第一話:電子の眼(アイ)の瞬き
大阪府警AI制御室
第一話:電子の眼の瞬き
新御堂筋を流れる光の奔流は、2030年の大阪が生きている証だった。
かつての喧騒は、6Gの精密な統制によって静謐なリズムへと変換され、すべての車両は時速60キロという絶対的な規律に従って、一糸乱れぬダンスを踊っている。
その規律を乱す「ノイズ」は、瞬時に排除される運命にあった。
「……ついてねえな。たったの5キロだぜ? 65キロなんて、この新御の流れに乗りゃあ普通だろ。これくらいの誤差、見逃してくれたっていいだろ、クソが」
新御堂筋の側道。本線の美しい光から切り離された暗がりに、一台の軽自動車が力なく停まっていた。運転席で毒づく男の顔は、ダッシュボードに据え付けられた「後付け型AI-ETCユニット」のインジケーターによって、不気味な緑色に照らされている。
男の目の前には、一人の警官が立っていた。
その肩口、ウェアラブルAIカメラの黒いレンズが、男の苛立ちを、呼気に含まれるわずかなアルコール成分を、そして皮膚から剥がれ落ちたDNAの断片を、リアルタイムで地下の「脳」へと送信していた。
「制限速度60キロに対し、65.2キロを計測。誤差ではありません」
警官の声は、防護マスク越しに無機質に響く。
彼は事務的な動作で、小型の黒い端末を男に差し出した。
「免許証、ここに当ててください」
「……わかってるよ。わかってりゃいいんだろ。どうせ逃げられねえんだからよ」
男は震える指で、古い免許証を端末に押し当てた。
ピッ、という短い電子音。
その瞬間、男の脳内では到底理解できない速度で、一連の「精算」が完了した。
日銀発行の暗号資産ウォレットから、反則金が自動的に引き落とされる。
男のスマートフォンの通知画面が明るく灯った。
『納付完了。現在の累積点数:2点。安全運転を心がけてください』
その懃懃無礼なメッセージは、男が抱いた「5キロの不満」など、この街の平和を維持するための端数に過ぎないことを告げていた。
「ターゲット、精算完了。解放します」
そのやり取りを、大阪府警本部地下3階、AI制御室のメインモニターで見つめていた町田由美は、細い指先で眼鏡のブリッジを押し上げた。
彼女の眼前に広がる120枚のモニターは、大阪という巨大な都市の「内臓」だ。
そこには今しがた検挙された男の氏名、年齢、DNA登録番号、そして今年開業したばかりのカジノリゾートでのギャンブル履歴までが、容赦のないグラフとなって表示されている。
「町田くん。今の男のボヤキ、聞いたかい? 『たった5キロ』だってさ」
背後から、サミエル・大貫の声がした。
コーヒーカップを片手に持つ彼は、FBIで培われた鋭利な知性と、どこか場違いな憂いを含んだ瞳でモニターを見つめていた。
「法は法です、管理官。新御堂筋の60キロ制限は、この街の循環を維持するための絶対的な数式です。2030年の大阪に、情状酌量の余地など存在しません」
「厳しいね。でも、彼が車外に吐き捨てたあの唾液……DNAセンサーが検知して自動罰金を課す前に、警官が『風邪でも引いているのか』と声をかけていたら、彼はもう少しこの世界を愛せたかもしれない」
サミエルが指差す先。
モニターの中で、男の車が発進していく。
男は一度も警官の目を見なかった。警官もまた、次の「異常数値」を探すために、すでに視線を別の光の粒へと向けていた。
「管理官、私は『人間』を信じるためにここにいるのではありません。この街から、一件の事故も、一人の犠牲者も出さない。そのために、この瞬時の精算があるんです」
由美はキーボードを叩き、男のデータをアーカイブへと放り込んだ。
画面上には、再び「大阪府内平和指数:99.8%」という、潔癖なまでの数字が浮かび上がる。
その時、制御室の空気が、鋭いアラート音に凍りついた。
「町田さん! 本線、高度150メートルの監視ドローンが異常を検知。……速度、計測不能。120キロを超えて加速中の『空白』があります!」
由美は目を見開いた。
モニターの中、整然と並ぶ光のダンスの中に、一つだけ「何も映っていない場所」が、弾丸のような速度で移動していた。
「……また、幽霊ね」
サミエルがコーヒーを置いた。
2030年の大阪。完璧に管理された祝祭の街に、一筋の「闇」が走り抜けた。




