冷たい夢
——スラム街——:???
「……い、………おい、聞こえてんのか?」
男性の大人びた、低い声に、私は意識を引き戻された。
ろくに眠れないこの場所で、重い瞼をゆっくりと開く。
目だけを動かして見上げると、そこには黒いスーツを着た見知らぬ男が二人、立っていた。
「——よ———つが、例——能を————す」
「——か、こ———が」
「—娘と——には———い状—です——ね」
何を話しているのだろう。風の音に紛れて、言葉がよく聞き取れない。
二人の目つきは、どこか鋭く、少し怖い。
真剣に言葉を交わしているのは分かるが、私の耳にはその内容までは届かない。
そう思っていた、その瞬間だった。
片方の男が急にしゃがみ込み、私の顔を覗き込んできた。
「おい、お前。名前は」
今度は、その声がはっきりと聞こえた。
けれど、それが私に向けられたものなのかは分からない。
わからない。
名前なんて、知らない。
言葉に詰まり、私は口をぱくぱくと動かした。
無意味だと分かっているのに、その視線の圧に耐えきれなかった。
そんな時、それまで様子をうかがっていたもう一人の男が、目の前の男に声をかけた。
「ここにいる奴らに、名前なんてありませんよ」
「それもそうか……」
目の前の男は、あっさりと身を引いた。
それでも、その視線だけは私から離れない。
そして淡々と告げる。
私の、新しい名前を。
——これから大嫌いになる、私の名前を。
「お前の名前は、今日から———」
* * *
第01頁『何やら冷たい夢を見た気がする』
——夜西邸「静寂の間」——:???
「——様、蘭様。聞こえていますか?」
耳元で、側近の低い声が響く。
その声に導かれるように、私はゆっくりと意識を浮上させた。
暗闇に慣れていた目には、朝の光があまりにも眩しい。
滲む視界の中、私は静かに側近へ顔を向けた。
「……お嬢様、お目覚めください。朝食のご用意が整っております。お着替えのうえ、すぐにホールへお越しくださいと、旦那様がおっしゃっておりました」
少しきつめの口調の彼女は、不満げにこちらを見下ろしていた。
普通の令嬢であれば、側近のくせにその態度は何事かと咎めるところだろう。
だが、私はそれを指摘できない。
下手に口答えでもすれば義父上に言いつけられ、その時点で私の人生は終わる。
「……承知しました。すぐに向かうと義父上にお伝えください。それと、あなたは自分の仕事に戻って構いません」
「承知しております。最初から、そのつもりでおりますので」
なるべく相手を不快にさせないよう気を遣ったつもりだったが、どうやら逆効果だったらしい。
おそらく、私の顔など見たくもないのだろう。
彼女はすぐにこちらへ背を向けると、スタスタと部屋を出て行った。
「最初は慣れない生活にもどこか新鮮さを感じていたけれど、そろそろそれにも飽きてきたな……」
私はため息混じりに、固いベッドから身を起こした。
* * *
——夜西邸「広間」——:???
今日は朝から、どうにも体調が優れなかった。
理由もなく鳥肌が立ち、妙な寒気が肌にまとわりついている。
何やら、冷たい夢を見ていた気がするのだ。
私は軽い目眩を覚えながらも身だしなみを整え、そのまま広間へ向かった。
側近も伴わず一人で向かうには、少々荷が重い。
ほんの少しだけ、歩幅が小さくなる。
(令嬢らしく振る舞え。浮かれるな。静けさを乱すな)
それが、私の中のルールだった。
心の中でそのルールを反芻しているうちに、気づけば広間の入口へ辿り着いていた。
私は小さく息を整え、ゆっくりと前へ進み出す。
手を前で組みながら、私は場違いなほど愛想よく微笑んでいたのだろう。
私に気づいた姉たちは、眉をひそめ、あからさまにこちらを睨んできた。
「ちょっと、何をそんなにニコニコしているのよ?私たちを待たせているんだから、もっと急ぎなさいよ」
(そう言われましても……。わざと集合時刻を遅く伝えたのは、あなたたちでしょうに)
私は、彼女の言葉に呆れるしかなかった。
彼女の名は夜西リン。17歳。
かの有名な夜西財閥の令嬢である。
「そうよ。何を突っ立っているの?早く席に着きなさいよ」
そう急かしてきたのは、夜西リンの妹——夜西レン。17歳。
二卵性の双子だというのに、顔つきも性格も驚くほどよく似ている。
私は二人に急かされるまま、端に置かれたひときわ地味な椅子へ腰を下ろした。
「さて——全員揃ったことだし、朝食を始めようじゃないか」
そして今、目の前で涼しい顔をしながら口を開いているのは、私の義兄。
リンとレンの兄でもある、夜西シン。18歳だ。
彼らは、日本でも指折りとされる財閥——夜西家の子息と令嬢たちだ。
三人は、名家の子息令嬢が集う私立高校へ通っている。……そして、私も。
私の名は夜西ラン(仮)。16歳。
私は、この財閥に拾われた。
理由は知らない。けれど、どうせ大したものではないのだろう。
——いや。正確には、聞かされていない。
よほど秘匿すべき事情なのだろう。
血筋だとか、そういう類の話かもしれない。
「おい、何をぼんやりしている。今日は父上と母上が出張から戻られる日だぞ。気を抜くな。さっさと食べて、お前は部屋へ戻っていろ」
八つ当たりだろうか。
いつもは、こんな口調ではないのに。
などと考えながら、私はどこか物足りなさを覚えてしまっていた。
私はそんなことをぼんやりと思いながら、視線を落とした。
机の上に並べられていたのは、豪華とは程遠い——申し訳程度の野菜だけが載った木製の皿。
さすがに、成長期の真っ只中だというのに、これは少なすぎる。
——いつから、こんなことになったのだろうか。
私は思考を巡らせ、拾われたあの日まで記憶を遡らせた。




