二十
実際の『玉藻前』と、この作品に出てくる『玉藻前』はまったく関係ありません。名前が同じの別人(?)です。
「異能力……と言ったか? 実に懐かしいな。……だが妾の前では、その程度の力は何の意味も成さないぞ? 人の子よ」
狐の耳と尾を生やした美女は、嘲笑いながら、床に這い蹲っている不隠を見下した。
「そ……んな……」
不隠は立ち上がろうとするが、全身が床に縫い付けられているかの様に重く、少しも動かせない。全身が熱く、意識も朦朧としてきた。
迂闊だった。神の血を半分も引き継いでいる彼女でも、神力解放を連続で行う事は出来ない。最低でも一時間程度のブランクは必須だ。
先程雲雀を気絶させる為に解放したのが運の尽き。この事態を想定している筈も無い不隠は、出来る筈も無かった予想をしなかった過去の自分が、憎らしくて堪らない。
「妾は今機嫌が良い。だからすぐには殺さない。……だが少しでも機嫌を損ねたら、そなたの華奢な身体は一瞬で粉々だ」
玉藻前が、不隠の頭を踏みつける。
「が、あああっ……‼︎」
「ククク、やはり人の子を踏むのは心地が良い……。ふむ、六百年振りの故郷だ。妾をあんな退屈な世界に閉じ込められた腹癒せも含めて、軽く一万人くらいは無惨に殺してやろう。そうしよう。妾は有言実行する女だ。すぐにやろうすぐ殺ろう! ……ククク、アヒャヒャヒャッ‼︎」
何とかしないといけない。でも、自分では何も出来ない。
このまま彼女を地上に出せば、関係の無い人間が大勢死ぬ。理由なんて無い。ただ彼女が殺したいと思っているからだ。
玉藻前は、幾万の罪人の魂と、幾千の病魔の魂が集合して出来上がった化物だとされている。
過去に一度、『殺生石』という石に封印したのだが、強過ぎる力に耐えきれずに僅か二年で崩壊。激怒した彼女は、八つ当たりで、殺生石の置かれていた町に住んでいた全ての人間の皮を剥ぎ、殺した。
それから七年。天災として現世に君臨し続けた玉藻前は、『ある者』の手によって、誰も居ない『無の世界』に飛ばされたのだ。
それにしても、数ある世界の中で、まさか玉藻前の居た世界に飛ばされていたとは。安中重音も運の悪い……あれ?
「……重、音さん……は?」
力を振り絞って、玉藻前に問う。答えてくれない可能性の方が高いが、それでも訊かずにはいられなかった。
玉藻前は首を傾げ、顎に人差し指を乗せた。普通の美女なら可愛いと思える仕草だが、彼女がやると恐ろしさを禁じ得なかった。
「重音? 安中重音か。彼女なら、今ここに居るでは無いか。……まさかそなた、名前は知っているのにその容姿は知らなかったのか?」
「…………え」
彼女の言う通り、不隠は安中重音という女性と五年前に起きた事件の事は知っていたが、肝心の彼女の容姿は知らない。
まさか玉藻前の今の姿が、安中重音の容姿?
玉藻前は自分の胸を軽く揉みながら、口を開いた。
「彼女には流石に驚いた……。妾の居る世界に来たかと思えば、「私は貴女を愛している。だから、私の身体を使って欲しい」と懇願してきたのだからな。六百年生きてきた妾でも、まさかそんな言葉を投げ掛けられるとは思わなかった。……事実は小説よりも奇なり、と言ったところか」
揉む手を止め、不隠を踏みつけていた足を退けた。
「無駄話が過ぎたな。……さて、そろそろ殺すとしようか」
右手を顔の位置まで上げる。不隠の頭上に黒い瘴気を纏った剣が顕現し、降りかかった。
もう終わりか。自分の死を悟り、無意識に目を瞑る。今広がっている暗闇が一生晴れる事が無いのだと思うと、悲しくてたまらない。
せめて最後に、母に頭を撫でられたかった。
……しかし剣は、先端が背中に触れた時点で止まった。その剣を操る玉藻前が止めたのだ。
「……おや、中々に奇異で興味深い存在だな。まるで様々な物を入り混ぜた『闇鍋』だ」
手を下げ、剣を消滅させる。
彼女の視線の先には、二つの人影があった。裁川千歌とクーニャだ。
「なあ。そなたは一体、何者なのだ?」
「それを貴女に教える義理はありません……‼︎」
「ククク、そう強がるな人の子よ……いや、そなたは人では無いか……」
「…………」
「まあいい。とにかく妾は、そなたに興味が湧いた。そなたを殺したらどうなるか。そなたの皮を剥いだらどうなるか。気になって仕方が無くなった。この妾の興味の対象に選ばれたのだ。名誉な事だぞ? ほら、喜ぶがよい」
怖い。目の前に居る彼女が、恐ろしくて堪らない。全身が小刻みに震え、脳が逃げる事を一生懸命に伝えてくる。
しかしそれでも、引く訳にはいかない。ここで引いたら、自分は自分自身を許せなくなってしまうから‼︎
「……生憎ですが、貴女の相手は私じゃありませんよ」
拳を握り締め、恐怖の対象に向けて口を開く。話すだけで一苦労だ。そんな相手と今から戦わなきゃいけないのかと思うと、嫌気がさしてくる。
玉藻前は、千歌に向けていた視線を、隣のクーニャの方にずらした。
「なるほど、吸血鬼か。……良いだろう、久し振りに全力を出したいと思っていたところだ。そなたの様な人ならざる者が、準備体操には丁度良い……。だが、妾をあまり退屈させるなよ?」
「……ッ‼︎」
クーニャが一歩前に出る。彼女もまた、極度の緊張状態に陥っていた。手が小刻みに震えているので、アイラが音を鳴らして振動している。
「まずは肩慣らしだ。受け取れ、妾の祝福だ」
玉藻前が右手を払う。彼女の周囲の空間が歪み、そこから黒い瘴気を纏った無数の剣が生えた。そしてクーニャ目掛けて、弾丸の様に放つ。
「行くぞ、母さん……」
『わかったわ……‼︎』
いつも強気なアイラも、珍しく弱気だった。
魔剣を素早く振り、迫る剣を的確に打ち落していく。
玉藻前の放つ剣が纏う瘴気は、体内に入れると不治の病に確実にかかり、数分で死に至ってしまう。不隠が動けなくなったのも、この病を発病してしまったからだ。
少しでも気を抜けばこちらの負け。いつも以上に精神を張り巡らせなければ、その先に待っているのは死だけだ。
「行くぞ…………化物ッ‼︎」
クーニャが剣を構え、玉藻前に向けて突進する。
「化物か……良い響きだ……」
口元を歪める玉藻前。
「だが、女に向ける言葉では無いな」
地面が歪む。そこから一本の黒い棘が伸び、クーニャの胴体を突き刺した。
「がッ……⁉︎」
自分に何が起こったのか、クーニャは最初理解が出来なかった。
「クーニャさん‼︎」
『クーニャ‼︎』
千歌とアイラの悲鳴が響く。
「安心しろ、殺しはしない。何せ妾は、手に入れた玩具は完全に壊れるまで遊ぶ性分。殺すのは、死ぬ事すら至福であると感じる程の地獄を与えてからだ」
棘が引っ込み、クーニャは地面に倒れ伏した。大量の血が流れ、赤い池を形成する。
「まさか、この程度で終わりとでも言うのか? ……所詮は吸血鬼。人の子如きに滅ぼされてしまう哀れな種では、妾を満足させる事は出来ぬという事か……クククククク」
彼女は嘲笑う。目の前で倒れた吸血鬼を。吸血鬼という種そのものを。
遠くなり始めた意識の中で、クーニャは確かに怒りを覚えた。
自分が蔑ろにされるのはいい。かつての仲間達を馬鹿にされた事が、何より許せなかった。アイラもまた同じだ。
「取り……消せ……」
両腕に力を込め、身体を起こそうとする。腹部から感じる痛みが増した。
「取り消す? 何をだ」
「私の……仲間達への侮辱を……だ……‼︎」
深い傷口に自らの手を入れ、凍らせる。荒療治だが、これで血は止まった。痛みも感じない。
「……なるほど。そなたは自らの為では無く、仲間の為に怒りを露わにする性分の持ち主か……。ふむ。そういった類の愚者は、今も存在して居るのだな」
足場を蹴り、再び玉藻前へ接近。剣を振りかざした。
「はああああああッ‼︎」
「怒りに任せた一撃か……悪くない」
迫り来る刃。玉藻前は右手に作り出した黒剣で軽々と受け、止めた。そして夏に扇風機の風を受けている少女の様に、涼しげな顔をする。
「しかし、妾を傷付けるにはあまりに脆い」
クーニャの周囲。三角形を描く様に現れた三本の黒棘が、彼女を串刺しにした。
「まだ、だ……‼︎」
痛みに耐えながらも手を伸ばし、玉藻前の身体に触れようとする。
「──っ⁉︎ 気安く、触るでないッッ‼︎」
突然焦燥感を露わにし、その手を叩いた。
「……?」
クーニャは、彼女の今の行動に違和感を覚えた。
彼女は、重音の身体に触れられる事を嫌がっているのか……?
「離れろ‼︎」
玉藻前が、右手をクーニャの胸の辺りに翳す。手の平から漆黒の衝撃波が発生し、彼女を後方へと吹き飛ばした。
「吸血鬼如きがこの身体に触れるとは……。ククク、これは少し機嫌が悪くなってきたぞ」
頭を抱え、表情を憎悪に歪ませる。
身体を起こそうとしていたクーニャを、無数の歪みが円を描く様に取り囲んだ。そこから出て来るのは、当然ながら瘴気を纏った剣。
幾らクーニャでも、全方位から飛んでくる剣を捌く事は出来ない。能力で周囲に氷を展開したところで、容易く貫通してしまうのは目に見えている。
絶体絶命とは、まさにこの事だ。
「妾の機嫌を損ねた罰だ。──早々に死ね」
彼女の頭に、『死』の一文字が過る。
剣が動く。他でも無い、捉えた獲物を屠る為に。
しかし剣は、命一つ奪う事が出来なかった。
何故なら何処からともなく現れた黒い球体がクーニャを包み込み、剣から護ったからだ。
「……本当に都合良く現れるな、人の子は」
玉藻前は苛立ちを隠せない様子で、新たな乱入者に向けて言った。
「悪いわね、玉藻前。貴女が地上に出られたら、私の可愛い可愛いアヤちゃんにも被害が及ぶ。黙って見ている訳には行かないのよ」
視線の先。腕を組んで仁王立ちしているのは、漆黒のゴシックロリータに身を包んだ美少女──霧島清廉。
「知ってるかしら、化物。この街では、貴女なんか精々中ボス程度なのよ?」




