先週から少しだけ変わった日常
第二部始まりました。同じく10話程度を予定していたのですが1話を短くというアドバイスをもらったので分割してます。
月曜日。田中が朝イチで席に来た。缶コーヒーを二本持っている。そのうち一本を、俺のデスクに置いた。
「嫁がな、昨日の夜、お前のアーカイブ見て泣きすぎて、今朝、目パンパンだったぞ。ちなみに俺も横で見た」
「……どうでした?」
「正直、俺自身は泣くほどじゃなかったけど」
そう言って田中は缶を開ける。ブラック。田中はいつもブラックだ。
「でもまあ、トマトが赤くなったのは普通にすげえなと思った。ダンジョンの中でも育つんだな」
「ふふ、そうですね。ありがたいことに育ちました」
「嫁が『あのトマト食べてみたい』って言っててな。でも、世界にひとつしかないんだろ? 無理か」
「2個目が膨らんでるんで、もしよければ」
「マジか。じゃあ10個なったら1個頼む。嫁、泣いて喜ぶわ」
田中は一瞬、缶のふちに視線を落とした。あの頃、俺が配信してることを嫁に秘密にしてくれと頼んだのを覚えているのだろう。何かを言いかけて、結局何も言わなかった。
「……もう、隠さなくて大丈夫です。ちょっと吹っ切れました」
俺は穏やかに笑った。田中も少し肩をすくめて、ブラックを一口。
「そうか。じゃあ堂々と、応援するわ」
全員が同じ温度で感動するわけじゃない。田中は泣かなかった。でも缶コーヒーをおごってくれた。
それだけで、十分だった。
†
水曜。昼過ぎ、澤村さんから電話が鳴った。
「柏木さん、先週の配信、見ましたよ。いや、“見ました”っていうか……上から『様子を見ておけ』って言われてるんで、業務としてですけど」
「嬉しいです、ありがとうございます」
「それで――あの、備品の件なんですけど」
「備品?」
「じょうろを一つお貸しできることになりました。管理局の備品台帳に載ってる業務用のやつです。ステンレス製で、水の粒径が均一、流量も細かく調整可能。本来はダンジョン内の土壌サンプリング用の精密散水器なんですけど……三島さんが、『あの庭にはちゃんとした道具があったほうがいい』って」
「いいんですか?」
D級の身で管理局の高級じょうろを借りる、なんて書類上は完全に場違いだ。それこそ事務担当者が頭を抱えるレベルだろう。
「試験運用って名目にしておきます。報告書は特に……多分いりません」
「ありがとうございます。これで植物もっと増やせます。三島さんにも伝えてください。嬉しいって」
ふと思う。
「澤村さん、もしかして――庭、結構気に入ってくれてますか?」
一瞬の沈黙。受話器越しの空気が、少しだけ和らぐ。
「仕事です。けど、うち、多分みんな柏木さんを見守っています」
その言葉を聞いた瞬間、胸のどこかがふっと緩んだ。
うちに帰ったみたいな気持ちになった。
†
金曜の夜。アパートの台所。
洗濯物を畳んでいたら、ジーンズのポケットからティッシュの塊が出てきた。
先週のトマ次郎の種だ。食べたあと、なんとなく皮と種をティッシュに包んでポケットに入れた。そのまま忘れていた。あと30分遅かったら、洗濯機の中だった。
世界初のダンジョン産トマトの種。学術的価値は不明。食品としての安全性も不明。ついでに言えば、一週間ポケットの中でぐしゃぐしゃに揉まれて、普通ならもう駄目でもおかしくない。
それでも――もしこれで芽が出たら。
祖母の庭じゃなくて、俺の庭として、ちゃんと続きに進める。
種を包んだティッシュをそっと開いて、窓辺に置いた。明日、持っていこう。
天井を見た。先週、2,347人の前で泣いて祖母の庭の話をした。
恥ずかしさはまだある。でもその下に、別の感覚がある。
今は「祖母の庭を再現しなきゃ」という重さが抜けている。あの庭はコピーじゃない、俺の庭だからだ。
バジ太郎とトマ次郎とミン三郎とラベ四郎の庭。そしてカケルとチビケルがいる庭。
再現じゃなくて、続きを。
庭いじりも配信も、ずっと続けていきたい。本気でそう思えたのは、初めてだった。
†
土曜日。C-7。
ゲートを抜ける際に澤村さんから高級じょうろを借りて、C-7へ向かう。いつもの薄紫の空。いつもの匂い。
庭を見回す。バジ太郎の葉が先週より色が濃い。濃いというか、鮮やかだ。
ダンジョンの薄紫を押し返すような緑。トマ次郎の枝には、先週から赤くなった実のほかに、新しく4つ、丸い実がぶら下がっている。どれもまだ緑だけど、来週にはこのあたり一帯がオレンジ色かもしれない。
ミン三郎は今日も壁の中で暴れている。根止め壁を小突く振動が、手のひらから伝わる。ミントは毎週元気だ。この植物に休日はない。
ラベ四郎の蕾は5つに増えていた。先週は3つ。2つ増えた。開花はまだだけど、近い。
「おつかれさまです。今週もダンジョン庭いじり配信、はじめます。柏木です。つちのことも呼ばれてます」
(Comments)
【◆常連A】おう、実家(C-7)に帰ってきたぞ
【新規52】ここが全米が泣いたトマト農園ですか?
【◆常連B】いつもの場所、いつもの紫色、いつもの情緒不安定な配信者
【◆gardenFan_03】先生、先週の切り抜きが200万再生超えてて草。もうD級の星じゃん
【新規51】「※この配信はダンジョン攻略を一切行いません」ってタグから来ました
【◆毒舌キノコ】「ダンジョン トマト 泣ける」で検索すると先生の顔面ドアップが並ぶのどうにかしろ。営業妨害だ
【◆GreenThumb】Good evening. How is the garden this week?(こんばんは。今週の庭はどうですか?)
視聴者数が3,200人を超えている。
「『おかえり』、いいですね。次から挨拶はおかえりにしようかな。新規の方はようこそ。何かあれば常連さんに聞いてください。だいたい全部知ってるんで」
(Comments)
【◆常連A】初見はとりあえずアーカイブ見て泣いてこい。話はそれからだ
【◆常連B】任せろ。ここは「D級が泣きながらトマト食うのを泣きながら見守る」という謎の配信です。現在の入居者は植物3体と、鳥が2羽。壁の中で反抗期やってるミント1柱。以上
【◆常連A】ミン三郎を「柱」で数えるなw
「完璧です。補足すると、今日から新兵器があります」
銀色の高級じょうろを持ち上げた。
持ち手のグリップは滑らない素材で、注ぎ口が3段階に調整できる。多分、俺の3,000円の手当よりはるかに高い。
(Comments)
【◆毒舌キノコ】なんだその高そうなじょうろ。
【◆gardenFan_03】それ英国王室御用達のやつじゃない? じょうろ界のロールスロイスだぞ(知らん
【◆カンナ先輩】水滴のサイズを魔力で微調整できる高級モデルですね……!
【新規115】おい、それ本職の「森羅魔導師」が聖樹に水やる時に使うやつだぞ(知らん
【◆常連A】D級のくせに「聖騎士」みたいな装備持ってて草。身の丈に合ってないぞw
「管理局から借りました。試験運用です。……多分」
(Comments)
【◆毒舌キノコ】「多分」で借りてくるな。横領か?
【◆gardenFan_03】管理局もついに「このD級、魔物倒さないけどトマト作らせたら世界一だな」って気づいた説
【◆GreenThumb】Good tools deserve good gardens. :)(いい道具はいい庭にふさわしい)
じょうろでバジ太郎に水をやってみた。確かに水の出方が全然違う。霧みたいに細かくて、まんべんなく。いつもの100均じょうろとは格が違う。
「これ、すごいですね。水の粒が細かくて。バジ太郎が喜んでる気がします」
(Comments)
【◆毒舌キノコ】バジルに感情はない。お前の願望を投影するな
【◆カンナ先輩】あ、でも土への浸透速度が違いますね。
【◆常連B】100均じょうろから一気に「伝説の装備」に更新してて笑う。次は金ピカのスコップか?
【◆常連A】道具に負けるなよ、つちのこ先生!
†
トマ次郎。2個目の実。
先週「ちゃんと噛みしめて食べます」と宣言したので、今回は逃げられない。カメラを寄せた。
赤い。先週のよりひと回り大きい。ダンジョンの薄紫に負けない赤だ。手のひらに乗せるとずっしりしていて、そのままかじるには惜しいサイズだった。
「今日はちゃんと、丁寧に食べます」
ポケットからナイフを出す。ヘタのあたりに刃を入れて、そっと割った。赤い果肉が露出する。切り口から溢れた果汁が、指先を伝って落ちた。土の上じゃなくて、まずは皿の上に受ける。ここまで育てたトマトだ。雑にはできない。
「いただきます」
四分の一を口に運んだ。
皮がはじける。果汁。甘い。先週の1個目より甘い気がする。酸味が少し引いて、その分だけ甘さが前に出てきている。同じ株の2個目なのに、味が違う。
「……甘い。先週より甘くなってるかも」
(Comments)
【◆カンナ先輩】糖度、上がってます? 魔力濃度の変化によるものか……成分分析かけたい……
【◆gardenFan_03】先週のレポは「泣きすぎて味覚消失してる説」あったからな。今日のが正解か
【◆毒舌キノコ】憑き物でも落ちたか。泣き腫らしたツラよりは、今のほうが数倍マシだぞ
【◆常連A】キノコ、相変わらず一言多いぞw
【◆毒舌キノコ】事実だろ。先週は画面が湿気るレベルで泣いてたんだから、基準は最底辺だ
「毒舌キノコさんに『マシ』って言われました。人生で一番嬉しい褒め言葉かもしれない」
(Comments)
【◆毒舌キノコ】そんなんで喜ぶな。お前の人生の難易度どうなってんだ
【◆常連A】褒められて伸びるD級、つちのこ
【◆gardenFan_03】でも本当にいい顔して食べてる。こっちまで腹減ってきたわ
残りのトマトを、また四分の一ずつゆっくり噛んでいく。口の中に甘さが層みたいに重なっていく。指先に果汁。爪の間にダンジョンの土。
ふ、と鼻から息が漏れた。
息じゃない。旋律だ。
じょうろを傾ける手が止まった。水がバジ太郎の根元に溜まっていく。多すぎる。でも手が動かない。喉の奥から、祖母が台所で歌っていた旋律が浮かんできて、体がそっちに持っていかれている。
トマトの甘さが舌に残っている。爪の間にダンジョンの土がある。この組み合わせ――甘いものを食べたあとに立ち上がる、土の匂い。祖母の庭と同じだ。体がそれを覚えていて、勝手に歌い出した。
我に返って、じょうろを傾けた。根元の水たまりが土に吸い込まれていく。多すぎても大丈夫。土が吸ってくれる。
「……あ」
口を押さえた。遅い。マイクが拾っている。
(Comments)
【◆gardenFan_03】先生、鼻歌出てる
【◆常連B】なんか聴いたことあるような、ないような。実家(C-7)のテーマソング?【◆カンナ先輩】先週吹っ切れたんですかね。表情が柔らかい
【◆毒舌キノコ】止めるな。続けろ
【新規167】「ダンジョンで鼻歌まじりにトマト食うD級」とかいうシュールすぎる配信
【◆常連A】これぞ「実家のような安心感」。寝落ちしそうだわ
【◆常連B】いいぞもっとやれ。バジ太郎も揺れてる気がする
【◆GreenThumb】Keep humming.(歌い続けて)
GreenThumbさんの「Keep humming.」
なんでこの人は、こういう短い言葉で、こんなに的確に背中を押してくるんだ。
「……ではBGMということで」
鼻歌を止めなかった。祖母の台所の歌。メロディしか覚えていない。歌詞は知らない。祖母も歌詞を歌っていなかった気がする。鼻歌だけ。ふふふん、ふふん。
高級じょうろの「シャン、シャン」という規則正しい水音と、喉の奥で鳴る旋律が、庭の静寂に溶けていく。
バジ太郎に水をやる。トマ次郎の支柱を確認する。ラベ四郎の蕾を数える。ミン三郎の壁をチェックする。
いつもと同じ単調な作業なのに、今日は指先まで温かい。土を叩くリズムと、鼻歌のテンポが重なるたび、庭全体の「脈動」が俺の体温に近づいてくるような、不思議な心地よさがあった。
†
「さて、先週のトマ次郎の種です。食べたあとポケットに入れて、そのまま忘れてて……金曜の夜、ジャージを洗濯する直前に、ギリギリで救出しました」
ポケットから、くしゃくしゃのティッシュを取り出す。
(Comments)
【◆gardenFan_03】全人類が肝を冷やしたぞ今!!
【◆毒舌キノコ】世界初のオーパーツを洗濯機で「全自動・異物除去」しようとした男
【◆カンナ先輩】ジップロックに入れてください今すぐ
【◆常連A】世界遺産(の卵)を鼻かんだティッシュみたいに扱うなww
【◆GreenThumb】Close call. :)(危なかった)
「配信の後GreenThumbさんに言われて、ちゃんと取っておいたんですけど……保存方法が、多分だいぶ雑でした」
(Comments)
【◆毒舌キノコ】「ティッシュに包んでポケット」は保存とは言わない
【◆gardenFan_03】乾燥剤、密閉瓶。来週までに揃えろ。リスナーとの約束だ
【新規128】先生の「D級感」が私生活にまで溢れ出てる……
【◆カンナ先輩】私が種子保存用のシリカゲル送ります
【◆GreenThumb】Every garden starts with one plant. But it continues with saved seeds.(すべての庭は1株から始まる。でも庭が続くのは、取っておいた種のおかげだ)
「庭が続くのは、取っておいた種のおかげ」
思わず、声に出して読んだ。GreenThumbさんの言葉は、いつも短いのに重い。
「来週までに、ちゃんとした保存環境を用意します。その上で、今日は1粒植えてみようと思います」
(Comments)
【◆常連A】ついに二代目、トマ三郎(仮)の誕生か!
【新規310】ここが伝説の「ティッシュ保存トマト」の会場ですか?
【◆gardenFan_03】歴史が動く瞬間を、ティッシュ越しに見てる不思議。
【◆カンナ先輩】播種の瞬間、高解像度でお願いします。魔力の収束を観測したい。
【◆毒舌キノコ】おい、プレッシャーで手が震えて種を落とすなよ。
【新規311】D級の種まきに視聴者全員が固唾を飲んでるの、シュールすぎ。
「プレッシャーやめてもらっていいですか。震えたら、全部キノコさんのせいにしますからね」
指先で、ティッシュの上の種を探る。乾いた小さなつぶが、指の腹に転がる感触。
(Comments)
【◆常連B】キノコのせいで種が迷子になったら笑う。
【新規312】落ち着け、ただの園芸だ……いや、ダンジョン産だったわ。
【◆毒舌キノコ】俺のせいにするな。お前の豆腐メンタルを鍛えろ。
「1粒だけ、いきます」
バジ太郎とトマ次郎のあいだ。陽当たりと風通しがいちばんいい、小さなスペースを選んだ。ごく浅く穴をあける。指先で土を摘んで、静かにかぶせる。
トマトの種1粒。土の中に消えるのに、やけに時間がかかった気がした。
(Comments)
【◆常連B】埋まった
【◆常連A】合掌
【新規88】合掌って言うなw
【◆GreenThumb】Gently. Let the soil hold it.(そっと。土に抱かせてあげてください)
「じゃあ、少しだけ土のコンディションを整えたら、あとは土に任せます」
高級じょうろを傾ける。新しいシャワーヘッドから、細かい水の粒が一面に広がった。粒径が揃った水が、ふわっと土を叩く。跳ねない。崩れない。
「おお……これは、いい」
(Comments)
【◆gardenFan_03】水の粒きれい
【◆カンナ先輩】散水パターンが美しすぎる。スペックください
【◆毒舌キノコ】じょうろのレビュー配信になってて草
種をまいたあたりに、少しだけ長めに水を落とした。土の表面が、しっとりと暗い色に変わる。
「発芽までは、1週間から10日くらい……らしいです。普通のトマトなら、ですけど」
(Comments)
【◆常連A】この庭、成長バグってるし3日だろ
【◆常連B】洗濯機に負けなかった種だし、根性ありそう
【新規406】逆に1ヶ月くらい寝てそう。保存が雑すぎて
【◆毒舌キノコ】芽が出なかったら全部お前の保存のせいな
【◆GreenThumb】No rush. Good things take time.(急がなくていい。いいものは時間がかかります)
「どっちにしても、急かさないで待ちます。出てきたら、一緒に見ましょう」
水音が静まると、庭の気配が少しだけ変わった気がした。
バジ太郎の葉が揺れて、トマ次郎の実がわずかにきらめいて、足元の土の奥に、まだ見えない何かの気配がひとつ増えたような気がした。
1話が長くなってしまったので、前半・後半に分けました。
明日18:00投稿予定です。




