33話 林堂 志鶴 2
中等部の昇降口は、下校する生徒や部活のためにグラウンドへ向かう生徒で賑わっていた。
この中を抜けて一人校舎内に立ち入るのは、なかなかに胆力のいる行為だろう。
前回中等部に赴いたときは布倉と一緒だったので彼女が免罪符的な役割を果たしてくれたが、今日はいない。
恥を忍んで、布倉や柊にでも同伴してくれと頼めば良かったかもしれない。
後悔の念に駆られながら昇降口の隅でモタモタしていると、突然後ろから肩を軽く叩かれた。
「や。来たね、小森くん」
振り向くと、爽やかな笑顔を浮かべた林堂先生が立っていた。
ジャージを腰に巻いて、上はTシャツ一枚という昨日に増してラフな服装だ。
「本当は高等部まで迎えに行こうとしてたんだけどね。行き違いになったらアレだなーって思ってやっぱり戻ってきたところだったんだよ。いやぁ、上手いこと会えて良かった」
「はい……あの、すみませんでした。雪を連れてこれなくて」
「ん、いや良いんだよ。もちろん白樺くんにもお礼したかったんだけどさ、私はどちらかと言うときみとお喋りしたかったから」
「は、はぁ……」
よく意味の分からない言葉に少々戸惑っていると、彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ま、とりあえず上がりなよ。空き教室にでも行って、そこで話そ?」
※
一階の一番端に位置する教室で、机を二つ向かい合わせるように付けて座る。
なんだか面談でもするかのようで落ち着かない。
「じゃ、ここでちょっと待っててね。私、お茶でも持ってくるから」
「あ、いえ、そんなお構い無く」
申し訳ないのに加え正直そこまで長居していたくもないので割と本心からの言葉だったが、林堂先生は「いーのいーの」と笑って教室を後にしてしまった。
一人取り残される形になった俺は、居心地悪く室内を見渡す。
端の教室ということもあって、部屋の前を誰かが通る気配などは感じられない。
机の数は縦六列に横六列の三十六個。
前には黒板、後ろにはロッカー。
見たところごく普通の教室のようだが、その全ての設備に現在使われている様子が無い。
その代わりに、教室内のあちこちに段ボールが数個ずつ、合計十個ほど置いてあった。
他にも丸められた模造紙や古い教科書、プリントの束などが無造作に置き捨てられている。
物置──という程では無いが、空き教室なのを良いことに置き場に困った物を一時的に保管する場所となっているようだ。
「──っと。お待たせ、小森くん」
教室内の様子を一通り確認したところで、林堂先生が戻ってきた。
先程までは手ぶらだったが、今は小さなトートバッグを一つ携えている。
そして、その中から何かを取り出すと、俺の机の上にトンと置いた。
「はいお茶」
250ml入りの緑茶のペットボトルだった。
「……」
お茶だ。
ああ、確かにこれはお茶だ。
ただ、ちょっとこう、一般的な客人に出すタイプのお茶とは違った。
「? どした? 緑茶嫌いだった?」
何も言えないでいる俺を見て、心底不思議そうな表情を浮かべる林堂先生。
「い……いえ、ありがとうございます」
少々困惑したものの、もてなしを受けているのは確かだ。
俺は慌ててペットボトルの蓋を回し、中身を喉に流し込んだ。
それを見て満足げに頷いた林堂先生は、トートバッグから缶ビールを取り出してプルタブを押し開けた。
缶ビールを。
ビールを。
「!? えっ待っ……な、何してるんですか先生!?」
これは流石にスルーすることができず、俺は勢いよく立ち上がって叫んだ。
驚きのあまり思わず三度見くらいしてしまった。
危うく緑茶が気管に入る所だった。
だが俺の態度とは対照的に、林堂先生は平然としている。
「ん、コレ? 大丈夫だよ、ノンアルだノンアル。清涼飲料水」
「そ、そういう問題じゃ……」
ノンアルであろうと、聖職者が中学校の教室で口にするのはアウトなのではなかろうか。
道徳的な話を人に説ける立場では無いが、時と所と場所の全てを無視した行動には圧倒されてしまう。
「いんだよ、バレなきゃ。悪事は咎められて初めて悪事になんの」
「悪事だという自覚はあるんですか……」
「ん? 違うよ? ここには私ときみしかいないからねー。きみが私を咎めない限り、悪事にはならないよ?」
「……」
絶句。
さらりと片棒を担がせてきた。
「あははー、私を悪者にしないでくれよ、小森くん」
屈託の無い笑顔で缶の飲み口に口を付ける林堂先生。
俺は脱力感を覚えて再び椅子に座り込んだ。
「そもそもどうしてそんなものがサッと出てくるんですか……」
彼女が席を外していた時間は五分にも満たなかったはずだ。
まさかわざわざ校外まで買いに行ったわけでもないだろう。
「いや普通に給湯室の冷蔵庫に入れといたのを持ってきただけだよ?」
「なんてもん入れてんですか!?」
「いやぁ、コンビニの袋とかに入れときゃあ意外とバレないよ? まあバレたら色々終わるけど」
「何故そんな危ない橋を……」
「分かってないねぇ、小森くん。ガキ共のお守りなんざ、酒でも無いとやってけないのよ」
缶ビールを呷りながら何とも赤裸々なことを零す林堂先生。
……あれ、本当にアルコール入ってないんだろうな?
※
「さて、じゃあ本題に入ろっか」
飲み終えた缶ビールを机の上に置くと、椅子の背もたれに全身を預けるようにして、林堂先生は言った。
勉強机に缶ビールというミスマッチが、得も言われぬ背徳感を生み出している。
「柊くんから聞いてるだろうけど、私はきみにお礼がしたいわけだ」
「はあ……まぁ聞いてますけど、俺は別にお礼なんて……」
そんなに大したことをしたわけでも無いのに改まって何かしてもらうのも気が引ける。
特にしてほしいことも無いし。
強いて言うならば、なるべく早く帰らせて欲しい。
本題に入る前に疲れ切ってしまった。
「どこまでも謙虚だなぁ、小森くんは。いや、ホントに人は見かけによらないもんだね」
そう言うと林堂先生は席を立ち、教卓の上に乗っている段ボール箱を開けた。
両手で抱えられる程の大きさのそれをひっくり返すと、ファイルのようなものが数冊、バサバサと音を立てて教卓の上に落ちる。
林堂先生は、それらを適当にかき集めると、机の上に移動した。
「ま、とりあえず受け取ってくれよ。せっかく用意したしんだしさ、きみの助けにもなると思うから」
「これは……?」
とりあえず一冊手に取って、パラパラと捲ってみる。
表のようなものが印刷された縦長の紙が、十数枚挟み込まれていた。
学年と組、出席番号とそれに該当する生徒名が、一クラスにつき一枚の要領で纏められている。
内容を読み込まなくても分かる。
これは――
「――クラス名簿?」
「そ。私からきみへの、ささやかな『お礼』だよ」
林堂先生は、無造作に置かれたままのファイルをかき集めると、俺に手渡した。
ざっと10冊程度だろうか。
一冊一冊が薄いので重量感はさほど感じないが、これだけの数になるとなかなか嵩張る。
「それね、ここ十年分の全校生徒のクラス名簿」
「は、はぁ……」
それが何か、という意味を含めた視線を送ると、どうやら伝わったようで、林堂先生は一言付け足した。
「朝田稔の情報も、載ってるんじゃない?」




