個人授業ですわ
その目に、イヴリンは笑顔で答えた。
「当たり前ですわ! あなたは私の最初の生徒です。アストン様、どうぞよろしくお願いいたします」
するとアストンは、はっとしてイヴリンの手を見た。
「そうだ、手……だ、大丈夫ですか。血が……!」
そういえばケガをしたんだっけ。イヴリンは手のひらをちらりと見た。
アストンが部屋の引き出しから、ハンカチを引っ張り出してきた。
「あの、さ、触ります、ね……?」
おどおどしながら、アストンがイヴリンの手を取った。たどたどしい手つきで、ハンカチを巻いて、ぎゅっと縛る。
多分、自分でやったほうが確実だけれど――イヴリンはありがたく、彼の治療を受けることにした。
「ごめんなさい、ごめんなさい……僕のせいで」
その声が辛そうだったので、イヴリンは首を振った。
「あら、全然気になさらないで。だってほら、御覧になって」
イヴリンはもう片方の手の平を彼に見せた。切り傷、あざ、噛みつき跡――がうっすら残っている。
「私、いままでたくさんの反抗的な動物をなつかせてきましたから、傷には慣れっこですの。こんなのかすり傷でもありませんわ」
するとアストンは、きゅっと唇を結んで、震える声で言った。
「それでも――僕が先生を傷つけてしまったことに、代わりはありません」
イヴリンの手をそっと握って、彼は言った。
「傷が治るまでは、僕が先生の右手の代わりをしますから……なんでも言ってください」
ひたむきな目に、イヴリンはあっけにとられた。
あら――なんて純粋で、素直な男の子なんでしょう。うっかりじーんと来てしまいましたわ。
◆
ど……どういうことだ⁉
ドアを開け放したまま、手を握り合う二人を見て、エヴァンは仰天していた。
――計画としてはこうだった。あの生意気な女が、アストンの力で脅されて泣きながら逃げていくところに、最後通牒を突き付け、この家から完全に追い出す――。
はず、だったのに。エヴァンはぎりりと唇を噛んだ。
俺でも触れればただではすまないアストンの魔力が あの女に効かないだと⁉
エヴァンの頭は、そこで一つの結論を導き出した。
先生はもしかして、これを見越して、あの女を連れてきたのだろうか……?
「えぇ……イヴリン、アストンに触って平気なの……?」
エヴァンの後ろでさらにのぞき見していたライアスが、呆然とつぶやく。
「それに、手なんて握り合っちゃってさ……!」
なんだか不満な顔をしていた。エヴァンはライアスをたしなめた。
「こら、静かに」
気づかれるだろうが! と思ったときにはもう遅く、イヴリンがこちらを振り向いていた。
「エヴァン様! お聞きしたことがあるのですが!」
まずい……! エヴァンは慌てて体をひっこめた。
「おい、逃げるぞライアス!」
「え、で、でも……」
「いいから!」
エヴァンはライアスをひっつかんで、一目散に逃げだした。
◆
次の日の朝。イヴリンは昨日のようにライアスの部屋を訪ねたが、そこには誰もいなかった。
あら。エヴァン様が手を回したのかしら。ありそうね。
それなら、簡単にはつかまらないでしょうね。仕方ない、切り替えていきましょ。
他にもやるべき、大事なことはたくさんあるんだから。
イヴリンはアストンの部屋へと向かった。
「アストン君、おはようございます。入ってもよろしいですか」
扉の前から声をかけると、だいぶ時間がたってから、ガシャン、バタバタ……とせわしない音が聞こえたあと、扉の向こうから声がした。
「あっ、は、はいッ……だ、大丈夫です、せせ、先生……」
どうしたのかしら。何か問題でも…?
イヴリンは心配になって扉を開けた。
「アストン様、大丈夫ですか⁉」
するとアストンは、だいぶ部屋の奥に立っており、直立不動の姿勢で答えた。
「せ、せんせい……おっ、おはようございます」
イヴリンは彼に近づいた。
「おはようございます。あの、何かお怪我とかしていませんか?」
すると彼は、イヴリンから逃げるように後ろにあとずさった。
「いえ、なっ、何も! せ、先生ッ……」
「はい?」
アストンはがちがちに体をこわばらせて叫んだ。
「ぼっ……僕にあまり、その、近づかない方が……ッ」
そうか、私を傷つけるのが怖くて、気を使って距離を置こうとしているのね。
なんて優しい子なんでしょ。
イヴリンは、隙あらばサンドバックにしようとしてきた実家の人々を思い出して、しみじみとそう思った。
ビクビク野生の動物のようにおびえるアストンの手を、励ますようにぎゅっと力強く握る。
「うひゃあっ」
「心配ご無用ですわ。私はあなたに触れられるのですから」
「そ、そそそ、そうですよ、ね……で、でも……」
彼はいぜんビクビクしながら、イヴリンから目をそらした。
「すみません……長年のく、くせが……抜けなくて。ひ、ひとに触れる事なんて、めったに……なかったから」
「そうですの……」
それはなかなか、想像を絶する境遇だ。イヴリンは思わず唇を噛んだ。
「あの、それで……ええと、僕に何か、御用ですか……?」
おどおどするアストンに、イヴリンはうなずいた。
「ええ。こちらに授業をしにきましたのよ」
「えっ……で、でも、ライアスや、エヴァンは?」
「それが、逃げられてしまって。ですから、居場所がわかるアストン様のところへ行こうと思いましたのよ」
するとアストンは遠慮がちに言った。
「……彼らが隠れている場所は、心当たりがあります……お伝え、しましょうか? 僕から彼らに、言ってきかせてもいいですし……」
イヴリンが目を丸くすると。アストンはポケットからごそごそそと破れた羊皮紙の切れ端を取り出した。
だいぶ年期が入ってそうな紙ね。
「あら、これは……?」
「えと、こ、これは特別な紙で……エヴァンがもう一枚持っていて、僕がここに文字を書けば、彼の羊皮紙にも伝わるんです」
「なるほど……便利な魔術具ですねぇ」
「これはアラステア先生が……部屋から出れない僕のために、くださったもので」
彼も忙しいなりに、教師として目を配っていたのね。
「大事なものを見せてくださって、ありがとう。でも、使わないでいいですわ。どうぞしまってらして」
「えっ……いいんですか」
「ええ。嫌々する勉強って、身につかないものですわ。彼らが自分から私のもとに来てくれるまで、待とうと思いますの」
ぶっちゃけ、本気の抵抗する男児を追いかけまわすのは、時間の無駄だ。それよりは。
「して、アストン様はいかがでしょう? 私と二人きりになってしまいますが――授業を受けてくださいますか?」
「ふっ、ふたり、きり……、ええと、あの、も、もちろん、です……」
イヴリンはアストンに向かってにっこり笑った。
「あら、嬉しいですわ。ではお付き合いくださいな」
アストレアがイヴリンに与えたかった使命はおそらく――この子が、外へ出て、今までよりも人間らしい生活を送れるようにすることだろうから。
「は、はい……!」
「それではまず、御髪を整えて差し上げますわ。ええと……お部屋の外に出て、そうですわね、お庭のサンルームなんていかがでしょう」
「え……?」
アストンはぽかんとしたが、勢いよく首を振った。
「か、髪を⁉ そ、そんな……ッ。それに、へ、部屋の外に出るなんて……ッ」
「あら……いけませんか? 人と会わないルートなら、大丈夫かと思うのですが……」
「へ、部屋の外は……外は、ま、まだ、僕には……」