第2話 下りの物語
山々の間を走る、三両編成の古びた電車。
窓は頭の上くらいまで開けられており、顔をなでる風が気持ちいい。空気も、都会のものと違ってとてもおいしい。
『まもなく、終点大前、大前です。どなた様もお忘れ物等ないようにお気をつけください。今日も、JR吾妻線をご利用くださいまして、ありがとうございました』
やっとつく。僕の故郷、大前。
一日のうちにこの駅に止まる電車はほんの数本。住んでいた当時でさえほとんど使わなかった駅に、五年ぶりに帰ってきた。
相変わらず生い茂る草木を抜け、スピードを落とした電車は、踏切、そしてホームへと入ってゆく。
ガクンっていう大きな音をたて、古びた電車は止まった。ドアの前にいた人達が扉を引いてあけ、何もないホームへと降りてゆく。僕はそれでも、ボックスシートに座ったままでいる。
「おかえり」
ホームの方を見ていると、ボックス席の向かい側から、彼女の声が聞こえた。
声のした方を見ると、香織の姿があった。ここを出たあの日の、あの姿そのままである。
「どうだった? 東京での生活は」
すべてを見透かしたような声で、彼女が訪ねてくる。まあそれも当然であろう。彼女は本来、ここにこられるわけがないからである。
「楽しかったけど、すこし疲れたよ。こういう田舎も、やっぱりいいね」
「だから言ったじゃない。ここはとてもいいところなのよ」
彼女がわかりきったかのように返す。
彼女は、本当にここが大好きだった。僕がここを出ていくときも、ずっと僕を止めようとしていたほどだ。結局僕は、大学へ行くために上京したのだけれど……
「でも、わかったような気がする」
「なにが?」
「僕の性格が」
東京にいった僕は、いろんなものに手を出した。絵、小説、写真、自作パソコン……。そのどれもが、どこか中途半端な形になってしまったような気がするのだ。
「僕は、新しいものに興味がわくだけの人なんだなあって……」
「なるほどね……」
彼女がわざとらしく返事をする。
「あと、もうひとつ、東京にいってわかったことがある」
「なになに?」
「香織、僕のことが好きだったんでしょ?」
風が窓の外から入ってきて、僕の前を抜けてゆく。
すこし間があいてから、彼女は口をひらいた。
「いつごろきがついた?」
「よく覚えてないけれど、ツイッターかどこかで友達に教えてもらった気がする」
「ふーん」
彼女が窓の外に目をやる。その目は、すこし潤んでいるようにも見えるが、よくわからない。
「……ちょっと遅かったみたいね」
その声は、すこし震えている。
「もっとはっきりといってくれればよかったのに」
「そんなの恥ずかしくていえるわけがないじゃない......」
そっぽを向いたまま、彼女がぼそっと答える。
「なんか......ごめんね」
「なにが?」
香織がこちらを向く。
「いや、こんなに帰ってくるの、遅くなっちゃってさ......」
「いいわよ。そんなの」
すこし赤くなった顔の彼女が、すこしうわずった声で答える。
「あなたに会いに行こうと思えば、私だって行けたわけだし......。それに、確かにはっきりと言わなかった私も悪いわけだから、お互い様よ」
膝の上におかれた手が、だんだんつよく握られてゆく。
「でもさ......」
彼女の手のひらの上に、涙が落ちる。
「......できることなら、もういちど弘樹に、ちゃんと会いたかった」
それは僕も同じである。
今目の前にいる彼女は、そこにいない。もうおそらく、これを最後に、僕達は永遠に引き離される。僕は、その事を手紙で知らされた。
「お客様」
車内の見回りをしていたのだろう。紺色の帽子をかぶった乗務員が、僕に声をかける。
「もうまもなく扉を閉めますので、降りていただいてもいいですか?」
「あ、はい。すいません」
僕が答えると、乗務員は車掌室の中へと入っていった。
「じゃあ、そろそろいくから」
まだ向かいに座っている彼女に、僕は声かけながら立ち上がる。
「うん。そこまで見送るよ」
彼女も一緒に立ち上がる。
だれもいない車内に一人分の乾いた足音が響く。
ちょうど真ん中にある扉が片側だけ開いていたので、僕はそこからホームに降りる。
「私がいけるのはここまで」
そういって、香織は扉の前で立ち止まる。
「今日は......いや、いっままでありがとう。香織」
「こちらこそ。いろいろありがとう」
『まもなくドアが閉まります。ご注意ください』
車掌の声が車内から漏れてくる。
「大好きだよ。香織」
閉まる前に、僕は彼女にそれだけ伝える。
「私もよ。弘樹」
彼女がそういい終わらないうちに、空気の抜けるような音がする。かぼちゃ色の扉が、僕の前に割り込み、彼女が見えなくなった。
僕は最後に、窓から車内をのぞき込んだ。しかし、もう彼女は、そこにさえもいなくなっていた。