(3)
そう決めてじっとキャンドルを見つめていると、塩見くんが怪訝な顔で尋ねた。
「先輩、どうかしたんですか? 顔がこわばってますけど……」
「あ、ううん。なんでもない。なんか、クリスマスだけどいつも通りだなーって思ってたの。ロマンチックっていうより、落ち着く感じっていうか。あ、ええと、私が相手じゃ、そもそもロマンチックな雰囲気にはならないと思うけど……」
なにを言っているんだ、私は。これだと、塩見くんとロマンチックな雰囲気になりたかったみたいじゃないか。
わたわたと言葉を探しながら言い訳をしていると、
「先輩は、ロマンチックなほうがよかったですか?」
と訊かれた。ふだんの塩見くんとは違う、真剣な顔で。
「う、ううん。いつも通りじゃないと緊張しちゃって、おつまみがおいしく食べられないかもしれないもの。塩見くんが演出してくれたスノードームとキャンドルのほっこりさが、ちょうどいい感じ」
まさに今、いつも通りじゃないあなたに緊張しているのですが。
私には、どうして塩見くんの顔から笑顔が消えたのかわからなかった。
「……そうですか」
じっと、塩見くんが私を見つめる。いつの間にかふたりのお皿からケーキはなくなっていて、キャンドルの灯も消えていた。
「……僕、今日、先輩に伝えたかったことがあるんです」
塩見くんが改まって、姿勢を正す。一段暗くなった照明のせいで、塩見くんの顔の陰影が濃く見える。
「えっ。わ、私もあるの。訊きたいことと、伝えたいこと……」
「そうなんですか? どっちから先に言います?」
「う、うーん。塩見くん、お先にどうぞ……」
もしこれが、『彼女ができたから金曜日の宅飲みはこれが最後で』だったら、私の訊きたいことはなくなるわけで。
「僕、好きなんです」
静かな口調で話し始める塩見くん。私は緊張のせいで、言葉の意味がすぐには入ってこない。
「え……っ?」
好きって、なにが? も、もしかして……。
「先輩がおいしそうに食べる顔が」
「あ、そ、そうなの」
一瞬でも違う可能性を期待した自分が、恥ずかしくなった。
「ほかにも、好きなところはたくさんありますよ。たとえば、そうですね……」
塩見くんはわざとらしく考えるそぶりを見せたあと、途中でつっかえそうなセリフを滔々と語り始める。
「先輩は酔っ払いを背負い投げしちゃうし、男の部屋に部屋着で来ちゃうくらい警戒心がないし、仕事をがんばりすぎて体調を崩すくらい不器用なところもあって放っておけないし、男の影はないと思っていたのにやきもちを焼かせるようなこともさらっと言うし、仕事では自信満々なのに自分のことに関しては自信がないし」
「ちょ、ちょっと待って。私、今、好きなところを挙げられているんだよね? ダメなところじゃなくて」
「そうですよ? 全部、好きなところです」
カアッと顔が熱くなって、やっとわかった。私はずっと、塩見くんに手のひらで転がされていたことに。今日だけじゃなくて、おそらく、最初に出会ったときから。
でもどうして突然、塩見くんはこんなことを言い出したんだろう。
疑問を感じ始めたときには、塩見くんは真剣だった表情をゆるめて私を見ていた。
「もう金曜日だけじゃ我慢できないんです」
「え……。な、なにが?」
塩見くんの瞳に映った間接照明の光が、かすかに揺れた。どうしてそんなに愛しそうな目で私を見つめるのかわからず、困惑したとき……。
「僕と付き合ってくれませんか? 食べもので苦労はさせませんよ」
一語一語言い聞かせるように、丁寧な口調で塩見くんが告げた。
「え……っ?」
私はぽかんとしたまま、塩見くんの言葉の意味を考えていた。
付き合ってほしい? 塩見くんと? それはつまり、塩見くんが私のことを好きってこと?
そんな、まさか。
振られない可能性も、一割くらいはあるかもしれないと望みを持っていたけれど、まさか塩見くんのほうから告白されるなんて思ってもみなかった。
「きっかけはいちごミルクだったけれど、そういう一面を知っていくたびに、好きになっていったんです」
「いちごミルク……?」
社員旅行のときにいちごミルクを買ってもらって、なにか大事なことを忘れているような気がした。
そして夏バテをしたとき、どうしてここまでしてくれるのかと尋ねた私に、塩見くんはこう答えた。『会社の先輩に飲み物をおごってもらったことがきっかけ』だと。
「わ、私、思い出したかも。大事なこと……」
そのふたつが今の今になってやっと、頭の中でつながる。
「私、餃子の日よりも前に、塩見くんに出会ってる……」
震える声でそう伝えると、塩見くんはさびしそうな、でもどこか安心したような微笑みを見せた。
「やっと思い出してくれたんですね」
あれは、一年以上前のこと。
私は新作コスメの企画で初めてリーダーを任されることになって、今までにない仕事量に忙殺されていた。
身体はふらふらだけど頭だけは冴えていて眠れない。熟睡できないから、身体の疲れもなかなか取れない。
そんなときは、自販機コーナーでパックのいちごミルクを買って、併設されているソファで五分だけ仮眠を取るようにしていた。
普通だったら、コーヒーとか栄養ドリンクを飲むところなんだろうけれど、いちごミルクの、子どものころを思い出すような駄菓子っぽい甘さが好きで、飲むと元気になれるからだった。
いつも人のいない時間帯を狙って休んでいたのだけど、その日は違った。
パンプスを脱いで、ソファで丸まるように寝ていた私は目を覚ましたあと、『よしっ』と顔をパンパン叩きながら気合いを入れる。そして残りのいちごミルクを一気に飲み干すのだけれど……。
いちごミルクを勢いよくストローですすりながら何気なく自販機の方向を見ると、驚きながら私を見つめ、立ち尽くしている男性社員の姿があったのだ。
「あのときの男の子が、塩見くんだったのね……」
「はい。先輩はすごく焦っていて、いちごミルクを落としていましたね」
「し、仕方ないじゃない。まさか一部始終を見られているなんて思ってなかったんだから」
確かに、あのときの私は焦っていた。いちごミルクを買っていることも、人知れず気合いを入れていることも、秘密にしておきたかったのだ。
でも、そんなことよりも、その男の子――つまり塩見くんの顔が疲れ切っていることが気になった。以前塩見くんが語ってくれた、仕事で悩んでいた時期がこのときだったんだ。
『疲れた顔してるわね。新入社員の子?』
と尋ねた私に塩見くんはうなずいた。まだスーツを着慣れていない感じがして、なんとなく当たりをつけたのだ。
『いちごミルクなんて柄じゃないんだけど、疲れたときに飲むと不思議と元気が出るの。君も飲んでみる?』
そう言って、私はもうひとつ買ったいちごミルクを塩見くんに手渡した。
『新人くん、もっと力を抜いてがんばれ』と言って。
そのあとは、照れくさい気持ちもあってすぐにその場を去ってしまったし、自分がしたことさえ、忙しい毎日の中でだんだんと記憶が薄れていったけれど……。
「塩見くんはずっと、覚えてくれていたんだね」
きゅうっと、胸の奥がつかまれたように切なくなる。私が忘れていた思い出を、塩見くんは宝物のように持っていてくれた。
「先輩にとっては他愛もない会話だったかもしれないですけど、僕にとっては気持ちが救われるくらい、大きな出来事だったんです」
「そんな、大げさな」
「大げさなんかじゃないですよ。先輩の気持ちといちごミルクの甘さに、僕は救われたんです。自分には向いていないかもと悩むくらいなら、あの先輩くらい努力して結果を出そうと、気持ちが変わるくらいに」
そこから私が塩見くんの中で『憧れの先輩』になっていったと語ってくれた。同じアパートに住んでいることに気づいたり、海老沢くんに私のことを話していたのも、このすぐあとのことだとか。
感傷に流されそうになっていたが、肝心な問題があったことを思い出した。
「ちょ、ちょっと待って。後輩の子の告白の返事はどうしたの?」
「断りましたよ、その場で。それでもしばらく考えてくれって粘られたんですけど、旅行のあとにもちゃんとお断りしました」
「な、なんでそれをすぐ教えてくれなかったの?」
「先輩にも、少しは僕のことで悩んでほしくて」
にっこり微笑む塩見くんの背後に、悪魔のしっぽが見える。
ここ一か月、私が悩んできたことは、塩見くんにはお見通しだったということなのか。
「で、でも、私、四つも年上なんだよ。いいの?」
「さっき言ったじゃないですか。生きてきた年月の差なんて大したことじゃないって」
「それ、鶏肉の話じゃなかったの!?」
「人間だって同じです。その人の持ち味が大事なんですから」
驚く私に、塩見くんはしれっと言い放つ。
「も、もしかして、私が年齢のことを気にしてるって知ってて、タンドリーチキンを二種類用意したの……?」
「さあ、どうでしょう」
これは絶対、確信犯だ。こういうまどろっこしい伝え方を、黒塩見くんだったら絶対にやる。
いちごミルクの日から、私と塩見くんは仕事で関わることもなく時間が過ぎていったけれど、油揚げを焦がしたことから歯車が回り始める。
「あのボヤ騒ぎの日、チャンスだと思ったんです。ここで誘わなかったら、先輩と親しくなれる機会はないと思って……。あれでも、緊張していたんですよ」
「全然わからなかった。人助けだと思っていたもの……」
「だから先輩は、もう少し男を警戒したほうがいいって言ってるんです」
塩見くんは中腰の体勢でテーブルを回り、私との距離をじりじりと詰めてくる。
「え、えっ」
私の腰が引けているせいで、押し倒される直前のような体勢が完成した。展開が早すぎて、頭が追い付かない。
「ちょ、ちょっと待って。ほ、ほんとに苦労させないの……?」
今日、私も塩見くんに告白しようと思っていたこと。伝えようと思っていたけれど、これだけ手のひらで転がされた仕返しに、しばらく内緒にしておきたくなった。塩見くんにはそんなことすら、お見通しな気がするけれど。
「させません。先輩は、僕の作るおつまみ、どのくらい好きですか?」
「え? う、う~ん、控えめに言って日本一、かしら……?」
真面目に答えたのに、塩見くんはおかしそうにくすくす笑い出す。
「じゃあやっぱり、先輩は僕と一緒にいるべきです」
「そ、そうなるの、かも」
「じゃあ、決まりですね」
両手をつかまれて、塩見くんのキレイな顔が近づいてくると思ったら、あたたかくてやわらかい唇が口づけられた。
キスしたまま、塩見くんの大きい手は私の後ろ頭に移動して、逃げ場をなくす。
こんなキスをしてくれる王子様をずっと待っていたようにも、知らなかったお伽話のようにも思える。ドキドキして、少し怖いのに離れたくない、不思議な気持ちで頭がぐるぐるする。
自然と私は、両手を塩見くんの背中に回していた。
長いキスが続いたあと、お互い顔を見合わせる。切なげに私を見つめる塩見くんの表情は色っぽくて心臓が壊れそうだ。私は今、どんな顔をしているのだろう。想像もつかない。
しばらくおあずけにしようと決めたのに、好きの気持ちが胸の奥からあふれ出して、止められない。
「塩見くん。……大好き」
そうつぶやくと、塩見くんは息をのんで、私を抱きしめた。
「俺も、充希が好きだ」
一人称が変わって、敬語が取れている。きっとこれが彼の素なのだろう。それを引き出せたことに満足して、今度は私からキスをする。
一生分の口づけを交わしあったような甘い時間が終わったあと、私たちはくすくすと笑い出していた。
二十八歳にもなって、ここまで来るのにどれだけ時間がかかったのだろう。最初の出会いから最悪な姿を見せていたし、そのあともかっこ悪い部分ばかり晒している。
スマートな大人の恋愛じゃないかもしれないけれど、こんなカップルがいてもいいはず。
「……あ、そうだ私、塩見くんにプレゼントがあるの」
「え、なんですか?」
「うーんと……。はい、これ」
ごそごそとトートバッグをあさって、お菓子の入ったサンタ長靴を差し出す。塩見くんはぷっと噴き出すと、「ありがとうございます」と受け取ってくれた。
実はお菓子の一番奥、長靴の底に、小さく折りたたんだメモが隠してある。
告白できなかったときのための保険として、『塩見くんが好きです』というメッセージを仕込んでおいたのだ。
お菓子が食べ終わるころに、気づいてびっくりしてくれるかな。そのときの塩見くんを想像すると、顔がにまにましてくる。
「でも、まいったな。あとで一緒に買いに行けばいいと思って、クリスマスプレゼント、用意していませんでした。……そうだ、ちょっと待ってください」
キッチンに向かった塩見くんが用意してくれたのは、温め直したチーズと、角切りにされたアボカド、少し炙ってあるプチトマト。
「お詫びといってはなんですけど……。チーズフォンデュ用にクリスマスカラーの野菜を用意してみました。食べてみてください」
もう胸がいっぱいなんだけど、食べられるかしらと心配になりつつも、チーズを絡めたプチトマトを口に運ぶ。
「んんっ、おいしい」
炙られた皮から熱々の中身がぷちっと出てきてチーズに絡み、トマトソースのパスタみたいな味がする。
「こ、こっちも……」
次に食べたアボカドは、まったりした食感にチーズがすごくマッチして、クセになりそうなおいしさ。すっきりした白ワインに合いそう。
これもおいしい、こっちもおいしいと言いながら次々とパクつく私を、塩見くんはうれしそうに眺めている。
せっかくロマンチックな雰囲気になったのに最後は食い気に戻る。でもそれが私たちらしくて、なんだか愛おしい。
そして私は、大好きな年下の――できたてほやほやの彼氏に向かって、こう叫んでいた。
「やっぱり、塩見くんのおつまみは最高!」
~END~