大きくありませんこと?
あんなにたくさん走ったのは久しぶりだ。お腹の底から笑ったのも。
あのイヴリンとかいう女は、一目散に逃げるライアスを見事に捕まえ、何度『もういっかい!』と言っても笑顔でライアスを追いかけてきた。
疲れを知らないのだろうか? ママでさえ、鬼ごっこはめったに付き合ってはくれなかった。走っている途中に息が切れてしまうわ、と言って。
けれどイヴリンはどれだけ走っても息ひとつあげず、にこにこと笑顔で鬼ごっこを行っていた。貴族の令嬢とは思えない。
それに、王宮の森もいつもの森とは違った。どこから見つけてきたのか、小鳥や蝶々、それに普段はめったに見ないリスや鹿までイヴリンは捕まえきて、ライアスに触らせたり、撫でさせたりしてくれた。
ライアス以外にはなつかないカエールも、なぜかイヴリンの膝の上から離れなかった。
イヴリンと一緒に過ごしていたら一瞬で日が暮れて、ライアスが帰り渋っていると、『明日は王級の果樹園で木登りをして、リンゴを取りにまいりましょう。場所を教えてくださいませ』と約束をさせられた。
それを思い出して、ライアスの頬がゆるむ。
――別に、リンゴなんてどうでもいいけど。あの女がどうしてもって頼んでくるから、一緒に取りに行ってあげてもいい。
ライアスは久々に満ち足りた気持ちで、いつもはわがままを言って残す夕食をきれいに残さず平らげた。
散々走ったので、お腹がすいていたのだ。
「……どうした、ライアス」
そんなライアスを、エヴァンが不審な顔で見ていた。
「えっ……何が? 兄さま」
「いつもそんなに食べないだろう、まさか、あの女が何か言ってきたのか」
眉を吊り上げて詰問するエヴァンに、ライアスはドキリとして首を振った。
「何もないよ! あいつ生意気を言ってきたから……パチンコで打ってやったさ!」
ライアスが慌ててそういうと、エヴァンは満足したように息をついたあと、ひとくさり説教をした。
「それは危ないからやめろといつも言っているだろう。俺だってあの女に直接電撃をあててはいない。お前はまだそこまでコントロールできないだろ」
「う……」
兄エヴァンからの叱責は、いつももっともであった。エヴァンは賢く、強く、また悪事にかけても何枚も上手で、ライアスはこの年上の兄には頭が上がらなかった。
しかし――その時、食堂の前の廊下を、ちらりと紺色のドレスがよぎった。
イヴリンだ!
ライアスが思わずそちらに目を奪われていると、そのときふと、イヴリンと目線があった。
イヴリンはライアスに気が付き、にっこり笑い軽く手を振った。
「!!」
ライアスはとっさに目をそらして、思いっきりそっぽを向いた。
エヴァン兄さんの前で――手なんてふってこられても困る。
「あいつが嫌いか、ライアス」
その様子を見て、じっと見透かすように、エヴァンがライアスを覗き込む。
「う……うん」
ライアスはしろどもどろにうなずいた。
だって別に……あの女が好きってわけじゃないし。ただちょっと元気で、めそめそしない、いくらでも走れる家庭教師ってだけだ。
「お前が気に入らないなら追い出そうか」
ライアスは目を見開いた。
「そ、それは……い、いるのはいい。だって追い出したら、また別のがくるだけだし。そんなの、兄さまも面倒くさいでしょ?」
早口で慌てて言い募るライアスに、エヴァンは興味がなさそうにうなずいた。
「……まぁ、な。でも、生意気な家庭教師に、立場をわきまえさせる事は必要だ」
その不穏な口調に、ライアスは不安になった。
「よくわかんないけど……あんまりひどいことは……」
「大丈夫さ、俺に任せろ」
にっこりと威圧的なほほえみを浮かべたエヴァンに、ライアスは思わず席を立った。
「ぼ、僕もう食べ終わったから、部屋に戻るね、兄さん……」
「ああ、好きにするといい」
◆
ぱたぱたと足早に食堂を出ていく弟・ライアスの背に、エヴァンは厳しい目を向けながらかちゃんと乱暴にフォークを置いた。
あの家庭教師に、ライアスは多少なりとも興味をひかれているようだ。
くっ、とライアスは爪を噛んだ。
確かに、自分が家庭教師の立場であったとしても――一番御しやすそうなライアスから攻略して、じわじわとこの家に食い込む作戦を取るだろう。
ライアスはチッと舌打ちした。
冗談じゃない。この家の主は自分なのだ。今度こそ、しっかり兄弟を守らなくてはいけない。低能な家庭教師なんかにのさばられてたまるか。
やはりここはひとつ、彼女に立場を『わからせ』る必要がある。
ちょうどいい事に、それにうってつけの作戦が一つ、ある。
エヴァンは立ち上がって、食堂を出て――もう一人の『兄弟』、アストンのもとへと向かった。
あの素直な怪物君に、ひと働きしてもらうとするか。
◆
「あら、そうなの。王宮の森にはリンゴだけじゃなくていろいろ成っているのね。木苺は美味しかった? よかった」
その夜、イヴリンは窓に向かってハウオリと話をしていた。一日の終わりがてら、お互い今日あったことを、とりとめもなく伝えあうのが、イヴリンの日課であり、癒しの時間でもあった。
もちろんハウオリは鳥だから、お互い言葉は通じない。が、それでもお互い思っていることは理解しあえるのである。
「そんなに美味しいなら、ライアス様にも教えてあげないとね。ふふ、今日は彼と仲良くなれたのよ。これからめいっぱい遊んであげないとね」
この家の中で、ライアスが一番幼く、まだ庇護者――母親に代わる存在を必要としている。
「けどね……エヴァン様と仲良くなりには、少し時間がかかりそうですわ」
彼の顔を思い浮かべて、イヴリンはため息をつきたくなった。
「だって、数歳しか違わないんですもの……。そんな相手を『教育』しろだなんて、アラステア様も無茶おっしゃりますわ。そう思いませんこと?」
ハウオリはその通りだ、と言わんばかりに首を動かした。
ハウオリはいつだって味方でいてくれる。だからイヴリンは微笑んだ。
「ですが、引き受けた以上、真剣に取り組ませていただきますわ。方法? そうですわねぇ……」
イヴリンは考えを巡らせた。
ライアスと違って、エヴァンはもう、大人の入口にさしかかろうという年齢だ。子供あつかいなどすれば、荒れ狂う思春期の獣と化している彼からさらなる不興を買うことだろう。
イヴリンはハウオリに向かってうなずいた。
「うん、ここは、対等な大人として扱ってあげるのが吉という気がしますわね。つまり、ナニーや家庭教師というより、教師と高等学校の生徒、という感じの距離感がよろしいでしょう」
時間はかかるけれど、彼をよく観察し、構いすぎず、必要な時は手を差し伸べ、良き大人の理解者ポジションを目指す。これだ。
「大丈夫よ、ハウオリ。きっと彼とも、いつか仲良くなれますわ。あとは――あとはそう、アラステア様から名前だけ聞いていた、アストン様」
イヴリンは首をひねった。
アストン――そんな名前の王子は聞いたことがない。陛下の息子は、エヴァン、ライアス、そしてこの間生まれたばかりのマシュー、だけのはずだ。
「一体どなたなのかしら? もしかして、隠し子……とか?」
アラステア先生は『彼こそ君を必要としている』とおっしゃっていたけど……。
ということはつまり、アストンはライアスよりも――幼い子、ということだろうか?
――私、一番小さい子を、挨拶もせず今日一日放っておいてしまった……?
「なんてこと。ハウオリ、私ちょっと出てまいりますわ」
イヴリンは、さっと髪をまとめ、上着を羽織ってばっと立ち上がった。
ドアを開けて廊下へ小走りで飛び出すと、ちょうどそこに、朝助けたメイド、メアリが立っていた。
「あ、あの、ロシュフォール先生」
面食らったイヴリンは、メイドの前で急停止した。
「あら、なんの御用かしら?」
すると彼女は、おどおどとイヴリンに伝えた。
「ア……アストン様が、ロシュフォール先生を呼んでおります」
「今、ですの?」
「はい」
なんというタイミング。渡りに船とはこのこと。イヴリンは目をキラキラさせて両手を組んだ。
「ちょうど良かったですわ! 今行こうとしていた所だったのです。ところで彼のお部屋はどちらかしら?」
「ええと、あの、二階の西翼の、突き当りのお部屋になります」
イヴリンは言われた通りの部屋へと向かった。
コン、コン、と礼儀正しくノックする。
「こんばんわ。新しくナニーとして来ました、イヴリン・ロシュフォールでございます。ご挨拶が遅れてしまってごめんなさいまし」
……しーん。
あら、もしかして、もうおねむとか? イヴリンはとりあえずもう一度ノックをした。
「アストン様、いらっしゃいますか?」
再び、しーーーん。
おやまぁ。呼び出されたというのに。イヴリンはダメもとで、ドアノブを回してみた。
かちゃり、と音がしてドアが開いた。
「あら……開いた? アストン様?」
鍵はかかっていなかったようである。呼び出されたことだし、とイヴリンはドアを手前に引いて、部屋に足を踏み入れようと一歩踏み出した。その時、真っ暗な部屋の中でゆらり、と大きな影が立ち上がった。
「あなたが……新しい家庭教師?」
思ったより身長が――大きくありませんこと?




