庭マニア突然の訪問
水曜日。昼休み。澤村さんから電話が鳴った。
「柏木さん、今週の金曜、夕方18時以降でC-7空いてますか」
「空いてますけど。何ですか」
「見学希望の方がいまして。三島さんが直接対応してます。海外からで……なんとあのGreenThumbさんですよ!」
箸が止まった。
電話口の空気が、さっきまでと違う温度を帯びる。
画面の向こうにしかいないはずの人が、「会いに来る人」に変わった瞬間だった。
「……配信の、あのGreenThumbさん、ですか?」
「そうです。ご本人は『ただの庭好きです』とおっしゃってますけど、三島さん曰く“世界的にちょっと有名な人”らしくて。テキサスからわざわざ」
テキサス。彼の、広すぎて現実味のない庭の写真を思い出す。
胸の奥が、じわっと熱くなる。
直近See you soon :) (また会いましょう) が届いていたが、まさかもう来るとは。
「18時なら仕事終わってるんで、大丈夫です」
「助かります。三島さんが『柏木さんの勤務時間を侵害しないように』って、相手側にも伝えてくれてます」
三島さんらしい。あの人はいつも、俺の日常を守ってくれる。
毎回律儀に「Good evening. :)」と打ってくれる、第一回からの常連さん。
高そうな分析器をくれて、732円の苗代に150万円を投げてきた、あの意味の分からない人。
それでも、コメント一つ一つがずっと優しかった人。
金曜の18時、ゲートの向こうに立っているのは、どんな声で「Good evening」と言うんだろう。
嬉しさと楽しみと、ちょっとだけ怖いような緊張がいっしょくたになって、
弁当の味が、急にぼやけた。
†
金曜日。18時15分。C-7。
仕事帰りだった。スーツのまま。ネクタイだけ外してカバンに突っ込んで、革靴のまま新宿御苑跡のゲートを抜けた。
土曜日とは違う服装。ジャージでも、園芸用のエプロンでもない。高級じょうろも持ってきていない。
「会社員モード」のままここに来るのは、庭にとっても初めてのはずだ。
土に手を当てた。脈動。温かい。
「……ただいま」
曜日なんて関係ない、という顔で、庭はいつも通りそこにいた。
先週からまた少し広がっている。12畳の端っこではサニーレタスが新しい葉を出していて、その隣でルッコラの苗がベビーリーフに寄りかかるように傾いている。
支柱を直したい。葉を一枚ずつ撫でて回りたい。
でも今日は、お客さんが先だ。
ゲートの方から、足音がした。
三島さんが歩いてくる。その隣に、ひとりの男。
大きい。
三島さんが170半ばだから、隣の男は190近い。肩幅も広い。
けれど、威圧感はない。
歩き方が穏やかだ。地面を踏むときに、足裏全体をそっと置いていく。
まるで、見慣れた庭を傷つけないように歩く人みたいに。
銀色の瞳。
ダンジョンの薄紫の光を受けて、水銀みたいに揺れている。きれいだ、と思った。
きれいだけど、少しだけ疲れている。目の下に薄い影。長いこと、ちゃんと眠れていない人の顔。
「柏木さん、こちらが……GreenThumbさんです」
三島さんが、いつもよりわずかに丁寧な声で紹介した。
胸のあたりが、どくんと跳ねた。
「お会いできて嬉しいです。柏木ハルです」
声が少し上ずったのを、自分でも分かった。
それでも何とか、いつも通りの笑顔を貼り付けて、右手を差し出す。
大きな影が近づいてきて、その手を包んだ。
握られた、というより「包まれた」に近い。
指が長くて、節は固く、掌は意外なほど厚みがある。
それでいて、力はきちんと加減されていた。苗を折らないようにポットから抜くときの、あの力加減。
温かい。
思っていたよりずっと、土の温度に近いあたたかさで、少し驚いた。
「……想像していたより、ずっと“庭の手”だ」
低い声が、かすかに震えていた。
翻訳デバイスの日本語の奥で、英語の原音がわずかに滲む。
「え?」
思わず聞き返すと、GreenThumbさんは俺の手から目を離さなかった。
「土を、ちゃんと触っている手だ。
マウスでも、ペンでもなくて……スコップと、じょうろと、根っこと一緒に動いている手だ」
言葉を選ぶみたいに、ゆっくりとした日本語だった。
その視線に釣られるように、自分の手を見下ろす。
スーツの袖口から出ている右手。
いつも通り、爪の間に少しだけ土が残っている。細かい傷あとがいくつかあって、指先の皮が少し硬くなっている。
当たり前だと思っていたその手を、誰かがこんなふうにじっと見てくれるのは初めてだった。
「……GreenThumbさんの手も、です」
今度は俺のほうが、握られている手を見つめた。
節のところに薄いタコ。親指と人差し指のつけ根には、剪定ばさみを握り込む人特有の筋。
爪のあいだには、うっすらと土。
手首のあたりには、日焼けの境目がある。
画面の向こうにいた「庭が最高だ」と言い続けてきた人の手だ。
どれだけ肩書きや国が遠くても、この手だけは、こっち側と同じ仕事をしている。
「本当に、庭をいじってる人の手だなって、思いました」
口から勝手に出た言葉だった。
言ってから少し恥ずかしくなって、視線を逸らしかける。
けれどGreenThumbさんは、握った手を離さないまま、ふっと息を吐いた。
「つちのこ先生。ハル。会えてうれしい。いつも、すばらしい庭を見せてくれてありがとう」
低いけれど、驚くほどやわらかい声だった。
英語の癖が少し混じる日本語を、翻訳デバイスが自然につないでくれる。
耳で意味を理解するより先に、「あ、コメント欄のあの文章と同じ人だ」と体が納得した。
胸の奥が、じわじわと熱くなる。
コメント欄の:)でしか知らなかった人が、今は目の前で、俺の名前を呼んでいる。
DunCastの小さなアイコンが、ちゃんと背丈のある人間になって、C-7の入り口に立っている。
嬉しい。くすぐったい。
そして、少しだけ背筋が伸びる。
この庭を、ずっと見てくれていた人に、この手でいじってきた庭を見せる。
GreenThumbさんはようやく手を離し、今度はその手でC-7の中をゆっくりと指し示した。
バジ太郎。トマ次郎。トマ三郎。ミン三郎。ラベ四郎。
サニーレタス、ルッコラ、ベビーリーフ。
そして、6畳半から始まって、今は12畳まで広がった土の線。
その全部を、一つ一つ確かめるみたいに。
長い航海のあとで、やっと港にたどり着いたみたいな目で、見ていた。
†
C-7に入った瞬間、ラベンダーを筆頭にハーブの香りが一気に広がり、空気の層が切り替わった。
GreenThumbさんの歩みが止まった。
右足を踏み出しかけて、止まった。左足がまだゲート側にある。体の半分がC-7の中で、半分が外。
ダンジョンの薄紫の気配と、外の空気の境目に、ぎりぎりで引っかかっているみたいだった。
その境目で、彼の肩が一度だけ、わずかに震えた。
「……静かだ」
胸の奥から、漏れたような声だった。誰かに聞かせるためじゃなく、自分に言い聞かせるみたいな。
「え?」
「いや。……静かだ。ここは」
もう一歩、ゆっくりと中に入る。
GreenThumbさんが両手を広げた。何かを抱きしめる前の動作みたいに。掌を上に向けて、指を開いて。
大きな体が、ダンジョンの薄紫の空気を全身で受け止めている。
空気の流れを確かめるみたいに、指先がかすかに震えていた。
耳を澄ませる人みたいに、首がほんの少し傾く。
銀色の瞳が揺れた。水銀の表面に波紋が走ったみたいに。一瞬だけ、揺れて、止まる。
その瞬間、何かを飲み込むように喉が動いたのが見えた。
目を閉じた。
3秒。5秒。たぶん、もっと。
呼吸が、目に見えてゆっくりになっていく。
さっきまで固く上がっていた肩が、少しずつ下りていく。
大きな船が、港に着いてロープを張り直しているときみたいに、全身の力の張り方が静かに組み替わっていく。
俺と三島さんは黙って見ていた。何が起きているのかわからなかった。
ただ、大きな男が庭の入り口で目を閉じて、音のない何かを聞いているのを見ていた。
GreenThumbさんが目を開けた。銀色の瞳が、さっきより澄んでいた。
表面のざらつきが拭われて、底のほうの色がやっと見えた、みたいな澄み方だった。
「すまない。少し……驚いた」
翻訳機越しの声なのに、息の混じり方で本当に驚いているのがわかる。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。大丈夫。ただ」
GreenThumbさんが頭に手をやった。こめかみのあたり。
そこを二本の指で押さえて、軽くさする。何度もそうしてきた人の、癖のある動きだった。
「ずっと鳴っていたものが、止まった」
押さえていた指先が、ゆっくりと離れていく。
その下の皮膚には、うっすらと赤い跡が残っていた。どれくらい長いあいだ、そこを押さえてきたのかを物語るみたいに。
三島さんが、わずかに息を呑むのがわかった。
何が鳴っていたのか、俺にはわからない。
でも、「止まった」と言ったときの顔は、庭に初めて水をやった朝に見る、あの表情とよく似ていた。
やっと、静かになった土を前にした人の顔だった。
†
庭を案内した。
12畳。金曜の夕方の庭は、土曜の配信のときより少し暗い。ダンジョンの薄紫が濃くなって、植物の緑が深く沈んで見える。
ラベ四郎の花が暗がりの中で白っぽく浮かび、足元の土は、配信で見ていたときよりわずかに水分を含んでいるように見えた。夕方の冷え方と今日の湿度が、表面に細かい艶をつくっている。
「一番手前がハーブとサラダの列です。バジ太郎とバジばあが真ん中で、左右にサニーレタスとベビーリーフが」
俺がいつもの説明を口にし始めたときには、GreenThumbさんはもう動いていた。
190近い大きな体を折り畳んで、バジ太郎の前に膝をつく。
画面の向こうで何度も見た「しゃがんで苗を見る人」の姿勢と、まったく同じ角度だった。
膝が土に触れるぎりぎりのところで止まり、手のひらを先に伸ばす。まるで、自分の重みが土にかかりすぎないように計算しているみたいに。
葉に触れた。
いきなり上から掴むんじゃなくて、指先で、一番下の葉の裏をそっとめくるように。
葉脈をなぞる指の動きが、ゆっくりと波を描いている。配信のチャット欄で何度も「Gently」と書き込んでいた人の、そのままの手つきだった。
葉をめくった指が止まった。裏側を見つめたまま、呟く。
「葉脈の間隔が均等だ。通常のバジルならここに虫食いか日照ムラが出るが、一つもない。……根からの栄養伝達が、完璧に均一ということか」
さっきまでの「静かだ」とは違う声だった。
硬さが抜けているのに、観察の刃だけはきちんと立っている、庭の中でだけ出る種類の声。
「テキサスに庭がある。広い庭だ。でも——ダンジョンの中では、何ひとつ育たなかった」
短く言って、GreenThumbさんはバジ太郎の葉から手を離した。
その手が、次にどこに向かうか一瞬迷うように宙で止まり、それから、視線だけで庭全体をゆっくりとなぞった。
手前のハーブの列。真ん中のトマトとピーマンの列。奥のラベンダーとマリーゴールドの花壇。その向こうのレモンとリンゴとブルーベリーの鉢。
配信で一畳ずつ増えていくのを、一緒に数えてきた列たちだ。
視線が通ったところから順番に、植物たちが、少しだけ姿勢を正したように見えた。
毎週画面越しに浴びていたあの視線を、今日はようやく直に受け取っている——庭がそう感じているみたいだった。
「これを、全部?」
「はい。198円のバジルから始めて、少しずつ。最初は6畳でした。今は12畳あります」
「12畳」
その数字を、口の中で一度転がすみたいに繰り返す。
配信のチャット欄で何度も見てきたはずの数字を、今度は自分の足で測り直すみたいに。
GreenThumbさんが立ち上がった。膝についたわずかな土を払うのも忘れて、庭の端から端まで歩き出す。
一気にではなく、ゆっくり。
1歩ずつ、足の裏で土を押しては離し、押しては離す。硬さと水分と温度を、靴底越しに確かめているみたいに。画面の向こうでずっと見てきた「C-7の土」という名前に、実際の感触を上書きしていくような歩き方だった。
トマ次郎の支柱の横を通るときには、ほんの指先だけで支柱を軽く押した。揺れ方を見て、わずかに眉を寄せる。
「このトマト、3日以内に支柱を太いものに替えたほうがいい。実の重量増加に支柱が追いついていない。あと5個膨らんだら倒れる」
「え、そこまで分かるんですか」
「支柱の傾き角を見れば分かる。0.3度ほど先週より傾いている」
先週の傾き角を知っているかのような言い方だった。
それはきっと、画面越しに毎週見ていたからだろう。でも、そこまで計って見ていたとは、夢にも思わなかった。
ラベ四郎の花の前で立ち止まった。
香りが一層濃くなる。
目を閉じて、鼻から深く吸い込む。胸の奥まで空気を落として、しばらく止めてから、ゆっくり吐き出す。
甘さと青さと、わずかな湿った土の匂い。ラベ四郎とミン三郎と、C-7全体の匂いを、一度に確かめているみたいだった。
また目を閉じている。さっきもそうだった。この人は庭の中で目を閉じる。
目で見るんじゃなくて、体全体で庭を受け取ろうとしている。
「ミン三郎の壁は、ここです」
継ぎ目の番人を案内した。ミン三郎の根が地上に出ている部分を指さす。
地表近くの根が、細いロープみたいに何本も重なり合って、見えないラインを描いている。先週より、そのラインが半歩分だけ前に出ていた。
「この壁の深さは?」
「もう壁の意味がなくなってます。最初は15センチの根止め壁だったんですけど、ミン三郎が壁を越えて継ぎ目に住み着いちゃって。先週はまだここまでだったんですけど、今週で、この辺まで」
俺は指先で、先週の境界と今週の境界をなぞって見せた。
ほんの数センチ。でも、毎週画面越しに見ていた人には分かる差だ。
「今は壁じゃなくて、番人です」
GreenThumbさんは、示された「先週」と「今週」のあいだを、しばらくじっと見比べていた。
それから、根を一本一本見分けるようになぞりながら、声のトーンを少し落とした。
「根の先端が全部、同じ方向を向いている。これは向光性でも向水性でもない。空間の勾配に沿って伸びている。……テキサスで育って、物心ついた頃から庭を見てきたがこんな根の張り方は見たことがない」
配信で何度も見てきた光景が、今、自分の足元で現実の厚みを持って広がっている。その事実を、指先と視線で確かめているみたいだった。
GreenThumbさんがミン三郎の根に手を伸ばしかけて、止まった。
指先が、根の手前の空気でふわりと止まり、そのまま俺を見た。
「触っていいか」
「もちろん」
許可を聞いてから、もう一度、そっと手を伸ばす。
ミン三郎の根に触れた。大きな指が、細い根を一本一本見分けるようになぞっていく。
根が指に絡まったが、GreenThumbさんは慌てなかった。少しだけ指を曲げて、絡まった部分にたわみをつくり、ミントが自分から抜け出すのを待つ。ミントが何をするか知っている手つきだ。
そのとき、小さな影が視界の端をよぎった。
カケルとチビケルが来た。金曜の夕方にも来るのか。いつもは土曜なのに。
二羽とも、土曜より少し警戒心が強い顔をしている気がした。それでも、ミン三郎のあたりでしゃがんでいる大きな人間を、遠巻きにだけ観察している。
チビケルが先に動いた。
GreenThumbさんの足元まで、ぴょん、ぴょん、と二歩。そこで止まって、見上げた。黒い目。焦点が合っている。
首の角度が、ほんの少しだけ「これは大丈夫なやつだ」と言っているみたいだった。
GreenThumbさんがミン三郎から手を離し、そのままゆっくりとしゃがんだ。
チビケルと目が合った。銀色の瞳と黒い瞳。
「お前たちが、庭の鳥か」
翻訳デバイス越しの日本語なのに、「庭の」のところだけ、やけにやさしい響きで発音された。
チビケルの翼をじっと見る。
「この個体、ノイズが完全に消えている。浄化後のグラスバードの記録は世界に数例しかないが、ここまでクリアな個体は初めて見た」
「浄化って、庭のバジルを食べただけなんですけど」
「……それが、すごいんだ」
チビケルが首を傾げた。GreenThumbさんも首を傾げた。同じ角度で。
片方は小さな体で、片方は大きな体で、同じ仕草をする。そのたびに、ラベ四郎の花がわずかに揺れる。
「……仲良しですね、初対面なのに」
「モンスター……いや、もうモンスターではなく動物だな。彼らにはきっと分かるんだ。庭を壊す人間か、庭を好きな人間か」
そう言うときの声は、配信でよく聞いてきた「庭の話をするときの声」そのものだった。
C-7も、カケルもチビケルも、その声を知っているみたいに、少しだけ空気の密度を変えた。
ここにいる全員が、同じ庭語を話している、と思った。
お読みいただきありがとうございました。
次は金曜日12:00投稿予定です。




