114:再会の刃
◇五十二日目【7月31日(水)】
■雨が降り出す前に《POV:鈴》
灰色の雲が空を一面覆っていた。
風はなく、湿った空気だけがまとわりつく。
今にも雨が降り出しそうな早朝、鈴は東側の河川敷でまさみを待っていた。
川幅は二、三十メートルほど。
甲山山地から海へ向かって流れていくその川は、深い溝のようになっており、河川敷といっても狭い遊歩道が一本あるだけだ。
犬を連れて散歩する人がときおり通る以外、人影はほとんどない。
冷たい水音だけが、静かに流れ続けていた。
鈴の視線は、川をまたぐように建てられた駅舎へ向いている。
ちょうど上り電車が到着したところで、窓越しに人影がちらちらと動いて見えた。
まさみが来るなら、あの駅のほうから姿を現すはずだ。
しばらくすると、見覚えのある小柄な少女が階段を下り、河川敷へと姿を現した。
その姿に鈴の胸が高鳴る。
(まさみさん……)
心のなかで名前を呼び、鈴は抑えきれぬまま駆けだした。
孤独だった世界を変えてくれた恩人。
そして、一番大切な友達。
駆け寄る鈴に、まさみはポケットから左手を抜き、軽く手を上げて応えた。
距離が数メートルに縮まったそのとき――
「うっ……」
鈴の足が止まる。
目を見開き、茫然とまさみの目を見つめた。
胸から手に、じんわりと生暖かい感触が広がる。
(あれっ…… どうしたんだろう)
まさみの虚ろな瞳。
その瞳にじわじわと生気が戻っていく。
そして、まさみの目を見つめながら、鈴は崩れるように膝をついた。
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――!」
まさみの悲鳴が朝の河川敷に響き渡った。
「鈴! 鈴、しっかりして!」
遠くでまさみの声が聞こえる。
意識の奥底でその声を捉えると、鈴は重たい瞼をわずかに開けた。
涙でぐしゃぐしゃになったまさみの顔が視界に飛び込む。
「まさみさん……」
(私は死なない。だから、安心して――)
そう伝えようと口を開きかけたとき、意識がふっと遠のいた。
視界が揺れ不思議な感覚とともに、鈴の意識が入れ替わる。
空を覆っていた雲が、異常な速度で膨れ上がっていった。
灰色の雲はまるで生き物のようにうねり、空全体を黒く塗りつぶす。
そして、冷たい雨がポツリ、ポツリと落ち始めた。
「私、私、どうして……」
まさみは膝をつき、崩れ落ちた鈴の体を強く抱きしめながら震えていた。
そんなまさみの両肩を掴んで軽く引き離すと、鈴は立ち上がった。
「まさか、お前が刺客だとはな」
エヴァは静かに告げると、胸に刺さったナイフをためらいなく引き抜いた。
「ほんのわずかだが魔力を感じる。お前、ヴァンパイアの下僕になったのか?」
エヴァの冷ややかな視線がまさみを射抜く。
雨脚はみるみる強まり、川面を打つ音が次第に激しさを増していく。
やがて増水警報の回転灯が点灯し、黄色い光が雨の中で回り始めた。
このまま河川敷にいれば、甲山山地からの鉄砲水が襲う可能性がある。
『エヴァさん、早くまさみさんを連れて川から上がって!』
鈴の心の叫びに、エヴァは応じなかった。
まさみを見下ろしたまま口を開く。
「ナイフが銀でなくてよかった。さすがに銀で刺されたら、私でも死ぬかもしれんからな」
エヴァはそう呟きながら、自らの胸にそっと触れる。
そこにあった傷はもう消えていた。
「それに、心臓はこっちだ」
エヴァは自分の胸に触れた手を数センチ左にずらす。
一方、さっきまで泣き叫んでいたまさみは、呆然とエヴァを見つめていたが、やがてゆらりと立ち上がった。
次第にその瞳から光が消え、まるで操られるように、何の躊躇もなく素手でエヴァに襲いかかった。
「離せ…… 鈴! お前を殺してやる!」
虚ろな瞳のまま叫ぶまさみの腕を、エヴァは冷ややかに受け流し、後ろ手にねじり上げる。
(まさみさん……)
鈴は息を呑んだ。
まさみは激しく抵抗し、エヴァに殺意を向ける。
その姿に、先ほどまでの恐怖に震えていた彼女の面影はなかった。
「ほう、お前は私を殺そうというのか?」
エヴァの口元に、冷たい笑みが浮かぶ。
その瞬間、世界が一拍、静止した。
――バサバサバサバサッ
川の上に並ぶ街路樹にとまっていた小鳥たちが、一斉に羽ばたき、空へ逃げ去っていく。
エヴァが放つ、この鋭い気配……
鈴はその感覚をはっきりと思い出していた。
(これは…… 殺気。まさみさんを…… 殺す気だ)
鈴は反射的に叫ぶ。
『やめてぇぇ、まさみさんを殺さないで!』
鈴の悲痛な叫びに、エヴァは深くため息をついた。
「しかたがないな」
そう呟くと、エヴァはまさみの首筋に顔を寄せ――
鋭い牙をむき出しにし、そして深く突き立てた。
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