22話 沖花 杏菜 1
雪を自宅に送り届けて、俺も帰路に着いていた。
携帯で時刻を確認すれば、もう結構な時間になっていた。
夕飯食わねば。
あ、あと風呂も……うわ、洗濯物取り込んでない……。
突然襲って来た現実的な問題に焦燥感を感じ、鞄から鍵を取り出して自室の前に立った時。
『ねえ』
背後から、服を引っ張られる感覚と共に声をかけられた。
振り向けば、そこには俺を見上げる少女が立っていた。
「杏菜?」
向こうから声をかけてきたのにも関わらず、彼女は無表情で黙っているだけだった。
「えっとー……二人と一緒じゃなくて良いのか?」
『……別に。私の目的はもう達成されたし』
「そうか」
そういえば、杏菜の目的は沖花の御守りを奪還することだった。
『……ねえ』
「何だ?」
『あ、いや……』
杏菜は何か言いたそうに口を開いたが、何故か渋って口籠った。
喋ろうとして顔を上げては、考え込むように俯いて沈黙する。
それを二、三度繰り返し、突如として『あ~、もう!』と声をあげた。
『やっぱ何でもない』
「……?」
今度は先程とは一転、何かが吹っ切れたように言い切る杏菜。
一体どうしたのだろう、この子供は。
唖然とする俺をよそに杏菜は『じゃあ』と言って踵を返し少し歩くと、そこでふと思い出したようにこちらを振り返った。
『そういえば、あの時なんで私の居場所が分かったの?』
「? ……ああ」
一瞬何の事を言っているのかと思ったが、すぐに思い出した。
今日の夕方、俺が膨大な数の表札を一個一個確認して周るという人生初の作業に取り組んでいた時の事だ。
そういえば、あの時も杏菜は不思議がっていたな。
結局伝え損なってしまっていた。
「……どっから話せば良いのかなー……」
『有耶無耶にしないでよ』
「分かってるよ。あー……まあ最初から話すとな、実はお前の居場所が分かった時、まだお前と桃菜が入れ替わってる事に確信が持ててなかったんだよ」
『そうなの?』
「ああ。お前に会う少し前に満束に会ったんだがその時に——」
『誰それ』
認識されてなかった。
そういえばこいつの前で満束の名前を出した記憶が無い。
杏菜からすれば『御守りを盗んだ犯人』は『御守りを盗んだ犯人』であって、顔も名前も知らないのか。
事の発端なのにも関わらず、つくづく蚊帳の外な男だ。
「え~っと、あれだ。例の苛めっこだよ。学校で桃菜捕まえた奴」
『ああ』
どうやら思い出したようだ。
ただ、反応が非常に軽い。
「そういやそんなのいたっけ」みたいな声で返された。
『そういやそんなのいたっけ』
口に出しやがった。
最初お前が必死になって探してたやつだぞ。
「……とにかく、その満束が言ってたんだよ。学校でお前によく似た子供を見たってな」
『え? でもあの人視えてないっぽかったよ?』
「ああ。だがその時はまだどうか分からなかったからな。とりあえず視えないと『仮定』した。そうすると、満束が見たのはお前と同じ容姿でお前では無い人間——つまり桃菜ということになる」
いや、あの時はまだ『杏菜』だったか。
杏菜と桃菜が入れ替わっているかもしれない、という考え自体は既にあったので、ここから『杏菜』の目的に辿り着くまでは一瞬だった。
だが、消えた『桃菜』の行き先はすぐには思いつかなかった。
だから、考えた。
『桃菜』と『杏菜』のこれまでの行動と、『杏菜』の仮定を加えて。
——隠されていた御守りを見つけ、持ち去ったのは『杏菜』。
——それを、『桃菜』は知っている?
——知らされた? 姿を消す前に。
——だとしたら探すはず。
——今、探しているはず。
——どこを?
「そりゃあ御守りを持ち去った本人、桃菜の自宅だろ」
『…………』
俺の説明をひとしきり聞き終えた杏菜は、ぽかんとした表情で俺を見た。
『すごいね……』
口調からして、心の底からの言葉のようだ。
こうもストレートに褒められると、少し照れ臭い。
「いや、そんな純粋に感心するなよ……結果としてこの考え、間違ってたし」
『ああ、そうだね。でも場所は当たってたとか、すごい奇跡』
そう言って、杏菜は少し悪戯っぽく破顔した。
こいつの笑顔を見るのは、結構久し振りな気がする。
『私が家で御守り探してたのは、桃菜に『あんたに見つからないような場所に隠し直した』って言われたからだよ。てっきり家かと思って何日も探してたんだけど、学校だったんだね。確かにそれは分からなかったなぁ』
「あ、そうだ。それなんだけど、お前何でそう言われて真っ先に自宅を探したんだよ?」
これは先程からずっと疑問に思っていた事だ。
危ない危ない、あのまま別れてしまっていたら俺からも訊きそびれる所だった。
『え、分かんなかった?』
「分かるわけねえだろ」
『何でそこだけ分かんないの……』
何で俺が呆れられるんだよ。
不本意だ。
そんな俺の心情が表に出ていたのか、杏菜は再度笑みを溢した。
『そんな顔しないでよ。冗談だって』
またからかわれた。
以前の杏菜と同じペースだ。
小学生におちょくられるのは何度やられても慣れるものでは無い。
というか、慣れたら色々終わりだと思っている。
「……で、結局理由は何なんだよ?」
だが学習はする。
ここで良いリアクションを取ってしまうと、杏菜は更につけあがるだろう。
そう思い意識してローテンションで対応したが、杏菜は特に気にする様子も無く話を続けた。
『うーん……私、実は死んでから家に帰るの、というか、家に入るのちょっと怖かったんだよね』
「怖かった?」
『うん。お兄ちゃんを見守ってた時も、家には入れなかったし。家に帰ったら……死ぬ前と同じようで違う、私だけがいなくなった家族の日常を見ちゃったら……ああ死んだんだなーって、実感しちゃうような気がして。で、もしかして桃菜もそれ勘づいてるのかなーって思って』
杏菜の声色は先程までと同じく明るいが、決して軽口を叩いている分けでは無い。
それは、彼女の表情から見て取れた。
泣くのを我慢しているような、泣きたくても泣けないような顔。
やっぱり、子供の浮かべる表情じゃない。
『でもやっぱり、辛くて家の中にはそんなに居れなかったよ。今日見つかっちゃったときも、家の外に出てたでしょ?』
そういえば、沖花宅に辿り着いた時、杏菜は塀の裏に隠れていた。
覗き込めば見える位置だったので、すぐに見つけることができたが。
俺から姿を隠すためにそこに居たのだろうが、今から思えば本当に隠れたいのなら室内に入るだろう。
本当に耐えがたかったのだろう、家に居る事が。
『分かってはいたけど、私だけがいなくても、世界はちゃんと回ってるんだ。私だけを置いて、お兄ちゃんと桃菜はこれからも生きていくんだ』
そこまで一息で吐露しきると、杏菜はふうっと息を吐き出した。
そして、自虐的な微笑と共に、こう言った。
『私が、ただいまって家に帰ると、お兄ちゃんがおかえりって迎えてくれる日は、もう来ないんだよ』
「…………」
『明日も明後日も、何週間後も何か月後も何年後も。……それって、とっても悲しい事なんだって、当たり前の事に……家に帰ってみて初めて気付いたり……』
かける言葉が見つからない。
いや、きっと見つけなくて良いのだろう。
俺なんかがさも分かったかのように何か言っては、いけないいのだろう。
この深い深い孤独は、悲しみは、きっと俺には理解できないのだろう。
いくら姿が見えようと、声が聞こえようと、全てを解する事は、それこそ死ぬまでできないのだ。
『う……っ……』
無理に作っていたような杏菜の笑みが、苦しげに歪んだ。
頬を伝ってどんどん涙が落ちる。
『ふっ……うぅ……う……』
杏菜はしゃくりあげながらフラフラと俺に歩み寄った。
そして俺の胸に顔を埋めると、大きく息を吸って、大声で泣き出した。
『ぅあああああああああああっ! わぁあ、ああああああああああ!!』
俺は黙って彼女の小さな肩を支えた。
きっと彼女も、先の桃菜と同じように兄に抱き着いて泣きたかったのだろう。
それを耐えて、ここまで堪えてきた。
「頑張ったな、杏菜」
※
『……ふう! 泣いたらすっきりした!』
「どういうメンタルしてるんだお前」
つくづく感じるが、こいつはおよそ小学生とは思えない。
『いや……本当に楽になった。ありがとう、宗哉お兄ちゃん』
「へ!?」
満面の笑みと共に予想外の呼称が投げかけられ、思わず間抜けな声が出た。
「お、おにいちゃ……!?」
『えへへ』
「…………」
この笑顔は偽物ではないだろう。
何せこいつは嘘が下手なのだから。
俺が戸惑いの余り何も言えずにただ立ち尽くしていると、不意に杏菜が俺の身体から離れた。
「!」
『じゃあこれで。……春お兄ちゃんをよろしくね』
「……ああ」
『また苛めっこが現れたら、やや過剰なくらいの報復、よろしくね』
「それは承諾しかねる」
『ふふっ』
桃菜は楽しそうに小さく笑った。
うん、別れ際に見るのがこの顔で良かった。
俺も僅かに微笑み返すと、杏菜は大きくにっと笑い、再び俺に背を向けて歩き出した。
もう振り向かなかった。
こいつはこれからどこへ行くのだろう。
この世への未練も消え、やるべきことも無く、存在そのものが少しずつ無くなっていくのだろうか。
浮遊霊らしく当ても無く彷徨い続けるのだろうか。
それは分からないが、こいつは沖花を俺に託していった。
きっともう、沖花に会う気は無いのだろう。




