月の光
馬を駆り、アルブレヒトが西の森に到着したのはシャルロットが居なくなって幾ばくかが過ぎた頃だ。
ティーゼ領は王都に隣接している。だが、かといって広大な森を、たったひとつの邸を探すために走るのは非効率に過ぎた。
馬が木々の間を走り抜ける。身を低くしたアルブレヒトが視線を見回しても、それらしきものは見つからなかった。
焦燥感ばかりが募る。
シャルロットを救い出す。それだけのことすらできない自分が憎くてならなかった。
「シャロ、どこにいるーー」
手がかりはなく、返事もない。辺りが暗くなってきて、焦りばかり先走り、アルブレヒトの五感を狂わせる。
ドッ、と音を立てて、馬が止まる。疲れゆえか、息が荒い。
アルブレヒトは、足元に咲いたチューリップや水仙といった花々を見下ろした。それらはこの国に自生しないもので、クロヴィスが集めているもの。
もう、ほんの近くのはずなのにーー。
アルブレヒトが、もう一度シャルロットを呼ぶ。返事がこないことはわかりきっていた。それでも呼ばずにはおられなかった。
シャルロットの存在をなぞるように。
ーーわすれ、ないで。
それは突然のことだった。
歌が聞こえたのだ。か細い声が、必死に紡ぐ歌。アルブレヒトははっとして、馬から降りて歌の聞こえるほうへ走る。
木々の間をくぐり抜け、茂みを踏み越えーーそうして、花々によって巧妙に隠された、生け垣のようななにかを見つけた。
アルブレヒトは迷わなかった。進む、進む、進むーー。葉で頰が切れた。走りすぎて息が苦しい。それでも止まらない。その果てに、その光景はあった。
開け放たれた扉。くすんだ金髪が、その下の淀んだ緑を囲って爛々と輝かせ、何かを押さえつけている。
その下に見えるのはーー銀に少しこげ茶の入った、幻想的な色合いのすべらかな髪で。
アルブレヒトの中に存在する何か、人として必要な何か重いものが、音を立てて、切れた。
初夏の夜の、生ぬるい風が空の曇りを押し退け、そこにあった白光を遮るものがなくなった。
月の光を背に受けこちらを睥睨する黒い人影は、溢れる怒気を抑えることすら放棄し、シャルロットを押さえつける獣を見やる。
青い光がこちらを見つめ、冴え冴えとしたその色に鈍色の殺意を滲ませ、爛々と輝いているのをシャルロットは見た。
「あ……?」
獣が自分の腕のあった場所を見て不思議そうに首を傾げるーーそうして。
「あ、あああああ!!!僕の、僕の腕、腕が、腕がァあ!!」
金属の擦れるような耳障りな音が、獣を中心に響き渡った。
金の髪が、肩口から吹き出した汚らしい赤に濡れる。シャルロットは、朦朧とした意識をなんとか繋ぎとめようとして息を吸った。
「か、は」
ひゅうひゅうと鳴る喉はうまく息を吸ってくれない。
アルブレヒトがシャルロットの元に駆け寄ると、獣は後ずさりながら悪態をついた。
「シャロ」
「こ、の、このこのこのこの!!駄犬!貴様の!貴様のせいで!」
アルブレヒトが視線を向けると、ヒィ、と腰を抜かす獣。
脆弱な、その姿はよくよく見ると人と似た形をしていた。
「ぼ、僕は、愛犬を持つんだ。そ、そしたらヒュントヘンもティーゼも目じゃない、ぼ、僕が王!王にな、なる!へは、へ、そ、そしたら、犬を皆殺しにして、僕を除け者にしたやつらを、へへ、あはは!」
「クロヴィスーー黙れ」
ひくっと、クロヴィスと呼ばれた獣が顔をひきつらせる。
アルブレヒトの手に握られた抜き身の剣が、月光を反射して煌めく。
「お前の御託などどうでもいい。聞く価値すらないーーシャロに、手を出したな」
アルブレヒトがシャルロットの頰をそっと撫でる。ぴりりとした痛みが走り、アルブレヒトの手を赤いものが汚した。
うまく声が出せなくて、シャルロットがひく、としやくり上げるような音を出したのを見て、アルブレヒトははっと息を呑んだ後、悔いるように顔を歪めた。
「クロヴィスーー楽に死ねると思うな」
振り返り、煌煌と輝いた青い瞳がクロヴィスを射抜く。
それは、憎悪よりなお濃い、烈火のような感情に満ち満ちて。
「ひ!……で、でも、この屋敷にはまだ僕の犬がいるんだ、アルブレヒト、お前がしね、死ねよ!!ーー殺せ!!駄犬ども!!」
その声とともに、ゆらりと歩み寄ってくる人影がシャルロットのぼやけた視界に入る。
アルブレヒトが剣を構えた。
「ひゃはは!多勢に無勢だな!アルブレヒト!跪け!命乞いしろ!死ね!!死ね死ね死ね!死ねよ!!」
やめて、この人を傷つけないでと、シャルロットが動かない体に動けと命じる。けれど、薬と酒の回った体は息すらまともに出来やしない。
それでも、シャルロットはただ必死で願った。
クロヴィスがいびつな声で笑う。死ね!と、まるで子供のように。
だが、いつまでたっても幾人もの人影は動かなかった。
「な、なんだ、なんで、動かない!」
クロヴィスが狼狽したように叫ぶ。血混じりの唾が飛んで、悪態を汚らしく飾った。
それでも動かない、犬と呼ばれた彼らは、ふいに、力の抜けたように膝をついた。
そうして、誰からともなく、呟く。
「かえりたい」
「おかあさん」
「いたい」
「くるしいよ」
彼らは、犬ではなかった。焼けただれた顔、青あざのある腕、縛られた足ーー傷つけられ、薬漬けにされた彼らは人間だった。脅かされた幾人もの人間が、壊れたように涙を流している。
「たすけて」
シャルロットとそう変わらない少女が呟いた。ゆらりゆらりと、クロヴィスに向かって歩いていく。
それに気づいてか、他の人々もクロヴィスへ近づく。その手を、握りしめて。
「やめろ、な、なんだお前ら、育ててやったのは誰だと思ってる、み、未来の王の役に立てるんだぞ?ひ、くるな、くるなよ……やめ、」
やめろ、と声がした。
打撲音にかき消された悲鳴はしばらく響いていた。けれどやがて小さくなって、最後に重いものを引きずる音が遠ざかっていった。
ほうと息を吐いたシャルロットに気づいて、アルブレヒトが目を見開く。
「シャロ……?」
シャルロットは、なんだかとても眠たかった。
閉じていくまぶたを止められない。だから、アルブレヒトの胸に頰をすり寄せた。いつか、幼いシャルロットがそうしたように。
「シャロ、息をしてくれ、頼むから」
アルブレヒトの声が聞こえる。けれど、どうしても瞼が重くて、上げることができないのだ。
「逝かないでくれ、シャロ、目をーー……」
ごめんね、シャルロットは沈んでいく思考の中でささやく。
雨が晴れたら。その続きを思い出すことは、もう、できなかった。
ちゃんとハッピーエンドになります。




