37話 柊 佑人 4
「え……?」
僅かな光を受けて輝きを纏っている刃に、飛び散るように付着した赤。
鉄の臭いが鼻をつく。
「え……えええぇ!?」
ようやく思考が現実に追い付き、俺は慌てて手の中のナイフを投げ捨てた。
それは軽い音をたてて、再び床に転がった。
「うわ……え? な……なんで……えぇ……?」
余りにも現実離れした代物に、恐怖よりも困惑が先に立った。
軽い混乱状態の中、足下のそれをまじまじと見詰める。
血……だよな?
血のついた、ナイフ、だよな?
如何にもサスペンスドラマなどで用いられそうな、テンプレートのような凶器である。
だが、こうして実際に対面するのは、勿論初めてのことだ。
適切な対処が分からない。
血液の付着した刃物を拾ったときの適切な対処など、分かるわけがない。
「…………」
暫しの黙思の後、俺はナイフに視線を向けたまま、じりじりと後ずさった。
別にナイフが襲いかかってくる可能性を考慮しているわけではないが、あのような物騒なものを視界から外すのはなんとなく恐ろしい。
そんなことを考えながら下がり続け、ついに部屋の入り口付近まで下がりきったとき。
「……こんなところで何してるんです?」
「うああああぁっ!?」
ぽん、と背後から肩に手を置かれ、俺は今日一心臓が縮み上がるのを感じた。
咄嗟にその手を払い除けて振り返り、思わずバランスを崩して壁に手をつく。
「はぁ……はぁ……え、ひ、柊……?」
傍らの壁に体重を預けて呼吸を乱す俺を見上げている冷めた瞳は、見知ったものだった。
「……驚きすぎじゃありません?」
「う、煩いな……今日は色々ありすぎて心臓がもう限界なんだよ……」
「?」
朝から心拍数が安定しない俺の事情など知る由もない柊は、怪訝そうな表情を浮かべる。
しかしそれに関する興味はさほど無いようで、すぐに話を元に戻した。
「そんなことより、俺は先輩がここで何をしていたか訊いてるんです」
「いや、その……実は用があって二階の部室に居たんだよ」
漸く息が落ち着いてきた俺は、なんとか体勢を立て直して先程の状況を口にする。
「そしたら一階から物音がしたから、見に──」
しかし。
説明の途中で、俺は言葉を失った。
「……あ」
そんな俺の視線に気付いた柊は、ハッとした表情を浮かべると、焦った様子で扉の向こうに半身を隠し、ばつが悪そうに俯いて「……なんですか」と口にした。
「な、なんですかじゃないだろ……お前、それ……」
柊の着ている制服のワイシャツ。
その左腕部分には、肩を中心に赤い染みが広がっている。
俺は慌てて柊に詰め寄った。
「け……怪我してるのか!? なんで……」
「別に大したことないですよ、こんなの。掠り傷です」
柊は俺の言葉を遮り、突き放すように言い放った。
「そういう問題じゃないだろ……だ、大丈夫なのか?」
「だから大丈夫ですって」
怪我の具合を見ようと手を伸ばすと、左手で振り払われてしまった。
その瞬間、柊は痛みを堪えるように若干顔をしかめた。
しかしすぐにまた、威嚇するかのような視線を俺に向ける。
敵意すら感じる、攻撃的な目だ。
これはきっと、こちらが折れた方が良いのだろう。
俺は軽く溜め息を吐いた。
「ああもう、分かったよ。俺はこれ以上構わないから。だからとりあえず急いで保健室に行け」
中等部の校舎の方を指して柊を促すが、柊は足を動かそうとしない。
そして、何か迷っているように視線を彷徨わせながら、ぽつりと呟いた。
「……嫌です」
「は?」
「だって、もし俺が部室棟に来ていたことがバレたらまずいじゃないですか」
何がまずいとは言わないが、多分林堂先生に知られることを恐れているのだろう。
適当に誤魔化しておけばバレないとは思うが、確かにリスクもなくはない。
「ていうか、そもそもどうしてお前はここにいるんだよ」
「そ……それは……」
今更な疑問をぶつけると、柊は目を逸らして黙り込んだ。
「それだけでも教えてくれよ。俺だけ話してたら不公平だろ」
「…………分かりましたよ」
柊は暫く不満げな表情で沈黙していたが、じきに諦めたように口を開いた。
「俺は、登校中に、この部室棟に人が入っていくのを見たんですよ」
「え? えっと……それは俺じゃなくて?」
「はい。校舎の裏に誰かが入っていったところしか見えなかったので、顔はよく分かりませんでしたけど、背丈からすると多分中等部の生徒だったと思います」
言葉を続けつつ、柊は俺の傍らを抜けて部室の奥へと向かった。
「校舎裏には部室棟しか無いので、気になって後を着けてみたんです。そしたら、この部屋の扉だけ半開きだったので、覗いたら──」
床に落ちている果物ナイフを拾い上げ、右手で摘まんだそれを軽く振りながら、柊は言った。
「──切り付けられました。このナイフで、突然」
「なっ……!?」
「その人は俺が怯んでる間に校舎の方に逃げて行ったので、少し遅れて追いかけたんですけど、見失ってしまいました」
その後置き忘れた荷物を取りに部室に戻ってきたところで俺と遭遇した、ということらしい。
言われてみれば、開け放たれた扉の死角に通学鞄が転がっている。
先程は部屋の中に意識を向ける余り、その存在に気付きすらしなかったのだろう。
しかし、思わぬ物騒な話に困惑を隠せないでいる今の俺には、そんなことを考えている余裕はなかった。
「結構な事件じゃねえか、それ……」
「まあ、殺されなかっただけマシだと思いますけどね」
「こ、殺され……」
しれっととんでもないことを口にする柊に絶句していると、彼は「だってそうじゃないですか」と言って手の中のナイフを床に落とした。
軽い金属音を立てて、ナイフは再び床に転がる。
「こんなもの、持ち歩いているだけでも異常なことですよ。しかもそれを迷わず他人に向けるなんて、相当の覚悟がなければできることじゃないと思いますけどね」
淡々と話しながら、柊は鞄を拾い上げて部室を出ていこうとする。
「ひ、柊? どこ行くんだよ」
「一回家に帰るんですよ。制服を着替えに行くんです」
「帰るって……大丈夫なのか? やっぱり保健室行った方が良いんじゃ……」
「だから大丈夫ですってば。家も近いですし。こんな格好で登校なんかできないでしょう」
「そんな格好で帰宅しても、随分驚かれるだろうがな……」
家族に経緯を問い詰められることは間違いないだろう。
何と言い訳をするつもりなのだろうか。
しかし、そんなことを考えている俺にとって、次に柊が放った言葉は予想外のものだった。
「……大丈夫ですよ」
「え?」
思わず聞き返すと、柊は黙って部室から出ていってしまった。
慌てて呼び止めようとすると、柊は俺に背を向けたまま静かに言った。
「俺がどこで何をしていようと、俺の家族は何も気にしませんから」




