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勝者の振る舞い

その日以降、ボリス・エリツォンの権威は、雪崩を打つように高まっていった。

彼こそがクーデターの危機から国を救った英雄であり、次代の指導者であると、誰もが信じて疑わなかった。

ヴィクトルは、その巨大な追い風を巧みに利用し、ついに自ら動き出した。


彼はまず、長年温めてきた腹案の新経済政策をエリツォンに進言し、ロシア共和国の公式政策として採用させる。

そして、その実行のためという名目で、アレクサンドロフをはじめとする信頼できるレニングラード閥の官僚たちを、次々とモスクワへと呼び寄せた。


さらに彼は、完全に力を失った弱体化後のゴルバノフ閥とエリツォンの間に立ち、穏便な権力移譲を仲介することで、双方に恩を売った。

そう、彼はエリツォンの忠実な部下として働きながら、その影で、いずれ自分が仕えることになるであろうこの豪放な男から、少しずつ権威を奪い取る準備を、誰にも気づかれぬよう、静かに始めていたのだ。


そして、その野心を表には一切出さずに、彼はアレクサンドロフと共に、”穏健な連邦再編”という名の大手術に取り掛かった。


秋風がモスクワに吹き込む中、アレクサンドロフが夜行列車でカザン駅に降り立った。

ヴィクトルが迎えに行くと、老官僚は二年ぶりの再会を喜ぶ間もなく、ヴィクトルに車に乗せられ、ゴスプラン本部に駆け込んだ。

二人は執務室に籠もり、最新の国家財政と各共和国の経済状況に関する資料を共有し、夜を徹して分析を続けた。


明け方、二人が達した結論は、あまりにも明快で、そして冷酷だった。


「負債だ」

アレクサンドロフが、疲れ切った声で言った。

「この巨大な負債を、我々だけで背負うことは不可能だ。独立する連中に、押し付けるしかない」


「ええ」

ヴィクトルは頷いた。

「その代わり、我々は彼らにくれてやるのです。ソビエト連邦という国家が消滅すれば、もはや彼らにとっては価値がなくなる利権や、維持費だけがかさむ旧式軍備、世界中に散らばるソビエトの外交資産、そして彼らの共和国内にある、採算の取れない国有資産の全てを」


それは、破産する会社の資産整理に似ていた。

一見価値があるように見えるガラクタを、「独立のお祝いだ」と言って気前よく与える。そして、その対価として、天文学的な負債という名の爆弾を、彼らの首に巻き付けるのだ。


「高く売りつける。それしかない」


「ですが……」

ヴィクトルは、窓の外で白み始めた空を見つめた。

「それは、ロシアSSRだけでは成し得ません。西側が必要です。

彼らに、この債務整理の『公正な証人』になってもらわなければ」


二人は、その結論に同時に達した。

次なる交渉の相手は、もはや国内の政敵ではない。大西洋の向こうにいる、あの冷戦の勝利者たちだった。




「ボリス・ニコラエヴィチ」


ヴィクトルは、ロシア共和国最高会議議長として、得意満面で電話越しに政敵の派閥を切り崩すことに熱中しているボリスに、静かに声をかけた。


議長席の受話器をガチャンと置き、ボリスはようやく彼に視線を向けた。その目は、権力闘争の興奮で爛々と輝いていた。


「話があります」


「ああ」と短く頷くボリスに、ヴィクトルは数枚の資料を渡した。

ボリスはそれに目を通し、すぐに怪訝な顔で眉をひそめた。


「おまえ、これは……」


「ご不満ですか?」

ヴィクトルは、素知らぬ顔だった。

「今度の党大会に、西側からの来訪者を招待するという案です」


「いや……」

ボリスは、ぐしゃぐしゃと頭をかきながら首を振った。

「……だが、なぜだ?」


「新時代にふさわしいでしょう。それに、どっちにしても金がいる。我が国の経済を立て直すには、西側からの投資が不可欠です。そのための顔見せですよ。金は……」


「それは、私がなんとかします」


ヴィクトルは、自信を持って胸を叩いた。


「あなたは、国を固めてください。私は、こういった裏方が得意ですから」


その言葉に、ボリスは満足そうに頷いた。

彼は、複雑な経済や外交の駆け引きよりも、国内の政敵を腕力でねじ伏せる方が性に合っている。面倒な下準備をヴィクトルが全てやってくれるというのなら、断る理由はなかった。


ボリスが、本質的な要領を得ていないうなずきをしたのを見て、ヴィクトルは静かに一礼し、執務室を退出した。


廊下を歩きながら、彼の頭の中は、もはや党大会の体裁などにはなかった。

彼の脳裏にあるのは、ただ連邦再編、その一点のみ。

(バルト三国にはこれだけ。ウクライナには最低でも30%。グルジアと中央アジアには……)


どれだけの負債を、どの共和国に、どうやって押し付ければ、この国は、ロシアは、生き延びられるのか。

彼はその数字だけを、まるで機械のように、怜悧に計算し続けていた。


そして、党大会の日。

モスクワの国際貿易センターの、人目につかない一室で、ヴィクトルは一人の男と対峙していた。

長身で、銀髪の、いかにも老練な外交官といった風情の男。アメリカ合衆国駐ソ連邦特命全権大使、アーサー・ハリントンだった。


部屋には二人きり。テーブルの上には、紅茶のカップが二つ、湯気を立てているのみ。

ハリントン大使は、穏やかな笑みを浮かべていたが、その目の奥は、目の前の若く、無名なロシア人官僚の価値を、冷徹に見定めようとしていた。


アーサー・ハリントンにとって、目の前の若き官僚は、単なる通訳や補佐官ではなかった。

彼は、今やロシアで最も力を持つ男、ボリス・エリツォンの”懐刀”であると、本国からの報告書は断定していた。


CIAが徹底的に調べ上げた経歴は、このヴィクトル・ペトロフという男の異質さを物語っていた。

ソビエトの計画経済の中枢で育ちながら、レニングラードで東西の思想に触れ、そして今、異常なほど権力の中枢に近い。

エリツォンの彼への信頼は絶大であり、最近のロシア共和国の重要な政策決定の背後には、常にこの男の影があった。


そして何よりも、アーサーが注目していたのは、彼がロシア共和国の経済政策にねじ込んだ、”保守的な市場経済導入”計画だった。

急進的なショック療法ではなく、国家の管理を維持しながら段階的に市場を開放するという、あまりにも現実的なその計画案。


CIAの分析官、国防情報局(DIA)の専門家、さらには連邦準備制度理事会(FRB)のエコノミストまで総動員した検証の結果、米国政府は一つの結論に達していた。

これしかないという、針の穴を通すような、完璧な経済政策だ、と。


もしこの計画が実行されれば、ロシアはハイパーインフレーションと産業崩壊という最悪の事態を回避し、数年で安定した経済大国として再浮上する可能性がある。


米国が最も恐れていたのは、それだった。

この計画は、一人でできるものではない。何年もロシアの現場で、西側の理論を研究し、自国の現実に合わせて練り上げてきた、有能なテクノクラート集団が存在する。

米国は、その正体不明の勢力を、針一本たりとも見逃さないほどの強い警戒をもって監視していた。


そう、米国はロシアの完全な倒壊こそ望まない。それは核の拡散という悪夢を招きかねないからだ。

だが、米国が真に望んでいたのは、ロシアの傀儡化だった。


”民主化”――その聞こえのいい言葉の裏で、これまで南米で、中東で、アフリカで彼らがやってきたように、新興の政治家を金と情報で抱き込み、経済を支配し、国家を骨抜きにして無力化する。

それこそが、アメリカ合衆国の国益だった。

そして目の前の、この物静かな男こそが、その国益を阻む最大の障害となりうる勢力の、代表者だったのだ。


「さて、大使殿」


ヴィクトルは、紅茶のカップを静かにソーサーに戻し、穏やかな口調で話し始めた。

それは、まるで旧知の友人に語りかけるような、親密ささえ感じさせる声だった。


「ボリス・ニコラエヴィチに、妙なことを吹き込もうとされましたね?

彼は大使から面白い話を受けたと、そう言っていましたよ」


彼は、そっとアーサーの目を見た。

その瞳は、深い湖のように静かだったが、その底には相手の魂を見透かすような、冷たい光が宿っていた。


「彼は、フルシチョフ同志のように新しいものが大好きです。あなたがたが差し出すピカピカのおもちゃ(経済プラン)は、さぞ魅力的に映るでしょう。うまくすれば、彼を洗脳できる……と、そうお考えだったのでは?」


かすかに、アーサーの表情筋がひきつった。

事実だった。

IMF主導による、急進的な市場経済の導入――いわゆる「ショック療法」。英雄願望があると分析されたボリス・エリツォンに、それを囁くつもりだったのだ。

合衆国の金でロシアを助け、先進諸国(G7)へ数年以内に席を設けることを条件として。


(馬鹿な……!)


その意図をヴィクトルが知るはずがない。

そう、この計画は国務省(外交部)とワシントンが直接、厳密に管理していたはずだ。KGBにさえ、その全貌は漏れていないはず……。


その瞬間、アーサーの思考に激しいノイズが走った。


(待て……CIAの報告書だと、確かKGB第一総局内に、我々のダブルが……いや、もしかしたらトリプル……? まさか、そのルートから情報が……?)


「……なんのことをおっしゃっているのか、分かりかねますな」


アーサーは、思考の混乱を完璧な微笑みで覆い隠しながら、ゆっくりと返した。

外交官としての長年の経験が、彼の顔から動揺の色を消し去っていた。


「ご冗談がお好きなようですね、ペトロフさん」


だが、彼の内心は、猛烈な嵐に見舞われていた。

目の前の男は、一体何者なのだ。彼はどこまで知っている? こちらの手の内は、全て読まれているというのか?

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