第百六十二話 二択だと思っていたのが間違いだった
中等学校に入学した十二歳の春のことは、今でも鮮明に覚えている。
朝、穏やかな陽気の下、故郷オークネルから長い山道をえっちらおっちらと下って麓の十字宿場にたどり着いた俺は、街の外れの辺りに見える白い建物を目指した。
俺が進学したのは公立の中等学校だった。だから入学試験はなく、学校見学などにも行っていなかった。その白い立派な建物にこれから三年間通うのだと思い込んでいたのはそのためだ。
幸いその誤解は、すぐそばまで来たところで背後からの声で否定された。
「そっちじゃないよ」
まだ若干のあどけなさが残る声だった。
振り返ると、俺と同じように真新しい制服に身を包んだ栗毛色のボブヘアーの少女が通学カバンを背負って立っていた。
「あれは初等学校の校舎だよ。中等学校はあっち」
物怖じしなさそうな笑顔を浮かべて少女が指さしたのは、白い校舎の向こうに隠れていた薄茶色の建物だった。
落ち着いて見ると、俺と同じ制服を着た者たちは確かにそちらの建物の方に歩いていっていた。一方、白い校舎に吸い込まれていたのは俺たちよりも年下の私服の子供たちだった。
入学早々に初等学校突入なんてしていたら、数週間は教室で揶揄われたことだろう。変なあだ名もつけられていたに違いない。
三年間の中学生活を道化として送る危機を救ってくれた少女に向けて、俺は頭を下げた。
「ありがとう。危うく大恥を掻くところだった」
「なーに、どういたしまして。君も新入生? 見ない顔だね。近くの村の子?」
それを聞くということは少女はこの十字宿場在住なのだろう。確かに都会っ子らしい垢ぬけた印象を受ける。
俺は山の故郷の方を指さした。
「あっちの山のオークネルってとこなんだけど……知らない、よね」
「知ってるよ! 二つの川に挟まれてるところでしょ? 去年の夏に友達がキャンプしに行ったって話してた。私も行ってみたいなーって思ってたんだ」
少女はちょっと嬉しくさせるようなことを言うと、ふと辺りを見渡した。
「友達と一緒じゃないの?」
「いや、恥ずかしながらオークネルはド田舎なんで、同じ年の友達は一人もいないんだ。いや、同じ年の友達がいないというか、同じ年の子がいない」
「え、そうなんだ! ちょっと寂しいね、それ。……けど、私にとっては好都合」
「好都合?」
怪訝に思って俺が首をかしげると、少女は両手の手のひらを合わせてにっこり笑顔を浮かべた。
「だって君の同い年の友達第一号になれるわけでしょ。私はアザレア・アンソール。君は?」
「ミレウス・ブランド」
「よろしくね、ミレウスくん」
少女から差し出された手を、俺は自然に握っていた。
――今思うと、あの時にはもう、彼女の笑顔に惹かれていたのかもしれない。
俺たちの学年は三クラスあったが、彼女とは同じクラスで席もすぐ近くだった。奇妙な縁だと二人で笑ったのを覚えている。
同級生の半分は彼女のようにこの街の在住者で、残り半分は俺のような近隣の村落からやってきた者だった。
同い年とほとんど接したことがない俺はその空間に多少とまどったが、彼女がこの街の初等学校から来た集団とのつなぎ役になってくれたおかげで、すぐに馴染むことができた。
クラス替えは毎年あったが、俺と彼女は三年間同じクラスだった。これも縁と言えば縁だろう。
元々人を楽しませるのが好きなほうだ。中等学校は自由な校風で校則も緩かったので、俺は友人たちと色々と馬鹿をやった。もちろん先生にこっぴどく叱られるくらいで済む範囲で。
校舎の裏の貯め池でザリーフィッシュを養殖したり、敷地内にあった冒険者ルドの銅像を偽物とすり替えたり、マラソン大会で集団脱走したり、夜に校庭に忍び込んで地上絵を描いたり。
そういうことをするとみんなが笑ってくれて嬉しかった。
そんな生活の中で、特にアザレアさんを笑わせることを目的に馬鹿をするようになったのはいつ頃からだっただろうか。少なくとも三年になる頃には意識していたはずだ。
俺はよく笑う女の子が好きだ。だからアザレアさんのことを意識するようになったのだと思ってたけど、もしかしたらそれは因果関係が逆で――初めて好きになったのがよく笑う子だったから、そういう好みになったのかもしれない。
☆
ギルヴァエン討伐戦が終わってから一週間が経った。
拡散魔王に覚醒したアザレアさんは依然として失踪したままで、後援者や円卓の騎士たちが懸命の捜索を続けているにも関わらず手がかり一つ得られていない。探知魔術も抵抗されて意味を成さず、盗賊ギルドもそれらしき人物の噂すら掴めていない。また魔王化現象を治療あるいは停止する方法や、悪性魔王とならずに済む方法も見つかっていない。
逆に彼女によって誰かが攻撃されたとか――殺されたとかいう報告もまだされていない。
つまりここ一週間、良くも悪くもまったく動きがなかったわけだ。
だがその間にも、彼女の魔王化現象が進行したのは疑いようがなかった。
深夜、王城の自室でベッドに横たわって目を閉じていても一向に睡魔は訪れなかった。代わりにアザレアさんとの思い出が頭の中に次々に浮かんでは消えていく。
彼女は今頃、どうしているだろうか。
王都の寄宿先にも十字宿場の実家にもアザレアさんが戻った形跡はない。
野宿でもしているのか、あるいは魔術で姿を変えてどこかの街の宿に泊まっているのか。現金は持っていなかったはずだが、やろうと思えば調達は容易いだろう。なにせこの第四文明期における最強の生物の一角、拡散魔王になったのだから。
思考は止まらず、睡魔はますます遠ざかる。
やがて俺は眠るのを諦めてベットを抜け出し、自室を出た。
王城の最奥に伸びる長い廊下。前にも後ろにも人影はなく、どこからも物音ひとつ聞こえはしない。俺に呼ばれればすぐに駆け付けられるところで当直の騎士が何人か詰めているはずだが、その気配もここまでは届かない。耳が痛くなるくらいに静かだ。
目的もなく俺は歩き出した。暗い廊下の角から、給仕用のカートを押して女中服姿のアザレアさんが今にも現れそうな気がする。実際には現われはしないし、角を曲がっても彼女の姿はない。
図書室、厨房、女中の控室。
意識しなくても、足は彼女がよくいた場所へ向く。無論、何も見つかりはしない。限りなく無益な深夜の散歩。
――と。
ふと廊下の窓から外を眺めると、王城で最も高い塔の屋上に人型のシルエットが一つあることに気が付いた。円卓の間がある、あの塔の上だ。
まさかと思ったが、俺はすぐに廊下を駆けだしていた。
塔の下にたどり着くと、息が上がるのも構わずに長い螺旋階段を駆け上がり、円卓の間の前を通り抜け、屋上へと続く最後の階段を上る。
その人物はこちらに背中を向けて端の方で一人佇み、満天の星空を見上げていた。
アザレアさん――ではない。
「……お前かよ」
俺はがっくりと肩を落とし、呼吸を繰り返して息を整えた。
そこにいたのは異形の赤騎士、レイドだった。放浪癖のあるこの男だが、今は大人しく王城に滞在している。
こちらの気配に気づいているだろうに、レイドは振り向きもしない。
このまま帰るのもなんなので、歩いていって隣に立つ。
「何してるんだ、こんなところで」
「月を見ている」
「月? 月なんてどこでも見られるだろ。なんでまた」
「地の底では見られない」
「そりゃ……まぁそりゃそうか」
ぐうの音も出ないほどの正論だった。
言葉を交わしてもレイドの視線は相変わらず夜空に向けられたままだ。
俺も同じように上を向く。
狩猟月に孔雀月に独裁月。
夜空に等間隔で浮かんで輝いているのは、いつもと何も変わらない月たちだ。十二の月はいつだってこの星の周りを回っている。
だが確かにレイドの言うとおり、地の底からは見られない。
こいつが生まれ育ったというその地底世界は、この地上の遥か下に葉脈のような網目状に存在しているという。地上から行くには大陸などにいくつかある大穴を通るしかない。地の底から地上へ来る場合も同様だ。
しかしこのウィズランド島からだと、最寄の大穴まででもとんでもなく距離がある。だから俺も含めてほとんどの島民にとって地の底は、あまりにも遠い世界だった。それこそ、あの空に浮かんでいる月と同じくらい遠くて無関係な世界。
現在このウィズランド島に、こいつ以外の地の底出身者はいるのだろうか。少なくとも俺は一度も出会ったことがないし、そういうのがいると噂に聞いたこともない。異世界からの来訪者であるナガレと大差がないくらいにレアな存在かもしれない。あるいは拡散魔王と同じくらいに。
これまでこいつとは色んな場所で会って、そのたびにいくらか会話をしてきたが、いつもすぐに逃げ去られてしまった。こんな風に落ち着いて話せる機会は初めてである。せっかくなのでもう少し色々聞いてみたい気分だった。
「地の底ってどんなところ?」
「辺りには致死性の瘴気が垂れ込め、空は分厚い岩盤に覆われて常に薄暗い。魔獣や妖魔、魔神に竜、ありとあらゆる高レベルの危険種が跋扈していて災害も多い」
すらすらと並べ立てた後、レイドはこちらを向いた。ザリガニのような顔の口元が僅かに緩んでいるように見えるが、ひょっとすると笑っているのか。
「とてもいいところだ」
「いいところか……?」
今の説明のどこにいいポイントがあったか分からないが。
「いいところなら、なんでわざわざ地上に出てきたんだよ」
「正義を成すためだ」
「……前に話してたな。『正義とはつまり、平和を乱す存在を討つことだ』って。よくは知らないけどさ。確か地の底にはお前が討ったのとは別に、悪性魔王が何人かいるんだろ? そいつらは倒さなくてよかったのか?」
我ながら意地の悪い問いかけだった。
だからかどうか知らないが、レイドはこちらの問いをまるっきり無視したかのように、唐突に別の話を始めた。いつもの真顔に戻って。
「我が討った魔王は、かつて我の友だった」
あまりの不意打ちに、返答に詰まる。
レイドは前に飛び出た二つの眼球でじっと俺を見つめて動かない。
夜のしじまが俺たちを包む。
今のレイドの言葉の意味を噛みしめ、どうにか問いかけを絞り出す。
「後悔してるのか。友達を殺したことを」
「違う。殺さなかったことをだ」
レイドは再び月を見上げ、話し始めた。
「友は魔王化現象を発症して正気を失う寸前、我に懇願してきた。『今すぐ俺を殺してくれ』と。あの頃の我は弱かった。躊躇ってしまった。アイツに生きていて欲しかったし、なにより友を殺すという罪悪感に打ち勝てなかった。結局そいつはそのまま人格を塗りつぶされ、完全な悪性魔王となってたくさんの人間を殺害した。本当にたくさんの人間が犠牲になった。やがてその力を危険視し始めた地の底の諸勢力はそれぞれ手練れを出し合い、魔王討伐パーティを編成した。志願し、我もその一員になった。全員が当時の我と同等かそれ以上の使い手だったが、十三人で挑んで、生き残ったのはたったの四人だった。十分に成長した拡散魔王を討伐するのはそれだけ困難なのだ。魔族への絶対命令権を駆使して勢力を築いた拡散魔王であればなおのこと。現実問題、百年以上君臨し続けているような拡散魔王たちには、中央神聖王国や勇者本家ですら手を出せずにいるではないか」
レイドは先ほどの俺の意地の悪い問いかけを無視したわけではなかったらしい。ただ結論の前に説明を持ってきただけで。
「我の友は死に際、我にこの異形の呪いをかけてから、ほんのわずかな時間だけ正気を取り戻した。そして話した。力を欲したために、魔の魅了に囚われたと。我一人の力では拡散魔王の一人も討つことはできない。ならば代わりに新たな魔王が生まれるのを減らそうと我は決めた。友の言ったとおり力を欲することが拡散魔王となる要因であるならば、力を欲する者を減らそうと考えた。では力を欲する者を減らすにはどうすればいいか。答えは平和だ。戦乱が弱き者を苦しめる。苦しめられた弱き者が力を欲する。実際、そのような経緯で拡散魔王となった者は多い。だから我は世界を旅して、平和を乱す存在を討ってきた」
「……聞いてるよ。色んなところで戦ってきたんだってな」
こいつがこの島にたどり着くまでに何を見て、何をしてきたのか。
断片的には聞いている。ある島では圧制を敷く皇帝に対して反乱を起こした民衆に力を貸したとか。たぶんそれ以外にも多くの正義を成してきたのだろう。
「少年、我はな。もちろん友に殺されてしまった人たちのことも悔やんでいる。だが一番に悔やんでいるのは、あいつにそうさせてしまったことだ。心優しい奴だった。人殺しなど到底できそうもない男だった。我があの時、あいつの願いを聞いていれば、あんなことをさせずに済んだのだ……」
深い悔恨を覗かすレイドの声。
こいつがこんなに感情を露わにするのは初めてだ。
レイドはまた俺の方を向き、言い聞かせるように一言一言力を込めて発した。
「アザレア・アンソール、あの少女のことを本当に想っているのなら、お前がしてやれることはなんだ」
俺はずっと誤解していた。
こいつはただ正義感や合理性からアザレアさんを討てと言っているのだと思っていた。
だが本当は、今の俺と同じ立場に立った経験を持つ者として、こいつなりの優しさでそう言っていたのだ。
それは俺への優しさであり、アザレアさんへの優しさでもある。
レイドは頭を振って、最後の説得に入った。
「友が魔王化現象を発症した後、それをどうにかする方法を我も探した。しかしそんなものはどこにもなかったのだ。他の拡散魔王の周囲の人間たちも同じように探したことだろう。だが見つけられた者は一人としていない。この島でもきっと同じだ。だから――」
自分と同じ過ちを繰り返すな。
たぶんレイドはそう続けようとしたのだろうが、それは口にはしなかった。
一週間前に先延ばしにした二択の選択を、俺は再び迫られた。
アザレアさんを殺すか、殺さないか。
レイドの真意を知った今、あの時とは俺の気持ちも変化している。絶対に取りたくない選択であっても、どれだけ俺が嫌であっても、それが彼女のためであるならば――。
……いや。本当にそれが彼女のためになるか?
レイドの友人とアザレアさんは違う。アザレアさんは『殺してくれ』なんて、死んでも頼まない。
目的のためなら死んでもいいとは思っているだろう。だが、それ以外の理由で死にたいと思うような人じゃない。
そう考えていると、何か答えを見つける糸口のようなものが見つかったような気がしてきた。
そうだ、もしかして。
「ちょっと待て。お前、拡散魔王の血を継ぐものが魔王化現象を発症しやすいってのはどうやって知った?」
「これまでこの世界に現れた拡散魔王たちを調べればわかることだ。それにこの本にもその可能性が書いてあったしな」
と、レイドが《物体召喚》の魔術で手元に召喚したのは、ずいぶんと古い書物だった。見覚えがある。
「お前、それ狂人ジョアンが持ってた古文書じゃないか!」
「ふむ? なぜ知ってる?」
「あー……聖剣が見せるんだよ。統一戦争の頃のことを夢として。それでジョアンが例の儀式装置を使うところを見たんだ。その時にそれを持ってた」
レイドは腰に帯びた魔剣レティシアの方をちらりと見て、何やらぼそぼそと言った。
しかし聞き取れない。
俺は古文書を指さした。
「それ、第二文明期の奴らが書いたものだろ?」
「そうだ。あの儀式装置の使用法なども書いてある」
「どこで手に入れた?」
「アーツェン家を魔王候補として調査した際に、蔵に忍び込んで拝借した。埃をかぶっていたから、長いこと存在自体忘れ去られていたのだろう。返す気はない」
「窃盗じゃねーか。お前も遵法意識がねえな……」
まぁそんな危険な装置の使い方が書いてある本ならば、蔵に眠らせておくよりこいつに持たせておいた方が安全かもしれない。
ともかく、レイドの答えを聞いて俺の中の閉塞感は崩れつつあった。
届きそうで届かなかった体の中の回路が繋がるような感覚。
いや、ひょっとしてこれは、本当にそういう“回路”があるのか?
俯いて黙りこくった俺を見て、レイドが珍しく困惑を示す。
「……なんだ? どうした、少年」
その問いにも答えず、俺は考え続ける。
魔王、アザレアさん、魔神ギルヴァエン、統一戦争期の夢、狂人ジョアン、儀式装置、魔王化現象を発症しやすい条件、聖剣、円卓、そして――。
分かった。
俺は顔を上げて、レイドに向けてきっぱりと言う。
「俺は諦めない」
「アザレア・アンソールを殺さないということか」
「違う。殺すか殺さないかなんていうクソみたいな二択から選ぶのを受け入れないってことだ」
レイドは驚いたように顔の左右に生やしたザリガニのようなヒゲをピクピクと動かした。
先ほどのお返しのように、言い聞かせるように一言一言、力を込めて言う。
「これは二択じゃない。少なくとも、俺が選ぶ二択じゃない」
「……なにか策があるのだな?」
強く頷く。
「どれくらい勝算があるかは分からない。でも確かめたい。そんな簡単に諦められない。アザレアさんは俺にとって大切な人なんだ。お前にとって、その友達がそうであったように」
それでふいに気づく。
俺とこいつが違う決断をした理由の一つを。
「レイド。お前だって、その友達に『殺してくれ』じゃなくて『助けてくれ』って頼まれてたら、諦めきれなかったんじゃないか? 最後の最後まで助けようと足掻いたんじゃないか?」
レイドは面食らった様子で、押し黙った。まるでそんな仮定は考えたこともなかったかのように。
長い長い沈黙の末にレイドは答えた。
「そうか。そうだな」
深緑のマントを翻し、レイドは俺を置いて塔を降りていこうとする。
その間際、振り返って最後に言ってきた。
「ミレウス王。見届けさせてもらうぞ」
決意を示すように、俺はもう一度強く頷いた。
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【第四席 レイド】
忠誠度:★★★★★★[up!]
親密度:★★[up!]
恋愛度:★★★★★★★[up!]
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