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あなたを愛しているから

はっと目を覚ましたシャルロットの視界を埋め尽くしたのは、一面の白百合。

百合の花粉がシャルロットが纏う桃色のドレスを黄色く汚す。シャルロットは今にも叫びだしそうな自分を必死で押さえつけた。

ここがどこかわからない、けれど、おぞましい部屋だということは理解できた。

シャルロットは、一面に白百合の敷き詰められた部屋の中央――クッションを敷き詰めた椅子の肘あてに両腕を縛り付けられていた。

むせかえるような百合の匂いに震えが走る。シャルロットは人だけれど、シャロの時に百合は危険だと何度も教えられていた。


「けほ、」


背が軋む。逃げようともがくことを、このおびただしい百合の花が拒んでいる。

シャルロットは、それでも腕に力を込めた。――その時。

シャルロットの正面の扉。そのドアノブがくるりと回るのが見えた。扉が開く。


「ん?ああ、起きたのか、僕の忠実な愛犬」

「あなたの愛犬、ですって?」


クロヴィスが、シャルロットの言葉を拾って、その通り、と唇をゆがめた。

それを運んできたのだろう。瓶を掲げ、シャルロットに向かって何か紫色の汁の満ちたグラスを差し出し、クロヴィスは相変わらずにたにたと笑って見せた。


「飲みなよ。君ももう成人だろう?ワインというんだ。とてもおいしい」


シャルロットの拘束された腕を見ているのに、シャルロットに手を出せというクロヴィスが恐ろしい。やせぎすの体、つやのない金髪に、こけた頬。その中で、暗い緑の目だけが爛々と輝いている。


「ほら、ほら」


焦れた様に、クロヴィスがシャルロットの口元にグラスを押し付ける。嫌だと、首を振って拒否するシャルロットの柔らかな頬が、乱暴につかまれた。


「好き嫌いはだめだよ、シャルロット・シャロ。僕の愛犬」

「か、ぁ」


無理やりに流し込まれた液体から、葡萄の匂いがしてくらくらした。

吐き出そうとするのを許されず、口を押さえつけられる。息ができないから喉を動かして、それでようやく解放されると、喉の奥がカッと熱くなるのを感じた。


「さあ、シャルロット・シャロ。お薬の時間だ。これを飲むんだよ」


差し出された粉末に、本能的な危機を感じて、シャルロットは唯一動かせる足をばたつかせた。靴の角がクロヴィスの足に当たってうめき声が聞こえる。とても眠くて、寝てはいけないことがわかっているのに、ぼんやりした頭はうまく動いてくれやしない。


「ッ、は、反抗的な犬だ。最初は許してあげよう、ねぇ」


だけどお仕置きはしようね、と、ぎらついた目をした男がシャルロットの頬を張った。


「う、あ」


ひりつくような痛みが走る。舌を無理に引き出され、その上になにかさらさらしたものがばさっとぶちまけられるのを感じた。


「さあ、お飲み、僕の愛犬。シャルロット・シャロ。君は僕の犬――愛犬、なんだよ」


頭がぼんやりする。愛犬――この人はだれだろう。揺れたような頭では、思考がまとまらない。頤をぐいと持ち上げられ、紫の汁が注がれた。

いやだ、いやだ、助けて……。

シャルロットは涙を流してもがいた。その拍子に、腕が縄にこすれて赤い傷ができる。

――痛い。びりびりとしびれるような感覚が、シャルロットをわずかにとどまらせた。


「い、いえ。わたしは、アルブレヒトさま、の、愛犬だもの、あなたのものに、ならない」


痛みで現実に引き戻されたシャルロットが、うつろな目をして言った言葉に、クロヴィスは何か叫んでいた。

次いで、頭の上になにかがびしゃびしゃとこぼされた。紫の視界、甘ったるい、葡萄の匂いと、百合の白が空々しい。

シャルロットは、ぐっと力を込めて、腕を痛めつけた。赤が見える。それに無性に安心した。

シャルロットが、シャルロットでなくなってしまうような気がする。

目の前の男――クロ……ああ、名前が思い出せない。

狂気的な言葉がシャルロットの身にまとわりつく。お前は僕の愛犬だ、犬になれ、と。

何を言われているのか、どんどんかすんでいく思考ではそれも理解できない。

けれど、ここで踏ん張らねば、シャルロットは大切なものを失うのだ。

それはなにより恐ろしいことで、いっそ死んでしまえたら楽だとすら思える。


「あ――……」


生きて、と金髪の少女の声が聞こえた気がした。

黒い髪をした、やわらかな笑顔の青年の顔が浮かんでは消える。

そうして――歌を、思い出した。


「わ、すれ、ないで」


音程も何もない、不安定な音の羅列。

シャルロットの口からこぼれ出た旋律に、目の前の男はうろたえたようだった。


「シャルロット・シャロ、何を言って……」

「わすれ、ない、で……おぼえて、いて」


パン!シャルロットの頬に熱が走る。痛みで意識を少しだけ取り戻せた気がして、頬の熱さにかまわずシャルロットは歌った。


「わたし、わすれ、ない……雨が、降ったら」

「黙れ!!黙れよ!この駄犬!」


男が、シャルロットの手に、何かを持ったこぶしを振り上げる。

――雨が、降ったら。そう言ったのは、誰だっけ。

パリン!音がして、ぱっと飛び散ったのは、赤い花びら。これは、命の色だ。


「あ、ああ、血、血が、ああ。僕の、手も、痛い!痛い痛い、痛い!」


血でぬめった手を、縄から抜くのはたやすかった。縛り方が甘かったのだろう。もう片方の手も、角度が変わったせいか、ずるりとシャルロットの手を開放する。

男がなにかわめいている。それをどこか遠くに聞きながら、シャルロットは走りだした。開いたままの扉を通り、とにかくここではないどこかへ走った。

脳が揺れる。視界がけぶる、鉄の臭いが鼻をつく――それでも、死ぬよりずっとましだった。


「わたし、生きて――生きて帰るの、あなたの、ところに」


――雨が降ったら。

ねえ、そう言ったあなたの、顔が曇って見えないの。

四本ない足では走ることすらおぼつかなくて、毛皮のない体はひどく寒い。

牙もないから抵抗もできず、鳴き声はいつだって涙を伴う。

どうして、わたしは、犬じゃないの。


その時、何かにぶつかったシャルロットの華奢な体を、丸太のような男の手がつかみ上げる。

――よくやった、失敗作!

後ろで何かが聞こえる。それでも、シャルロットには、もう関係などなかった。


床にたたきつけられて、シャルロットの上に獣のような男が馬乗りになる。

汚らしい金の毛が、シャルロットに近づいて、腐ったような息を吹きかけた。

それでも、それでも――ああ。何のためにもう一度生まれたのか。それをもう、シャルロットは知っていたのだ。とっくの昔に。答えは胸の中。あたたかい感情――恋しいよりもっと抽象的で、ただひたすら、悲しいほどに透明なそれがあることを、とっくに、わかっていた。


シャルロットは、男を押し返すことをあきらめなかった。いいや、もう、意識なんてほとんどなかった。

それでも――それでも、生きて、彼の隣にいることを、シャルロットは、もう、けしてあきらめなどしなかった。

何のために、ひとになったのか。それは、単純な理由だった。

見えないどこかへ手を伸ばす。朦朧とした意識の中、激高した獣がシャルロットに吠えて――首が絞められるような感覚がシャルロットを襲う。


ここで死ねない。だからシャルロットは「生き汚い」と獣に罵倒される中、必死に息を吸いこもうとしてもがいた。

――ただ、一緒に居たかっただけなのだ。だって、シャルロットは――シャロは。


「アルブレヒト、さま。あなたを、愛しているの……」


かすれた声が、空気を揺らす。熱いものが頬を濡らした。

獣の絶叫が響きわたる。

――刹那、冴え冴えとした月光が、獣の腕を、跳ね飛ばした。


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