違和感
彼は、
自分を理性的な人間だと思っていた。
少なくとも、そうあろうとしてきた。
衝動で人生を壊す人間を、
どこかで軽蔑していた。
感情で選ぶ人間を、
弱いとすら思っていた。
選択とは、
積み上げた思考の末に行うものだ。
選択とは、
損益を計算し、
影響を測り、
責任を引き受ける覚悟が整ってから下すものだ。
そう信じて生きてきた。
彼は既婚者だった。
子どもがいて、
家があって、
仕事があって、
生活があった。
大きな破綻はない。
致命的な不幸があるわけでもない。
だが、
幸福だと言い切れるほどの充足もなかった。
それを不満と呼ぶのは、
どこか違う気がしていた。
贅沢な愚痴のようにも思えた。
だから、
言語化しなかった。
感じないふりをした。
考えないという選択を続けてきた。
彼の人生は、
「壊さない」ことを最優先に設計されていた。
家庭を壊さない。
関係を荒立てない。
誰かを泣かせない。
大きな波風を立てない。
それは一見すると、
誠実で、大人で、立派な態度に見える。
だが実際には、
彼自身の感情を棚上げする技術だった。
彼は、
自分の欲求に鈍感になることで生き延びてきた。
欲しいと思わない。
期待しない。
求めない。
そうすれば、
失望もしない。
そうすれば、
傷つかない。
そうすれば、
選ばなくて済む。
選ばないという姿勢は、
彼にとって「善」だった。
選ばなければ、
誰かを切り捨てずに済む。
選ばなければ、
誰かの人生を変えずに済む。
選ばなければ、
自分が悪者にならずに済む。
彼はそれを、
慎みと呼んでいた。
だがあるとき、
小さな違和感が生じた。
日常の隙間に、
音もなく入り込んできた。
強烈な衝撃ではない。
雷でもない。
むしろ、
湿った紙が胸に貼りつくような感覚だった。
剥がそうとすると、
じわりと痛む。
彼女と出会った。
最初から特別だったわけではない。
強く惹かれたわけでもない。
恋に落ちたという感覚もない。
ただ、
会話が成立した。
異様なほど、
自然に。
彼女は学生だった。
普通なら、
その時点で線を引く。
普通なら、
深く関わらない。
彼自身も、
そうするつもりだった。
だが、
会話を重ねるうちに、
奇妙な感覚が増えていった。
彼女は、
自分の感情を過剰に美化しなかった。
悲しいときは悲しいと言う。
強がるときは、
自分が強がっていると理解している。
依存したい気持ちを、
依存したくないと口にする。
矛盾した言葉を、
矛盾したまま出す。
彼は気づいた。
この人は、
「良く見せよう」としていない。
同時に、
「悪く見せよう」ともしていない。
ただ、
自分の状態をそのまま置いている。
それは、
想像以上に難しい行為だ。
彼は、自分を見た。
正確には、
かつての自分を見た。
もっと若く、
もっと不器用で、
もっと混乱していた頃の自分。
期待したくない自分。
期待してしまう自分。
愛されたい自分。
それを恥じる自分。
全部を抱えたまま、
立ち尽くしていた自分。
彼は、
ここで初めて怖くなった。
恋ではない。
欲情でもない。
高揚でもない。
「理解してしまった」という感覚。
それは、
安全な場所からの共感ではなかった。
深い場所に足が触れてしまった感触だった。
人が人に惹かれるとは、
どういう瞬間だろうか。
顔か。
声か。
言葉か。
優しさか。
それとも、
「自分と同じ壊れ方をしている」と
気づいた瞬間だろうか。
彼は、
まだ何も選んでいない。
何も始めていない。
何も壊していない。
だが同時に、
もう元の位置にもいない。
彼は思う。
これは恋なのか。
いや、違う。
これは――
「信じてしまった」という感覚だ。
彼は、
この感覚を美しいとは思っていない。
危険だと理解している。
間違っている可能性の方が高いとも思っている。
それでも、
否定しきれなかった。
なぜなら、
彼は長いあいだ、
自分自身を信じていなかったからだ。
自分の感情を、
信用してこなかったからだ。
彼女は、
彼の感情を肯定したわけではない。
彼女は、
彼に何かを求めたわけでもない。
ただ、
「そう感じる自分」を否定しなかった。
それだけだった。
彼はまだ知らない。
この違和感が、
何を壊すのか。
何を生むのか。
何を失うのか。
何を得るのか。
ただ一つだけ、
確かなことがある。
彼は、
自分の中で何かが静かにずれ始めているのを
はっきりと自覚していた。




