親たちも交えて、話し合いの場を設けた。エレノアは、自らの計画の優位性を論理的に説明しようとしたが、長老は「その木は、わしらが子供の頃からの遊び場でのう…」と昔話を始め、母親たちは「子供たちの楽しみを奪うのは忍びない」と懸念を示した。
非論理的で、非効率な意見ばかりだ。
しかし、その意見にはデータには決して現れない人々の「想い」が込められていた。
最終的に、レンの提案で水路は少しだけ遠回りするルートに変更され、古い木は残されることになった。
効率はわずかに落ちる。しかし、その決定が下された時、広場には子供たちの歓声と、大人たちの安堵の笑顔が溢れた。
その光景を目の当たりにして、エレノアは自らの内側で何かが変わっていくのを感じていた。完璧なデータだけでは、人は動かない。
人の心を動かすのは、論理ではなく、共感や想いやりといった、温かい「何か」なのだ。
レンは、それを知っていた。そして自分にそれを教えるために、あえてこの場を設けたのだ。
屋敷に戻る道すがらエレノアはレンに小さな声で言った。
「レナード様…私の計画に、新しいデータを追加してもよろしいでしょうか」
「もちろん。どんなデータ?」
「…『領民の笑顔の数』、これを最重要目標値として設定します」
そう言ったエレノアの表情は、いつもの無機質なものではなく、ほんの少しだけ柔らかく微笑んでいるように見えた。彼女は、このアルバート領でデータ化できない「人間性」という、最も大切な成長を手に入れたのだった。
リシア、セリナ、エレノアが領地という穏やかな環境で
レンとの関係をより個人的に、そして人間的に深めていく姿を描けたらいいな、と思いました。
少し長くなってしまいましたが、お付き合いいただけたら嬉しいです。




