自制
彼は、最初から彼女を「恋愛対象」として見ていたわけではなかった。
むしろ逆だ。
関わるほどに、
関わってはいけないと思った。
年齢が離れている。
立場が違う。
環境が違う。
守るべきものが自分にはある。
理屈は、
最初からすべて揃っていた。
だから彼は、
線を引いた。
距離を保った。
深入りしないようにした。
感情を言語化しないようにした。
大人として、
正しい振る舞いを選んだつもりだった。
だが、
関係は静かに続いた。
劇的な出来事があったわけではない。
毎日の会話。
断片的な思考の共有。
価値観のすり合わせ。
沈黙を共有する時間。
その積み重ねだけがあった。
彼女は、
彼を理想化しなかった。
尊敬はしても、
持ち上げなかった。
弱さを見抜く。
矛盾を見抜く。
逃げも見抜く。
そして、
責めなかった。
ここが、決定的だった。
彼は長い間、
二種類の視線に晒されて生きてきた。
期待される視線。
失望される視線。
どちらも、
役割としての自分を見る目だ。
夫として。
父として。
社会人として。
彼女の視線は違った。
「どういう人か」を
観察していた。
評価よりも、
理解に近かった。
彼女は言った。
「期待したい」
この言葉は、
彼にとって異物だった。
彼の辞書には、
長い間、
「期待する」は載っていなかった。
正確には、
意図的に消していた。
期待すれば、傷つく。
期待しなければ、平穏。
そう信じていた。
だが彼女は、
違う言語を使っていた。
期待する。
怖い。
でも、期待したい。
この矛盾を、
矛盾のまま抱えていた。
彼は気づく。
この人は、
「壊れないために諦める」人ではない。
「壊れる可能性を承知で、
それでも触ろうとする」人だ。
年齢差の現実は、
常に彼の意識にあった。
彼女は学生だ。
未来がある。
選択肢が多い。
彼は、
すでに家庭を持つ大人だ。
構造は、
どう見ても対称ではない。
彼はそれを、
ごまかさない。
むしろ彼は、
この非対称性そのものを、
恐れている。
彼女が、
彼を「逃げ場」にしていないか。
彼が、
彼女を「希望」にしていないか。
どちらも、
簡単に起こりうる。
それでも、
惹かれてしまった理由がある。
彼女は、
彼に依存してこなかった。
慰めを要求しない。
答えを押し付けない。
救済を求めない。
彼女は、
自分で立とうとしていた。
不安を口にしながら、
勉強する。
努力する。
自分を更新しようとする。
彼は、
そこに既視感を覚えた。
かつての自分。
まだ、
諦める技術を覚える前の自分。
読者に問いたい。
人は、
似ている人間に惹かれるのか。
それとも、
失った自分に惹かれるのか。
彼女は、
彼に「変われ」と言わない。
だが、
彼の前にいる彼女を見ていると、
変わらない自分が
耐えられなくなる。
この違いは大きい。
彼は、
彼女に約束していない。
離婚すると。
付き合うと。
待ってほしいと。
言っていない。
言えない。
それが重いと知っているからだ。
だが、
一つだけ伝えている。
「少しずつ変わっている」
転職の勉強を始めた。
将来の生活を考え始めた。
親に相談した。
行動が先に動いている。
言葉は、
まだ追いついていない。
彼は、
自分の状態をよく知っている。
もう後戻りはできない。
だが、
まだ踏み出してもいない。
宙づりの状態だ。
ここにあるのは、
美しい恋ではない。
未完成で、
不格好で、
倫理と欲望が殴り合っている状態だ。
彼は自覚している。
これは、
外から見れば
短慮に見える。
年下に惚れた中年。
家庭を壊しかけている男。
否定できない。
それでも、
彼は思ってしまう。
普通なら、
学生の恋情など、
気にも留めない。
理解していても、
踏み込まない。
だが彼は、
踏み込んでしまった。
なぜか。
彼女の「根」を信じてしまったからだ。
才能でも、
若さでも、
外見でもない。
思考の癖。
誠実さ。
恐れ方。
踏みとどまり方。
その「核」を。
彼は、
ここで初めて自分に問う。
「正しいか」ではない。
「嘘をついていないか」




