第1話 上りの物語
『本日も吾妻線をご利用いただきまして、ありがとうございます。この電車は、十四時三十二分発の高崎行きです。発車まで、今しばらくお待ちください』
古びて、シートも固くなった列車に、車掌のアナウンスが流れる。
ここは、群馬県の一番西側にある、大前駅。待合室があるだけの小さな駅に、三両編成のかぼちゃ電車が止まっている。
開かれた窓から、遠くでなく鳥の声が聞こえてくる。ここには本当に何もないから、遠くの音も、風にのってよく聞こえてくるのだ。この僕が乗っている電車も、日に数本出てるだけの貴重なものだ。それでいても、今日の乗客は見える範囲では、僕と、目も前に据わっている香織だけらしい。
「ねぇ」
ボックスシートの向かいに座っている香織が、沈黙を破る。
「弘樹ってさ、東京のこと、好きなの?」
彼女の目が笑っていない。静かにまっすぐ、こちらをみつめている。
「どうして?」
「弘樹、東京の大学のオープンキャンパスにいってから、……なんていうんだろう……」
すこしうつむいて、なにか言葉を探す香織。彼女が言葉を探しているときは、いつもうつむいている。
「……すこし、明るくなった」
「そうかな?」
「……うん、そんな感じがする」
両手を膝の上でぎゅっと丸めて、香織が顔を上げる。
「今だから言うけどさ、あの日のと弘樹の顔、とても輝いていたもの」
「……」
東京。確かに僕は、あの街が好きである。
夜になってもその火は消えることがなく、電車も朝の四時から動き出す。
でも僕は、それ以上に、この町から出て生活がしたかった。
「ここは……なんにもないんだもの」
「そこがいいんだと私は思うんだけどなぁ……」
窓の外を見ながら、ぼそっと彼女が返す。
日に照らされたホームに人影はなく、本当にこの電車が動き出すのか、不安になる。うるさいエンジンの音が、この電車がまだ生きていることを教えてくれる。
「親ともよく話し合ったよ」
「……うん」
「僕の将来のためにも、あの大学に行くことは必要なことなんだよ」
「……うん」
「……だから、僕はいくよ。東京に」
「……そうだよね」
彼女が僕をまっすぐにみつめる。
「もし、止めるなら、これが最後だと思ったんだけど……弘樹がそこまで本気なら、私は止めない。応援する」
静かではあるが、その口調はすこしとがっている。
「なんでそこまでして、香織は僕を止めようとするの?」
「わからないかな?」
ぐっと彼女が顔を近づけてくる。
彼女の左手がちょうど僕の右側から窓枠に当てられている。
「……ごめん、わからない」
僕はそう答えた。本当にわからないのだから、しょうがない。正直に答えた。
『吾妻線の高崎行き、まもなく発車時刻になります。ご利用のお客様は、ご乗車になってお待ちください』
シーンとした車内に、車掌のアナウンスが流れる。
「……わかった」
すっと彼女が僕から離れる。
「私は降りるね。今日、お財布持ってきてないし」
そういってボックス席を抜け出すと、扉の方へと歩いてゆく。僕も、その後を急ぎ足で追う。
彼女が、扉を手でひいて開けた。この電車も、いい加減自動扉になればいいのにと、僕はそれを見るたびに思うのだが、彼女はこれが好きらしい。
香織が、すこし段差のあるホームの上に降りる。僕が彼女を見下ろし、彼女が僕を見上げる形になる。扉は片方だけ不格好に開けられており、それがさらに田舎臭く感じる原因になる。
「私、待ってるから」
見上げた彼女は、僕の方をまっすぐ向いて言葉を続ける。
「あなたがここに帰ってくるのを……でなければ、あなたが私の暮らしやすい場所をつくってくれるのを……」
彼女が言い終わると同時に、車掌が吹いたホイッスルの音が響く。空気が抜けるような音がして、重い扉が閉められた。
電車がガクンっとなって、ゆっくりと走り出す。踏切の警報機の音が近づいてくる。
窓の外の彼女が走ってくるが、しだいにスピードを上げる電車に取り残される。ホームの階段をすべて飛び降りてそのまま彼女は、踏切と車の間、遮断器の根本のところで足を止めた。
僕はすぐに車両のうしろに回り込む。しかし、今日は運悪く、車掌室のカーテンが閉められていたため、一番うしろの席の窓から覗くしかなかった。
しばらくは見えていた彼女も、生い茂るくさきに寄って隠され、見えなくなってしまった。
ひとりだけ広い車内に取り残された僕は、荷物がおいてあるボックス席に戻る。
向かいの席はかすかにへこんでおり、そこに香織がいた痕跡がわずかに残っている。でも、それはおそらく、高崎に着く前に、別の人によって上書きされてしまうだろう。
窓の外の好きゆく景色を見ながら、僕は、また彼女に会えるだろうと、そのときは、信じきっていた。




