雨が降ったら
あのあと、アルブレヒトに追いついた騎士団やヴィルヘルムの手により、アルブレヒトとシャルロットは王城に運ばれた。
シャルロットに使われたのは、一種の睡眠薬だった。酒と一緒に飲ませることで酩酊させ、その間に洗脳するというのがクロヴィスのとった手法らしかった。
クロヴィスの手により洗脳されていた人々は保護され、今はアインヴォルフ王都の療養施設で治療を受けている。彼らの顔は、家出や駆け落ちとして処理された書類の写真と一致した。
だけれど、治療を受けても正気を取り戻すことができるかは、本人の体力と気力にかかっていた。
現に、マルティナを瀕死の状態にまで追いやった二人は今も目を覚ませば自死しようとする。ならば、どうしてあの日屋敷にいた人々が、わずかにでも理性を取り戻したのか。
わずかに言葉を話せるようになった、クロヴィスに失敗作として扱われた青年が言った。
――歌が、聞こえたんだ。
――忘れたくなかったことがあった、それを思い出して……。
――でもな、おかしいんだよ……それがなんだったのか、思い出せないんだ。
――ああでも、ほんとうに、ほんとうに、優しい歌だった。
落ちくぼんだ目で涙を流し、医務官に語った青年は、少しずつ体から薬を抜く治療をしているらしい。
まだ、おぼつかない言葉を話せる程度だが、彼が家族のもとに帰ることのできる日も遠くないだろう。
その犯人であるクロヴィスは、今は王城に存在する地下牢に放り込まれていた。
片腕はなく、全身の骨が折れたクロヴィスは、それでもアルブレヒトとヴィルヘルムが現れると、這いずるように牢の端に逃げ、唾をまき散らして吠える。
――お前らのせいだ!ぼ、ぼくは優秀で、なのにお前らが全部かっさらっていく!僕は王族の血を引いているんだ!
――くそ、くそくそくそ!ここから出せよ!死ねよ!!王になるのは僕だ!
――いつもマルティナばかり!マルティーズだ?主人を得た栄誉を自慢したいのかよ!
ティーゼ騎士団長は、息子のこのような面に気づかなかったことを泣きながら詫びた。
母を早くに亡くしたからだとか、長男だからと自身がマルティナほど気にかけずにいたせいだとか、劣等感を植え付けてしまったのはそのせいだとか、そんな言い訳を一切せず。
団長の座を辞す。命をお返しする。そう言ってきかぬティーゼ侯爵を押しとどめたのはアルブレヒトだ。
――まだ、この国にはあなたが必要だ。
そう言ったアルブレヒトに、彼はどう思ったのだろう。
ぐうとうなるように涙を押さえつけ、そうして熊のような顔をくしゃくしゃにして、は、と跪いた彼は。
この国において、ミドルネームというものは神聖なものだ。それが仔犬姫の末裔であるという証だから。
直系のヒュントヘン家は当然のように持ち、健国王の末裔たる王族は、その名の代わりに愛犬を持ち、王妃のように他国から嫁いできた以外で持つものはいない。ティーゼ侯爵家は、心から敬愛した主人に名づけられて初めてその名を得る。
クロヴィスにミドルネームはない。もしかしたら、学園でアルブレヒトらを睨んでいたのは、それを妬ましく思っていたせいなのかもしれない。
犬を憎悪するクロヴィスは、その実、自身こそ犬を神聖なものとみなしていたのだろうか。考えは進めど、歪んでしまった今では、想像することしかできない。
「アル、もう三日だぞ。休め」
「シャロが起きたらな」
「ッ、お前が死んだら、元も子もないだろ」
アルブレヒトの握る、シャルロットの白い手には包帯がまかれていた。
青白い顔は、その美しさも相まって人形のようだ。規則的に上下する胸だけが、彼女が生きている証だった。
致死量の薬を飲まされ、ぎりぎりで一命をとりとめたシャルロットはしかし、それから三日間、ずっと眠ったままだった。
一生目覚めないかもしれない。高名な医師は言う。
それでも、寄り添っていけるならそれでよかった。シャルロットが死ねば、迷いなく命を絶とうと懐には短剣を忍ばせている。
あの日、クロヴィスに首を絞められ、それでも抵抗していたシャルロットは、生きることをあきらめていなかった。間に合わなかったのはアルブレヒトだ。
どれだけ後悔し、どれだけ慟哭しても現実はかわらない。
「雨が、降ったら」
アルブレヒトがつぶやいた言葉に、ヴィルヘルムは怪訝な顔をして、せめてアルブレヒトが楽になるようにと持ってきたクッションを椅子に押し込んだ。
「雨?……そういえば、ここ三日間、雨だな」
そういうヴィルヘルムの目は赤い。ヒュントヘン家の愛すべき末娘、シャルロット。この雨は彼女を想って泣くものの涙なのだろうか。
ならば、アルブレヒトの目から静かに零れ落ちる雫も、その雨の欠片なのかもしれない。
「雨が降ったら、晴れになるんだ」
「それ、オベイロン国の古い歌だったか。歌詞が少し違う?」
「歌詞を、忘れてな。こじつけで繋げたんだ。シャロによく歌っていた」
「だからシャルロットはあの歌だけ音痴なのか」
はは、とヴィルヘルムが顔を覆って笑った。がらがらの声は、相変わらず涙で焼けている。
「大丈夫だよ、アル」
ヴィルヘルムが、震える声で言った。
「ヒュントヘン家の仔犬姫は、約束をやぶったこと、ないんだぜ」
「――ああ」
アルブレヒトは短く答えた。
――アルブレヒトさま、あなたを、愛しているの。
かすかに聞こえた告白と、生きようともがく姿が目に焼き付いている。
シャルロットは守られると約束した。生きることをあきらめなかった。
約束を守れなかったのは、アルブレヒトで。だからこそ、ヴィルヘルムの言葉を理解しているのだ――それこそ、誰よりも。




