エレノアの決意
エレノアがレンに接近したのは、決して偶然ではなかった。
彼女は王族の遠縁という表向きの顔の裏で、王位継承権を持つ第3王子、レオンハルトに仕える密偵だった。
レオンハルトはレンの持つ異質な「戦術」の危険性に気づいていた。従来の貴族や騎士団の常識を覆すその力は、使い方次第では王国の秩序そのものを破壊しかねない。彼はエレノアに命じた。レンの戦術の全貌を解明し、可能であればその知識を奪い、あるいは彼を排除するように、と。
エレノアは知的な好奇心と王子への忠誠心からこの任務を引き受けた。彼女の知的な誘惑は、レンの戦術をより深く探るための巧妙な罠だった。リシアの純粋さ、セリナの情熱も、彼女にとってはレンを分析するためのデータに過ぎなかった。
(この男、本当に底が知れない。私の知るどの戦術書にも、彼のような考え方は記されていない)
エレノアはレンとの「戦略会議」を重ねるうちに彼の戦術が単なる知識の羅列ではないことに気づき始めた。それは、仲間への信頼や、勝利への純粋な情熱、といった人間的な要素に裏打ちされたものだったのだ。
ゼノス公爵が失脚した後、レンが他の貴族から厄介な依頼を受けセリナと模擬戦で激しい訓練をした後、3人はレンの屋敷で夕食を囲むことになった。
リシアが作ったシチューは、見た目も素朴で王宮の食卓に並ぶような洗練された料理とはかけ離れたものだった。
「エレノア様、どうですか? お兄様の好きなシチューなんです」
リシアは不安そうにエレノアの顔を覗き込んだ。エレノアは、その純粋な眼差しに一瞬言葉を失った。
(データによれば、この料理はカロリーと栄養価が低い。貴族が食すようなものではない)
頭の中では冷静な分析が繰り返される。しかし彼女の心は、リシアの不安げな表情に今まで感じたことのない「胸のざわめき」を覚えた。
リシアは、不安と期待が入り混じった瞳でエレノアを見つめていた。その純粋な眼差しにエレノアの心は一瞬、揺らいだ。彼女が今まで接してきた貴族の令嬢たちは、皆、地位や権力に固執する者ばかりだった。
だがリシアは違った。
彼女の行動のすべては、ただ兄を想う無垢な愛情から生まれていた。
彼女は一口シチューを口にした。それは特別な味がするわけではなかった。だが、体が温かくなり心が安らいでいくのを感じた。それは王宮の豪華な食事では決して味わうことのできなかった「温かさ」だった。
「…とても、美味しいです」
エレノアは生まれて初めて心からそう告げた。リシアはその言葉に満面の笑みを浮かべた。その笑顔は、彼女の完璧な心を少しずつ溶かしていく。
またある日、エレノアはセリナとレンが模擬戦をしている様子を見ていた。セリナは、レンの奇抜な戦術に翻弄され悔しさに声を荒げていた。
「卑怯者! なぜ、正面から戦わない!?」
セリナの言葉は、感情的で非論理的だった。
エレノアは最初はその行動を理解できなかった。
(なぜ、感情に任せて行動する? それは論理的思考を放棄している)
だが、レンがセリナに言った言葉にエレノアはハッとした。
「正面からぶつかるだけが戦いじゃない。だが、俺はお前との戦いが一番好きだ。お前は俺にない情熱とプライドを持っているからな」
レンはセリナの感情を弱点として捉えるのではなく、強みとして認めていた。そして、その感情を自分の戦術に取り込み、彼女の力を最大限に引き出そうとしていた。それはエレノアの「人間は駒である」という冷たい論理を根底から覆すものだった。
(彼らは、ただのゲームの駒同士ではない。互いを信じ、支え合う…本物の仲間、なのだ)
エレノアは、レンとリシア、そしてセリナが築き上げてきた、かけがえのない絆を目の当たりにし、自分の任務がその美しい関係を壊しかねないという事実に、罪悪感を覚えるようになった。
彼女の頭の中は、レンとリシア、そしてセリナとの間に生まれた、「温もり」という予測不能な「データ」でいっぱいになっていた。
(私は、彼らのように、心でつながる関係を、築きたい…)
彼女は初めて、誰かのために自分の能力を使いたいと、心からそう願った。それは任務でも論理でもなく彼女自身の「感情」だった。
そしてレンが他の貴族から厄介な依頼を受けた時、彼女の心は決定的になった。
「エレノア、君の知識が必要だ。君にしか解けない謎なんだ」
レンは彼女の知性を心から信頼し手を差し伸べてくれた。それは、誰の指示でもないレン自身の純粋な信頼だった。その言葉にエレノアの心は初めて任務ではない彼女自身の意志で動いた。彼女は王子の命令を忘れレンのために古代の文献を読み解くことに没頭した。
依頼を解決した後、レンはエレノアに心からの感謝を伝えた。その温かい眼差しに、エレノアは今まで感じたことのない胸の高鳴りを覚えた。
彼女は、これまでの人生で誰かのために自分の能力を使うことはあっても、仲間として、そして一人の女性として、これほど満たされた気持ちになったことはなかった。
その夜、エレノアは王都の屋敷に戻ることを躊躇した。第3王子に、レンの戦術の全貌と彼を排除するべきかを報告しなければならない。だが彼女は報告書を破り捨てた。
(彼は王国にとって危険な存在ではない。彼が求めているのは破壊ではなく勝利とそして仲間との絆だ)
エレノアは、レンが持つ「戦術」の真髄はその知識ではなく、それを活かす心にあると悟った。そして、その心に彼女は惹かれていた。
翌日、エレノアは王子の屋敷ではなくレンの元へと向かった。彼女の顔には任務に縛られていた時とは違う、穏やかな決意が浮かんでいた。
「レナード様。わたくし、あなたの戦略会議にこれからも参加させていただけますか?」
彼女の言葉はもはや密偵としての接近ではなかった。それは、完璧な駒として生きてきた彼女が初めて自分の意志で歩み出した、「人間」としての第一歩だった。
一人の女性として、そしてレンの仲間として彼との関係を築き直したいという、彼女自身の願いだった。
レンは彼女の言葉に嬉しそうに微笑んだ。その笑顔は、エレノアの心をもう二度と離さないだろう。彼女は、第3王子の刺客としてレンの敵となるはずだった。だが、彼の温かさとリシアとセリナの存在が彼女の心を溶かし新たな感情を芽生えさせた。
このことが露見すれば第3王子を敵に回す事になる。
彼女本来の地位や立場がなくなるだけでは済まないだろう。
「それでも構わない」
エレノアは小さく呟いた。




