彼女の事情【前編】
外の嵐は嘘のように過ぎ去り、暗雲立ち込めていたはずの空からは少しずつ光が零れ落ちてきた。高かった波も弱まってきたため、クルー達は濡れた服を絞り、デッキブラシ片手に甲板を掃除する。鼻歌交じりに。まるで、お祭り騒ぎが終わった後の片付けのように。
一瞬、目を開けるのをためらった。怖い……。
天国なら神様の声がするはずと思い込んでいたものだから、一体どこに私は来たのだろうと不思議に思う。すっかり冷え切った体で声も震えるばかりだったけれど、妙な方向に頭はぼんやり回っていた。
「アリシア」
名前を呼ばれて、(どうして私の名前を知っているのか分からなかったけれど)震える身体に檄を飛ばし、何とか首を縦に振る。心配そうに覗き込んだ大きな男の人のズボンを引っ張ると、その様子を見た大きなキャプテンハットの帽子の少年が
「ヨシ、先にこいつに風呂貸してやれや」
と、安心させるように笑った。まるで家族にでも対するかのようなあたたかい笑顔に、冷え切った心がじんわりと温かくなってくる。ここはやはり天国だったのかもしれない。
ぐしょぬれになったドレスの代わりに彼らが用意してくれたのは、海賊ルックの横縞シャツと少し大きなズボン。元は良い綿を使っているようだが、何回も洗って着たためか少々よれよれになっている。上から厚手のベストを着ると、昔、窓から眺めていた町の子供のような格好になり、なんだか笑みがこぼれた。
「あ、少し長いから裾は折らせてもらおう」
しっかりと厚みのある樫の扉を開けると、ヨシと呼ばれていた大きな人が軽く手を上げる。どうやら待っていてくれたらしい。
彼は一瞬立ち止まり、私の格好を見て「ほぼ同サイズか」と唸るように呟いた。
「同サイズ?」
「ああ、すまんな。この船には男しかいなかったものだから、一番サイズが近かったキースの服を出してきたんだ」
本人は認めたがらなかったけどな、いや、あまりにもピッタリだからあいつ悔しがりそうだな。そうしていたずらっ子のように微笑むその人につられて私も微笑んでお辞儀した。
「あの、ヨシ様ですよね? 助けていただき本当に有難うございました」
茶色い髪を短く刈り上げ、しっかりとした体躯の彼を見上げる。まだ少し幼さの残る顔立ちだが、どっしりとした落ち着きがあり、年齢は良く分からない。その彼にじっと見つめられると少し怖い。
「俺を、覚えてない……か?」
一瞬顔を曇らせて、100年ぶりじゃ仕方がないのか、などと呟くヨシ様に
「ごめんなさい。海に出たのは生まれて初めてですから」
と恐縮しながら謝るしかなかった。私はどこかでこの人たちに会ったのだろうか。
それにしてもこの船は何だかおかしい。
1.この船はなんだろう。
船自体は結構綺麗だ。いつも誰かがピカピカに磨いているおかげで持ちも良さそうだし、ときどき部品も交換しているみたいだから。でも、なぜか古い雰囲気がするのだ。
そして、商船にも見えなければ客船でもない。何を運んでいるのだろう?
2.この船のクルーに大人がいない。
周りを見渡しても……二十歳を過ぎた青年がいない。
そのかわりに航海に関してはベテランのような少年たちがいた。まるで、御伽噺に出てきたネバーランドに迷い込んだような錯覚に襲われるが、今の私にとっては少し安心できる環境とも言えるかもしれない。
3.何故私の名前を知っている人がいるのだろう。
海は静かになり、船も安定している。すっかり外は暗くなっていた。船員達は共同食堂で夕飯のようで、下から明かりと、今日を乗り切ったことに対する笑い声が漏れてくる。
私は先ほどのキャプテンハットを被った男の子と、ヨシ様、それから茶色の髪にゴーグルをのせた男の子の3人と夕飯のテーブルを囲んでいた。ゴーグルの少年(本人はシムと名乗った)が楽しそうに、私の服のサイズがピッタリだと笑い、キャプテンハットの少年(キース様と呼ばれていた)が拳骨を1発入れる。あまりにも痛そうなので慌てていたら、ヨシ様がやんわりと「いつものことだ」と流した。
私とあまり身長が変わらないことを気にしているのだろうか?
成長期なのだから、これからまだ伸びると思うのに。
「で、なんでこんな嵐の日に水泳してたんだ?」
最後のコーヒーを私が飲み終えるのを待って、黒と赤の海賊服を着たキース様が口を開いた。水泳なんて平和なものではなかったですけれども。
説明しようと口を開きかけると、ヨシ様が片手を前に出して遮る。
「君は俺の生き別れの妹にそっくりなんだが、本当に記憶喪失か何かではないのだろうか? ……俺とは全く似ていないのだが、黒くて長い髪も深い蒼の瞳も、細い手足も、綺麗な顔も、みな別れたときそのままの俺の自慢の妹の姿で。話し方一つとっても、その辺の街娘と違うような物腰。ぽっと明かりがついたように微笑むところとか、みれば見るほど妹のアリシアとしか思えないんだ。」
それは、記憶を失った妹であって欲しいという悲痛な願いのようで、是と答えられない自分を申し訳なく思った。
「私はアリシア・ノラドといいます。生まれたときからの記憶もあります」
そう前置きして、どうして海に浮かんでいたか話し始める。
「私はノラド家の娘ですが、本妻の娘ではなく妾の子供でした」
母は早くに亡くなり家の中ではメイド扱いでしたが、父は大層可愛がってくれました。
「ノラド家は代々貿易をやっている家柄で珍しい商品など扱っています。主に内陸の砂漠を横断する隊商との取引によって、お茶や香辛料、塩などを供給しているのですが、最近船での輸送が頻繁に行われるようになってきたため、海軍とつながりを持ちたいと考えた父は私を愛人として出すことにしました」
ある日、家で海軍の有力者や若者を招いてパーティが行われました。
誰に売りつけると一番利益が上がるのか考えるためでしょう。何人もの人に会いました。1等航海整備士の方々、副提督ミルフォード様……そして提督のシャムロック様。
「私はミルフォード様の所へ出されるのだと思っていました。事実パーティの時にも一番良く話し掛けられましたし。あの方のお屋敷にはすでに30人以上の愛人がいるそうですが、まだハーレム用に集めていると言う噂は聞いていましたから」
それなら一晩だけ付き合って、忘れられた頃に抜け出そう……そう思っていたのです。
「実はちゃんとした妻として迎えられるって事はないのか?」
ヨシ様の質問に私はきっぱりと断言した。
「ありえません。なぜなら私の血筋は代々愛人としか扱ってもらえないのです。もともと身分も何もなかったひいおばあ様が海で拾われて、奴隷として働きはじめた時代から……その、言い難いのですが、容姿で代々当主様にお仕えするのが私たちの役目なのです」




