第23話 虹の橋が渡る前
あの土砂降りの雨が降る前、ボクは泣いていたのかもしれない。
ディルナは、ふと、そんなことを思う。
悪い魔道師に記憶を抜かれたせいもあり、奴隷の身となって、どのくらいの月日が流れたのか、既に良く分かっていなかった。
月日を数える余裕など、全くなくて、身の丈に全く合わない仕事を命じられて、満足にこなすこともできない日々だった。
いつか必ず逃げだそうと、決して逃げられない身の上で夢想していた。
屋根裏部屋の窓から、時折、雪の舞う、妖精界の景色を眺めながら、これが夢なら、絶対に醒めないで欲しいと、切に願っている。
地下室の片付けをするために、鍵をポケットに入れて、しっかりカーテンを閉めると、ディルナは階段を下って行った。
「レルシュト様、地下室の片付けしてきますね」
「ああ、ご苦労さま。無理しすぎるんじゃないよ?」
居間に顔を出して、レルシュトに挨拶すると、黒猫の顔は、優しい笑みを浮かべてディルナに言葉を返す。
「はい。大丈夫です! 片付け、とっても愉しいです」
「だからこそ、無理をしすぎないようにな。ディルナが戻ってきたら、お茶にするとしよう」
レルシュトは、いつも、そんな風に、ディルナが夢中になって時の経つのも忘れてしまうのを、先回りして防いでくれている。
「ディルにゃの膝で、お昼寝したいにゃ」
「これこれ、ザージュ。ディルナを困らせてはいけないよ」
「大丈夫ですよ、レルシュト様。ザージュ様、お茶の時間の後でなら、お膝、貸しますよ」
ディルナは、ザージュの言葉にも、レルシュトの言葉にも癒やされながら、地下室へと向かっていった。
奴隷の身であった時、ディルナを遊郭に売る、という話が、ちらと聞こえた時には、奴隷の身から抜け出せるだけでなく、逃げ出す最大の機会に違いないと心待ちにもした。
遊郭に売るのに、こんな枷類は絶対に邪魔だから、外して貰えるはずだ、とばかり思っていた。お風呂にも入れて、綺麗な服も着せてもらえる。そうしたら、自由になって逃げることができる、と、思い込んでいた。
また、あの悪い魔道師の手によって売られるのだと知るまでは――。
地下室の鍵を開けて足を踏み入れる。
片付けは途中のままだが、小物が散らばることは無くなっていたので、だいぶ整頓のメドはついてきた感じだ。
紙の入った箱と、羽ペンと、インクとをテーブルに出して、それから、テーブルの上に山積みの小物を端から一つずつ手元に置く。
それは、ペンダント・ヘッドのようで、大きめな不透明で紺地に金粉が舞っているような宝石が、綺麗な金の装飾に取り巻かれている。装飾の上の方には、鎖を通せそうな輪がついていて、宝石の上の方には、同じ宝石の質感で蓋のようなものがついている。
小さな紙を左手で軽く抑え、羽ペンにインクを付けて右手に持つと、文字を書き出した。
「ギオドウの住処」
ディルナは首を傾げる。説明を聞いてみようと、大きめな紙を取り出して羽ペンを翳す。
「『ギオドウ おねがい』で姿を現し、ご主人さまの言うことを聞く。『ギオドウ ありがとう』で住処に戻る」
紙に書き、
「ギオドウ おねがい」
まで声に出して読んだ途端に、宝石の上の蓋が開き、ぼわっ、と、煙が沸いたかと思うと、煙の中から、厳つい髭面の大男が現れた。
「うわぁ、吃驚!」
「ご主人さま、何かご用でしょうか」
「いや、ボクは、ご主人さまじゃないよ? 小物の片付けをしているだけだよ。あなたは、だあれ? ええと、ギオドウさん? この宝石に住んでいるのかな?」
「わたしくの名前を、お呼びになりましたので」
筋肉質で半裸の大男は、丁寧に礼をした。
「ええと、きっと、そのうちに、あなたは本当の、ご主人さまに逢えると思うんだ。だから、注意事項、記しておこうと思うんだけど? 何が得意とか、ありますか」
大男の出現に吃驚しながらも、ディルナの頭の中は、小物の片付けをすることで一杯だった。
「わたくしは、荷物持ちしかできませぬ。ただ、攻撃はできませんが、魔法での防御は得意でございます」
「わかりました。ギオドウさん、教えてくれてありがとうございます」
「では、さらば。また逢おうぞ」
ディルナが、礼を言った途端に、ギオドウは煙となりつつ、蓋を自らの手で閉めて宝石の中へと戻ってしまった。
ディルナは蓋の閉まった宝石を見遣りながら、ああ、ここが住処なんだな、と、小物の名前に納得していた。
説明の紙には、
「荷物持ちが得意。攻撃はできないが、魔法での防御ができる」
と、自分の言葉で書き加え、
「用事が全部済むまでは、ありがとう、と言わない方がいいかも。住処に戻ってしまうから」
更に、少ししてから、その一文も、自分の言葉で付け加えた。
そして暫く紙に羽ペンを翳していると、
「なくしても、名札のある場所に戻る。なくして、名札も消えていれば、妖精界の海に沈む」
注意書きが、添えられた。それ以上、書き込みは無いようなので、ディルナは羽ペンを置く。
「ああ、吃驚した」
それから、改めて、驚きに、胸がドキドキしっぱなしだったことに気付いた。
少し大きめな宝石なので、単独で入れられる、綿が敷かれている透明の蓋付きの小箱を見つけてきて、「ギオドウの住処」と、名札を手前に置き、説明の紙は畳んで宝石の後ろに置いた。
「後で、レルシュト様と、ザージュ様に、お話したら、きっと驚くだろうなぁ」
棚の見やすい位置へと、透明の蓋付きの箱に入れた宝石を飾りながら、ディルナは呟いた。
地下室の片付けも、書庫の探索も、編み物も、どれも、ディルナがワクワクして、やりたいことになっている。
自分のやりたいことを、自由にすることができる生活ができるなんて、思ってもいなかった。
レルシュトは、愉しく過ごすように、とは言うけれど、何も命じはしない。
下僕、という立場になってはいるが、扱いは家族に近いのかもしれない。
悪い魔道師の呪縛は、今は、ほとんど感じられない。
消せない枷ですら、レルシュトの力で、綺麗な飾りになっている。枷から変わった綺麗な宝石の嵌まった首飾りは、既に、ディルナにとって、レルシュトから貰った掛け替えのない宝物に変わっていた。




