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世界初、0.00の静寂を観測

 木曜日。管理局から正式なメールが来た。


 件名:【新宿御苑跡C-7】追加精密測定およびヒアリングのご協力依頼。


 本文は、いつも通りの事務的なテンプレートだった。日時調整、協力のお願い、担当部署名。管理局のメールは、Excelの書式みたいにフォーマットだけがカッチリ決まっていて、中身が変わっても枠はほとんど同じだ。


 その決まりきった文章の、署名の少し上。インデントされた一行が、そこだけ違うリズムで紛れ込んでいた。


「――ラベンダー、とても良い香りがしました。

   ダンジョン管理局 本部分析部 上級分析官 三島」


 最初は、別メールの一文をコピペし間違えたのかと思った。でも、送信者は三島さんだ。あの人がコピペミスなんてするところを想像できない。多分これだけは、テンプレじゃなくて自分の指で打った一文だ。


 三島さんは、ちゃんとあの場に来ていた。管理局の上級分析官が、128円のラベンダーの香りを覚えていて、わざわざメールに書き添えてくれた。


 それがなんだか、場違いなくらいささやかで、不思議で、やけに嬉しかった。


 †


 土曜日。配信前。C-7。


 今日はいつもより人が多い。三島さん、佐伯さん、後藤さん、それから見知らぬ若手が2人。合計5人。全員、いつもの配信の常連と同じ名前札を胸につけていると思うと、ちょっとおかしい。


 そして何より、機材がすごかった。


 先週までの携帯型計測器とは次元が違う。キャリーケースが3台並び、その中身が庭じゅうに展開されている。本格的な測定装置、三脚、モニター。センサーのプローブは8本。ケーブルがバジ太郎とトマ次郎のプランターのあいだを抜け、トマ三郎の根元を回り込み、ミン三郎の壁際を這い、ラベ四郎の花のそばで止まっている。


「大掛かりですね」


「前回の崩壊事象で、C-7が管理局内の優先案件になりました」


 三島さんは淡々と答える。


「今日は8点同時測定を行います。庭の全エリアの空間振動値、座標安定度、EM値を一括で取得します」


「8点……つまり、全部ってことですよね。バジ太郎も、トマ次郎も、トマ三郎も」


「全部です。前回は佐伯が3点で測って異常値が出ましたが、3点では統計的に足りない。8点なら、庭全体を“面”として評価できます」


 その「佐伯が」のところで、佐伯さんが顔を上げた。手元のセンサーを調整しながら、こっちに向ける視線が完全にオタクの目だ。配信でスパチャを投げるときと同じキラキラ具合で、今は計器を撫でている。


「柏木さん、センサー位置、配信カメラの邪魔になってません?」


「あ、大丈夫です。バジ太郎もトマ次郎もトマ三郎も、いい感じに映ってます」


「よかった!」


 後藤さんは、タブレット片手に庭を一周しながら、何度もカメラ位置とケーブルの干渉を確認している。現場担当というより、完全に「推し配信のオフコラボ設営スタッフ」の動きだ。


「柏木さんは、いつも通りで構いません」


 三島さんが、ケーブルマップを確認しながら言った。その言い方は、配信のコメント欄で「いつも通りでいてください」と書き込んでいたときと、まったく同じトーンだった。


「いつも通り庭をいじっていてください。測定はこちらでやります。配信も、いつも通りやってください」


「……そんな優先案件の現場で、いつも通りやってていいんですか」


「むしろ、いつも通りでいてください」


 三島さんが少しだけ口元を緩める。


「我々はデータを取りたい。配信の視聴者としても、いつものC-7を見たい。今日はその両方をやりに来ています」


 管理局の上級分析官と、その部下たちと、C-7の常連リスナーたちが、同じ顔で庭を見ていた。


 バジ太郎も、トマ次郎も、トマ三郎も、ミン三郎も、ラベ四郎も。


 いつもより少しだけ、誇らしそうに揺れている気がした。


 †


「いつも通りにする」、それだけを意識した。


 でも、庭はもう「いつものサイズ」じゃなかった。


 バジ太郎に、澤村さんから預かっているじょうろで水をやる。緑のカーテンみたいに伸びた葉が、腰のあたりまで届いている。葉の重さで少ししなっている茎を支え直しながら、土の乾き具合と根元の湿り気を、いつもの順番で確かめていく。


 トマ次郎の支柱を軽く揺すって固定を確認すると、三段目の実が真っ赤に色づき、その上の段にも新しい房がいくつもできていた。四つ目どころか、五つ目、六つ目の小さな実が、枝いっぱいに並んで膨らみ始めている。カメラをぐいっと近づけると、画面の半分がトマトの赤と緑で埋まった。


 トマ三郎は鉛筆のようだった茎がすでに大人の親指ほどの太さになり、産毛をびっしりと蓄えている。その先からは、手のひらを広げたような立派な本葉が何枚も突き出し、重なり合って影を作っていた。


 ラベ四郎の花を覗き込めば、薄紫の小さな花が、先週の倍以上に増えている。一株だったはずが、いつの間にか隣のスペースまで侵食して、小さなラベンダー畑みたいになっていた。鼻を近づけると、柔らかい香りが、今度は風に乗って庭全体に広がっていく。


 足元の土に手を差し込めば、ミン三郎の根が、かつての「庭の端」だった場所を軽々と越えて、さらに外側まで張り出しているのが分かる。太い根から細い根が無数に分かれて、継ぎ目沿いに広がる新しいセーフエリアの輪郭をなぞっていた。


 顔を上げると、ミン三郎の壁も背丈を超えていて、向こう側の景色がほとんど見えない。


 そこへ、カケルとチビケルが、拡張されたミン三郎の壁際をなぞるようにやって来る。


 先週は崩壊のあとで警戒して距離を取っていたのに、今週はミントの根と葉のあいだをくぐり抜けて遊んでいる。チビケルの黒い目が、まっすぐこっちを見上げてくる。あの発光以来、その視線はずっと、はっきり焦点が合ったままだ。


 視線を少し上げると、「管理局チーム」が、その大きくなった庭をぐるりと囲んでいた。


 佐伯さんは、伸びたミン三郎の外周にまで伸ばされた8本のセンサーから流れ込むデータを、子どもみたいな目で追いかけている。


 後藤さんは、モニターに増えたグラフのレーンをスクロールしながら、カメラに新しい緑の範囲がちゃんと映っているかもチェックしている。


 若手2人は、拡張されたエリアにケーブルが踏まれないよう、ミン三郎の根と根のあいだにそっとケーブルを通して、小声で「ここも測れるんですね」「ここまで広がったんだ……」なんて言い合っている。


 その向こうで三島さんが腕を組み、少しだけいつもより広角になったC-7全体を見渡していた。


 前よりも大きくなった庭と、その先にいる視聴者たち、両方まとめて確認するみたいに。


 その真ん中で、俺はただ、いつものように庭をいじる。


 手は勝手に動き、口からは自然と鼻歌がこぼれる。祖母が庭でよく歌っていた歌。


 先週は一度も出てこなかったそのメロディーが、今日は、前より少し広くなった土と緑の匂いに乗って、軽く空に溶けていった。



 測定が終わった。


 佐伯さんが後藤さんと数値を突き合わせている。2人の顔色がおかしい。


「柏木さん」


 佐伯さんが呼んだ。声が上ずっている。


「結果を報告します」


「はい」


「空間振動値。8点同時測定」


 佐伯さんがモニターを持ち上げた。手が安定している。声は事務的だ。まだ。


「計測点1。バジ太郎横。0.00」


 間。


「計測点2。トマ次郎根元。0.00」


 声が少し変わった。事務的な硬さが揺れ始めている。


「計測点3。ミン三郎壁際。0.00」


 唇を噛んだ。後藤さんが隣で手を握りしめている。


「計測点4。ラベ四郎花横。0.00」


「計測点5。石のベンチ下。0.00」


 5点目で佐伯さんの声が割れた。鼻を一度すすって、続けた。


「計測点6。継ぎ目近傍。0.00」


「計測点7。境界線内側。0.00」


 後藤さんが膝をついた。モニターを見たまま、ゆっくり地面に膝をついた。科学者がデータの前で祈っている姿に見えた。


「計測点8。中央部。0.00」


 佐伯さんが計器を胸に押し当てた。抱きしめるみたいに。


「全8点。0.00。一つの例外もなし」


 間。


「全部、ゼロです。1点の例外もなく、セーフエリアC-7の全計測点において、空間振動値が完全にゼロ。人類が観測した中で、完全な空間静止が確認されたのはこれが初めてです」


 後藤さんの手が震えていた。モニターを持つ指先が小刻みに揺れている。


「座標安定度。99.9。国内記録を更新しました。世界でもデータベースに前例がありません」


「EM値。庭全体で安定した高値。バジ太郎エリア1.36、トマ次郎エリア1.28、ラベ四郎エリア1.12、ミン三郎エリア1.05。先々週の崩壊を経て、数値が上がっています。崩壊がなかった前のデータより高い」


「つまり先週の崩壊で、庭が壊れたのではなく——」


「強くなっています」


佐伯さんの目が濡れていた。震える手で計器を握りしめ、壊れたレコードのように言葉を塞ぎながら。まるで、一生に一度しか見られない奇跡の数式に触れてしまった学者のような、あるいはあまりに神聖なものを見て情緒が崩壊してしまった信者のような、そんな泣き方だった。


「佐伯さん」


「花粉症です」


「……4月だし」


「4月です」


 三島さんが近づいてきた。


「佐伯。報告書は何ページになる」


「42ページです。すでに下書きは始めてます」


「結論は」


「『人類が初めて観測した、ダンジョンの完全な空間静止。発生源は覚醒者・柏木ハルの土壌操作に起因すると推定される。メカニズムは未解明』」


 三島さんがうなずいた。


「提出先はJDA本部。それとIDMAへの情報共有を検討します」


「IDMA」


「国際ダンジョン管理機構。海を渡ります」


 三島さんの目が笑っていなかった。今日初めて。


「柏木さん」


「はい」


「今まで通りにしてください」


 3回目の「今まで通り」。でも今日のは重さが違った。


「庭をいじってください。水をやって、壁を直して、ミントを叱って。それが一番大事です。我々がやるべきことは我々がやります」


「三島さん、俺のこの庭って……なんなんですか」


「いい庭です」


 それだけ言って、三島さんは機材を片付けるよう指示した。


 †


「おかえりなさい。今週もダンジョン庭配信、始めます。少し時間ずれ込んで後ろで物音するかもですが...」


(Comments)

【◆常連A】ただいま!

【◆gardenFan_03】先生、庭に三脚と機材見えたんだけど

【新規63】先週の崩壊アーカイブから来ました

【◆GreenThumb】Good evening. Any news? :)(こんばんは。何かニュースは?)

【新規64】庭いじり配信ってこんなに人いるんだ


「今日は、まず嬉しい報告があります。配信前に、管理局の方々がきて」


(Comments)

【◆常連A】 管理局!?ついに家宅捜索か!

【◆毒舌キノコ】 「嬉しい報告(無罪放免)」か

【◆常連B】 管理局の人が来た時、「知能を持っちゃったスイカ」はちゃんと隠した?

【新規63】 待って、庭いじりに管理局が来るって何?除草剤の濃度でも違反したの?

【◆常連C】 新規くん、ここは「除草剤」じゃなくて「除霊」とか「空間固定」の話をする場所だよ

【新規64】 管理局の人が来た時、庭のキメラ植物隠した?大丈夫?

【◆gardenFan_03】 三脚があったのは、その現場検証用だったのか…

【◆カンナ先輩】 先生の「嬉しい」は、一般人の「地球存亡の危機」くらいあるから油断できない

【◆常連A】 はよ!管理局の言い渡した「判決」を教えてくれ!


「庭の中を8か所同時に測ったんですけど、空間振動値が全部0.00でした」



お読みいただきありがとうございました。

次は明日18:00投稿予定です。


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