35話 白樺 雪 7
翌朝。
俺は一睡もできぬまま登校の時刻を迎えていた。
昨晩の帰宅後、夕食と風呂とその他諸々を済ませて布団に潜った俺は眠ろうと瞼を閉じてはみたものの、しつこく脳裏に浮かんでくる疑問のせいで結局意識を手放すことはできなかったのだ。
当然、その疑問は朝田稔に関するものだ。
昨日目にした名簿によると、朝田稔が白前中学校に在籍していた記録は無い。
朝田稔というのが偽名なのか、それとも本当にあの少女は白前の生徒ではないのか。
真相がどちらかは判らないが、確かなことが一つだけある。
朝田稔は、嘘を吐いている。
※
眠い目を擦りながらも、なんとか家を出る。
腕時計を見ると、いつもの出発時刻より随分と早い。
雪の家に寄って彼を起こす時間を加味しても、今朝は時間に余裕を持って登校できそうだ。
早朝といえども眩しい初夏の日差しに目を細めつつ、俺はぼんやりと考える。
朝田稔が嘘を吐いているとして、目下の問題はその動機が全く分からないことだ。
彼女が素性を偽った所で、本人には何の利益も無い。
いや、そもそも何が嘘なのか――どこまでが嘘なのかが分からない限り、動機も見えてこないのだ。
これは俺一人で考えていても解決する問題ではないだろう。
と言うか、真実に辿りつく方法はもう一つしか残されていない。
……正直言ってあまりこの手段に踏み切りたくはなかったのだが、仕方がない。
「朝田稔に、もう一回話を聞くしかないな……」
小さく独り言ちると、どっと疲れが押し寄せてきた。
あの部室棟にもう一度行って、しかも朝田稔と話さなくてはいけないのか。
突き飛ばされたり、閉じ込められたり、迫られたりしたあの部室棟に。
加えて今は立ち入り禁止となっている部室棟に。
「…………はぁ……」
深い深い溜め息を吐く。
気が重いなんてもんじゃない。
もし部室棟にこっそり侵入して、それが林堂先生にバレたらどうなってしまうのだろう。
……いや、考えないようにしておこう。
脳裏に浮かんだ恐ろしい想像を追い出すように、軽く頭を振った。
具体的な対策は浮かばないが、その事態だけは是が非でも避けなければならない。
などと懊悩していると、気付けばもう雪宅の前に到着していた。
うっかり通り過ぎるところだった。
俺はアパートの階段を昇ると、見慣れた部屋の扉をノックする。
「雪、起きろー。学校行くぞー」
声をかけてからドアノブを回す。
相変わらず鍵はかかっていない。
いつもより早い時間だ、雪は恐らくまだ寝ていることだろう。
そう踏んでいた俺は、扉を開け放って少なからず驚いた。
「あ、宗哉……おはよ」
「!? ど、どうした雪!?」
呑気に挨拶する雪に、俺は戸惑いの視線を向ける。
既に制服に着替え終えていた彼は、鞄を携えて靴も履き、今まさに玄関を出ようとしてたのだ。
「ど……どうしたって……言われても……」
雪は困ったように口籠った。
いや、確かに一人で起きて一人で朝の準備を整えるのは一人暮らしをする者として当然のことなのだが。
どうしたも何もない。
むしろ今までがどうかしていた。
「い、いや……何でもない、忘れてくれ」
慌てて訂正すると、雪も素直にこくりと頷く。
何か理由があろうと特に無かろうと、こいつが今日を機にまともな生活に一歩を踏み出してくれるのなら願ったり叶ったりだ。
毎朝の俺の負担も軽減される。
「じゃ、行くか。お前、準備整ってるんだろ?」
仕切り直してそう訊ねると、雪は再び頷いて肯定の意を示す。
俺達は雪宅を後にして、学校へ向かった。
※
「……そ、宗哉……」
「ん?」
「えっと……その……昨日、林堂先生と……何があったんだ?」
道中、雪が不意に話しかけてきた。
常日頃なら、雪は必要に駆られない限りあまり自分から話さない。
特に登校中はそれ以外の時間帯に増してぼーっとしており、歩きながらうとうとしていることすら稀にある。
そんな雪が、自らこんな話題を……。
やはり今日の雪は何かおかしい。
本人も少し居心地が悪そうに見える。
俺は少々訝しがりながらも、彼の問いに答えた。
「ああ、それがな……朝田稔についての話を持ち出されて」
「!」
「あの人、柊から一通り聞き出してたらしくて、俺達に協力するって言ってくれたんだ。朝田稔の素性が少しでも分かれば解決の糸口も見えてくるだろって話で、中等部の過去の生徒名簿を見せてもらった」
「……」
促すような雪の視線に、俺はやや言いづらいながらも続ける。
「だけど、そのー……どういうわけだか朝田稔の名前は、どの名簿にも載ってなかったんだよ」
「!? ……な、なんで……?」
「いや俺も分かんねぇよ。それで今困ってんだ」
「あ……そう、か……」
食いついてくる雪を宥めるように答える。
雪も納得したようで、口を閉ざした。
「……そうすると、朝田稔の話に嘘があるのは確かなんだよな……その理由を突き止めない限り、朝田稔が素性を偽った訳も、ひいてはあいつの本当の目的も分からないままだ」
最後に付け加えるようなつもりでそう言うと、雪は暫く俺を眺めて黙り込んだ後、軽く首を傾げた。
「…………朝田稔の話って……あの噂のこと、か……?」
「ん? いや、朝田稔本人から直接聞いた話だけど」
「…………」
「…………」
あ。
「……え!? そ、宗哉、朝田稔と話したのか!? す、すごい……!」
しまった、と思った次の瞬間には雪の瞳にはキラキラとした光が宿り、興奮気味に距離を詰めてきた。
興味と興奮の眼差しが、ハイアングルから容赦なく俺を射抜いてくる。
「お、落ち着け雪!」
その熱意に耐え切れない俺は慌てて雪を引き剥がした。
そうだった、そういえばこいつには朝田稔との一件は話していなかった。
疲れていたこともあってか、つい口が滑ってしまった。
別に隠していたわけではないが、特段言うべきでもないときに話してしまったのは迂闊だったと言えるだろう。
今日からはちゃんと寝よう。
「……い、いつ? いつ話したんだ……?」
「一昨日だよ。一昨日の放課後」
「……あっ、あの時の…………そ、そうだったのか……!」
「ちょっお前……ちゃんと前見て歩け!」
未だ熱冷めやらぬ様子の雪。
反して、俺のテンションは下がっていく。
だが、雪が漸く本調子に戻ったようで少しほっとした。
先程まであったどことないぎこちなさが無くなっている。
「まあ、とにかく。朝田稔本人が噂の内容を肯定してたのに、それが事実と食い違ってるって話だよ」
「……あ……本当だ……」
やっと俺の言いたい事が伝わったようだ。
雪も不思議そうに首を傾げている。
「それはつまり朝田稔が嘘を吐いてるってことだろ。どうして素性を隠しているのか――あいつの真意が分からないと、部室棟の問題はいつまでも解決しない」
「…………」
先程言ったことを再び説明し直す。
今度は黙って聞いている雪。
数秒の沈黙の後、彼はおずおずと口を開いた。
「…………嘘を、吐いてるのは……、その……本当に朝田稔、なのか……?」
「え?」
咄嗟に言葉の意味が分からず、聞き返してしまう。
すると雪はハッとしたように視線を逸らした。
「……あ、いや…………えっと……な、なんでもない…………」
きまりが悪そうに語尾を収縮させていく雪。
「? ああ……」
言及して欲しくなさそうな様子だったので、俺も曖昧に頷いて話を切り上げる。
”嘘を吐いているのは、本当に朝田稔か?”
先程の雪の問いかけを胸中で反芻するが、やはりそれの意図するところがいまいち捉えられない。
だって、それ以外無いだろう。
朝田稔が本名を偽っていたとすると、それは確かに朝田稔ではないが、しかしそういうことでないのは分かっている。
何か胸にモヤモヤしたものを抱えたまま、今日も一日が始まった。




