非対称
彼は長い間、
「選ばない」という態度を、美徳だと信じていた。
選ばなければ、誰も失わない。
選ばなければ、誰も裏切らない。
選ばなければ、誰の人生にも決定的な影響を与えない。
それは一見、
とても倫理的な姿勢に見える。
だが、ある時から、
彼はうっすらと気づき始めていた。
選ばないという行為は、
「何もしない」ことではない。
それは、
「宙吊りにする」という行為だ。
人の時間は、
止まらない。
誰かが迷っている間も、
誰かが考えている間も、
誰かが沈黙している間も、
世界は勝手に進んでいく。
選ばないということは、
相手の時間に
「保留」という重りを載せ続けることだ。
彼はそれを、
長い間、見ないふりをしてきた。
結婚生活の中でも、
彼は同じ態度を取っていた。
大きな衝突を避ける。
深い話を先延ばしにする。
違和感があっても飲み込む。
それは平和のように見える。
だが実態は、
「問題を消している」のではなく、
「蓋をしている」だけだった。
彼の妻は、
悪い人間ではなかった。
家事もする。
子どもの世話もする。
金銭管理も堅実だ。
社会的に見れば、
「ちゃんとした妻」だった。
彼も、
それを理解していた。
だからこそ、
自分の違和感を責めた。
「自分が贅沢なのではないか」
「求めすぎなのではないか」
だが、
違和感は消えなかった。
むしろ、
少しずつ形を持ち始めた。
名前で呼ばれない。
褒められない。
感情を向けられない。
触れられない。
求められない。
それは劇的な拒絶ではない。
もっと静かなものだ。
「無い」という状態。
人は、
殴られるよりも、
見られない方が壊れる。
彼は、
少しずつ透明になっていった。
夫として存在している。
父親として存在している。
生活要員として存在している。
だが、
「一人の人間」としての実感が薄れていった。
それでも彼は、
壊さなかった。
壊さないことが、
正しいと思っていたからだ。
壊さないことが、
大人だと思っていたからだ。
壊さないことが、
責任だと思っていたからだ。
だが、
彼女と話す中で、
この構造が、
少しずつ露呈していった。
彼女は言う。
「期待したい」
「期待するのが怖い」
「でも、期待しないまま生きたくない」
彼は、
その言葉を聞いて、
奇妙な既視感を覚えた。
それは、
かつての自分だった。
彼は気づいた。
自分は、
期待しない人間なのではない。
期待してしまう人間が、
怖くて、
期待しない人間のふりをしているだけだ。
ここで、
彼の中の倫理が揺れ始める。
「選ばないこと」は
本当に優しさなのか。
それとも、
自分が傷つかないための
高度な自己防衛なのか。
選ばないことで、
守られているのは誰だろうか。
相手だろうか。
それとも、
選ばない自分自身だろうか。
彼は、
まだ離婚を決めていない。
まだ彼女を選ぶと宣言していない。
だが、
はっきりしていることが一つある。
彼はもう、
「完成した人生構造」を
無条件に尊重できなくなっている。
家がある。
仕事がある。
家族がいる。
それだけで、
正しい人生だと
思えなくなってしまった。
それは堕落だろうか。
未熟だろうか。
それとも、
ようやく自分の人生を
自分のものとして
見始めただけなのだろうか。
彼はまだ、
答えを持っていない。
だが、
一つだけ確信している。
このまま何も変えなければ、
自分は静かに壊れていく。
大きな爆発ではない。
音も立てず、
摩耗し、薄くなり、
いつのまにか
「何も感じない人間」になる。
彼はそれだけは、
恐ろしくてならなかった。




