小渕詩織の視点
小渕詩織は、数歩先を無言で歩く男の背中を見つめながら、いまだに自分がなぜこの男と二人きりで行動しているのか、不思議でならなかった。
樋口錬児。
デスゲームが始まる前、彼と特別仲が良かったわけではない。詩織がよく話していたのは、彼の親友である菅原宗政の方だった。教室での樋口は決して目立つタイプではなく、菅原の隣に座って、ときおり短い言葉を口にする程度だった。感情を表に出すこともなく、周囲と積極的に関わろうとする姿も、詩織の記憶にはほとんどない。
ただ、彼が頭のいい人間だということは、クラスの誰もが知っていた。
そして今、その頭脳は詩織が生き残るための最大の武器になっている。デスゲームが始まってからの樋口は、驚くほど的確だった。危険を予測し、移動経路を選び、チェックポイントを通過する手順を組み立てる。詩織が考えつくより早く、彼は次にすべきことを決めてしまう。口調は静かで、ときには優しささえ感じられた。だから詩織は、その指示に逆らうことなど、ほとんど考えられなくなっていた。
(……私、いつからこの人の言うことを、こんなに素直に聞くようになったんだろう)
ふと、道中で今井結衣、加藤涼香、栗原萌花、長峰葵たちのグループと遭遇したときのことを思い出す。
あのとき、本当は彼女たちのところへ行きたかった。女子同士で集まれば、心細さを一人で抱え込まずに済む。不安を口にして、励まし合うこともできたはずだ。それでも詩織は、樋口と行動することを選んだ。声をかけ、危険から守るように動いてくれた彼を、あの場で置いていくことができなかったのだ。
恩義だったのか、気の弱さだったのか、それとも樋口といた方が生き残れるという打算だったのか。どれが一番大きかったのか、詩織自身にもはっきりしない。
(……打算が、まったくなかったわけじゃないんだけどね)
心の中で苦笑する。詩織は決して頭が悪いわけではない。ただ、樋口のように複雑な状況を分析し、何手も先を読めるほど賢くもなかった。この島で生き残るには、感情だけで動くわけにはいかない。そう考えたとき、樋口のそばにいることが最善に思えたのだ。実際、ここまで生き延びてこられたのは、ほとんど彼の判断のおかげだった。ゲーム開始直後、パニックに陥っていた詩織に声をかけてくれたのも樋口で、あのときは本当に救われたと思った。
けれど、助けられたことと、相手を信頼できることは、必ずしも同じではない。
(……私、この人のこと、どこまで信じていいんだろう)
詩織は視線を落とした。樋口のことを考えると、どうしても思い出してしまう光景がある。クラスメイトたちの反応だ。
教室ではあれほど目立たなかった彼が、あの実験の件が知られてからは、周囲から距離を置かれる存在になっていた。彼が近くにいると急に口数が減る者がいた。目を合わせようとしない者もいれば、彼が立ち去ってから、ようやく張り詰めた空気を緩める者もいた。全員がそうだったわけではない。それでも、周囲の警戒心は詩織にも伝わっていた。
(……そりゃ、そうだよね)
冷たい汗が背中を伝う。あの残酷な実験で、リーダーを務めたのが、ほかでもない樋口錬児だったのだから。政府の承認のもとで行われた非人道的な実験。学校から選ばれた十人の中で、中心となって計画を動かしていた人物。それを知る者が彼を恐れ、遠ざけるのも無理はなかった。
樋口は、詩織に乱暴な態度を取ったことはない。落ち着いた声で必要なことを教えてくれるし、危険が迫れば的確に指示を出してくれる。だからこそ、わからなくなる。目の前にいるこの男は、本当に自分が教室で見ていた樋口錬児と同じ人間なのだろうか。それとも、詩織が知らなかっただけで、以前からこういう一面を持っていたのだろうか。
(……考えたって、わかるわけないか)
詩織は小さく息を吐いた。怖いことを考えれば考えるほど、足元から現実が崩れていく気がする。だから、意識を無理やり別の方向へ向けた。
思い浮かんだのは、島の外にいる彼氏のことだった。学校で一つ上の学年にいる、今の詩織にとって大切な人。
二人が知り合ったのは、伊藤桃香の紹介がきっかけだった。桃香に彼の話を聞かされ、半ば勧められるように顔を合わせたとき、詩織は緊張していた。どんな人かもわからないし、うまく話せる自信もなかった。ところが話してみると、思っていたよりずっと自然に会話が続いた。最初は探り探りだったのに、気づけば笑い合っていて、別れたあとも、彼との会話を思い返しては頬が緩んだ。やがて二人は付き合うようになった。いつもうまくいっていたわけではなく、ちょっとしたことで拗ねたり、意地を張ったりもした。それでも、彼と過ごす時間はかけがえのないものだった。
デスゲームに巻き込まれる直前の夜のことも、鮮明によみがえる。一緒にいるのが当たり前になっていた相手。触れ合う距離の近さも、交わした言葉も、二人きりの夜の親密さも、詩織には特別だった。彼の腕の中では、余計なことを考えずにいられた。明日も、その先も、同じような日々が続くと思っていた。それからほどなくして殺し合いへ放り込まれるなんて、想像すらしていなかった。
(……今頃、どうしてるんだろう)
突然いなくなったと知ったら、彼はどんな顔をするだろう。心配してくれているだろうか。それとも、何が起きたのかもわからず、途方に暮れているだろうか。考え始めると、胸の奥が締めつけられた。
もう一度会いたい。声を聞きたい。顔を見たい。そして何事もなかったように日常へ戻り、彼と一緒にご飯を食べて、くだらない話をして笑いたい。そんな当たり前の時間が、今はどうしようもなく遠かった。
(……絶対、帰らなきゃ)
詩織は唇を結んだ。帰りたい理由は、彼だけではない。家族も、友達も、まだやりたいことだってある。坂井莉乃とも、もう一度会いたかった。
莉乃は学校で何かと目立つ存在だった。歯に衣着せぬ物言いで、相手が誰でも遠慮なく毒を吐く。そのせいで、よくない噂は詩織の耳にもいくつも入ってきていた。けれど詩織自身は、莉乃をそこまで悪く思っていなかった。確かに口は悪いし、こちらが気にしていることをわざと突いてくることもある。それでも話していると妙に面白いのだ。意地悪を言った直後に、さりげなく気遣ってくれることもある。誰にでも優しいわけではないからこそ、ふとした親切が心に残る。詩織にとって莉乃は、悪い噂だけでは片づけられない同級生だった。
もっとも、莉乃が持ちかけてくる話には、昔から素直に賛成できないことが多かった。この島でも、再会したらまたとんでもない提案をしてくるかもしれない。そう思うと少し気が重い。
それでも。
(……会いたいな、莉乃にも)
本当に、もう一度会えるのなら。
そのとき、前を歩いていた樋口が、ふいに足を止めた。
「どうした、詩織。遅れているぞ、休むか」
振り返った彼の表情には、いつもと変わらない落ち着きがあった。静かで穏やかで、こちらを気遣っているようにも聞こえる声。けれど、詩織の胸には先ほどまでの不安がまだわだかまっていた。
「あ……ごめん。ちょっと考えごとしてた」
詩織は慌てて笑顔を作った。余計なことを考えていたとは言えない。まして、彼を信じ切れていないことなど、口にできるはずもなかった。
樋口は数秒、詩織を見つめていた。その視線に何を読み取ればいいのか、彼女にはわからない。やがて彼は何も言わず、再び前を向いて歩き出した。
詩織も、その背中を追う。
頼らなければ、生き残れないかもしれない。けれど、すべてを委ねてしまうのも怖い。相反する感情を抱えたまま、詩織は樋口の後ろを歩き続けた。胸の奥で、ただ一つの願いを繰り返しながら。
――絶対に、生きて帰る。
もう一度、大切な人たちに会うために。




