クレムリンの濁った瞳
モスクワのカザン駅に滑り込んだ列車から降り立つと、そこには冬の気配が満ちていた。
吐く息は白く、人々はコートの襟を立てて、忙しげに行き交っている。
ホームで彼を待っていたのは、いかにもモスクワのエリートといった風情の、仕立ての良いスーツを着こなした男だった。
「ペトロフ同志ですね。お待ちしておりました。ボリス・ニコラエヴィチの命により、お迎えに上がりました。ルビモフと申します」
ルビモフと名乗った男は、完璧な笑みを浮かべ、そつなくヴィクトルの荷物を持とうと手を差し伸べた。
気の利く、洗練された男だ。だが、その滑らかすぎる物腰は、ヴィクトルの中に大きな違和感を呼び起こした。
スヴェルドロフスク時代の豪放なエリツォンならば、このような都会的で、本心の見えない男を決して側には置かなかったはずだ。
電話越しに聞いた、あのねっとりとした声の記憶が蘇る。
頭のどこかで、あれは疲れているだけだ、多忙なだけなのだと打ち消そうとする自分がいた。変わっていてほしくなかった。変わってなど、いるはずがない。
なぜなら、エリツォンは、ヴィクトルにとって特別な存在だったからだ。
スヴェルドロフスクの無骨な工場で働く兄が、労働者の代表としてエリツォンに直訴したことがあった。その縁で、まだ若かった官僚のヴィクトルは、エリツォンに目をかけてもらったのだ。
それは単なる上司と部下の関係ではなかった。ここ数年、直接連絡を取り合ってはいなかったが、彼の中では、エリツォンはある種、家族同然の存在だった。
不器用だが、温かい。厳格だが、公正な。守るべき家長のような男。
黒塗りのヴォルガの後部座席にルビモフと共に乗り込み、車がクレムリンへと向かって走り出す。
窓の外を流れる、見慣れない首都の風景を眺めながら、ヴィクトルは自分の信じたいエリツォン像と、目の前に突きつけられた不穏な現実との間で、心を揺らしていた。
ヴィクトルはルビモフに導かれ、豪奢な装飾が施されたクレムリンの重いドアをくぐった。
そこは、ロシアの権力の中枢。
広大な執務室の奥、巨大なマホガニーの机の後ろに、一人の男が深く椅子に埋もれていた。ボリス・エリツォン。
だが、そこにいたのはヴィクトルが知る男ではなかった。
顔は不健康に赤く、その巨体は椅子に沈み込むように弛緩している。机の脇には、半分ほど空になったウォッカのボトルが、隠すでもなく置かれていた。
(まさか、職務中に……酒を……?)
衝撃がヴィクトルの背筋を走った。
確かにエリツォンは酒好きだった。だが、それはあくまで職務が終わってからの話だったはずだ。公私の別、その節度を、彼は決して違える男ではなかった。
その時、エリツォンがゆっくりと顔を上げた。そして、二人の目があった。
その瞳は、かつての鋭い輝きを失い、濁った水のようによどんでいた。
「おお、ヴィクトルか。よく来たな」
その話し声は、明らかに酩酊していた。ろれつが、わずかに回っていない。
彼が今日ここへ来ることは、もちろん事前に連絡済みだった。それなのに、この体たらく。
スヴェルドロフスクで老若男女を惹きつけた、あの人たらしの面影はどこにもなかった。
ヴィクトルは、鞄を握る手に力を込めた。
この中には、レニングラードでの数年間の血と汗の結晶である、全国への段階的で、しかし確実な市場経済導入案が入っている。
この計画を、今の彼に見せて、果たして理解できるのだろうか……。
戸惑うヴィクトルを無視して、エリツォンは自らの話を始めた。その声には、酔いと、そして剥き出しの敵意が混じっていた。
「ゴルバノフをやり込めたい。あの男の理想論は、この国を滅ぼすだけだ。ヴィクトル、お前がレニングラードの現地で培った『現実』で、奴の権威に傷をつけてほしいのだ」
エリツォンは、椅子から身を乗り出した。
「お前の市場実験の成功を、奴のペレストロイカの失敗の証拠として突きつける。そうすれば、奴は失脚し、俺が実権を握る。そうなれば、お前の計画案も、すぐに採用してやれる」
その言葉を聞いて、ヴィクトルは悟った。
酔ってはいても、エリツォンの頭脳はまだ明晰なのだ。だが、その明晰さは、もはや国家をどう救うかという方向には向いていなかった。
彼の思考は、ゴルバノフという一人の男をいかにして打ち負かすか、その権力闘争にのみ、注がれていた。
経済改革は、もはや目的ではない。政敵を攻撃するための「弾丸」でしかないのだ。
ヴィクトルは、目の前の男の、取り返しのつかない変貌を、ただ黙って見つめることしかできなかった。
「同志、ボリス・ニコラエヴィチ……私は……」
ヴィクトルの口から、思わず本音が漏れそうになった。
私は、あなたの政争の道具になるためにここへ来たのではありません。この国を救うための、具体的な計画を持ってきたのです、と。
エリツォンは、ただ酔眼を彼に向けた。その濁った瞳には、かつてのような理解の光はなかった。
目の前の若者が何を言いかけているのか、もはや彼には興味がないようだった。
その視線が、ヴィクトルの言葉を飲み込ませた。
彼は、込み上げてくる巨大な失望を内心に押し込め、ゆっくりと頭を下げた。
「……わかりました。ご期待に沿えるよう、全力を尽くします」
虚しい言葉だけが、クレムリンの豪奢な空間に響いた。
ゴルバノフのことは、テレビで何度も見ていた。
彼の言うグラスノスチ(情報公開)やペレストロイカ(改革)は、聞こえは良かった。だが、ヴィクトルはレニングラードで、その理想論がいかに現場の現実と乖離しているかを痛感していた。
そして、アレクサンドロフから受け取った資料が、その確信を裏付けていた。
ゴルバノフ派閥の人間関係、その弱点、そして専門家から見れば子供の夢物語に等しい経済政策の欠陥。
レニングラード派は、遠い北の都からモスクワの動きを逐一確認し、中央がすでに対処能力を失いつつあることを正確に理解していたのだ。
だが、それがどうしたというのか。
政治はモスクワが握る。それが、この国の揺るぎないルールだった。
レニングラードがどれだけ正しい分析をしようと、モスクワを動かす力がなければ、それはただの紙切れに過ぎない。
数日後、彼はエリツォンに連れられ、経済政策会議に出席した。
そこは、ソビエト連邦の経済の舵取りを決める、最高意思決定の場。ゴルバノフ書記長をはじめ、政治局の重鎮たちが顔を揃えている。
スヴェルドロフスクの一官僚だった彼が、数年前には想像もできなかった光景だった。
だが、彼の心に高揚感はなかった。
これから始まるのは、国家の未来を論じる真摯な会議ではない。エリツォンがゴルバノフを攻撃するための、政治という名の劇場なのだ。
そして自分は、その主役であるエリツォンに与えられた、最も鋭い台詞を語る役者に過ぎない。
そして、その日の経済政策会議は、後年、クレムリンの権力闘争史におけるある種の珍事として語り継がれることになる。
主役は、エリツォンがスヴェルドロフスクから連れてきた、まだ小僧と言っていい男だった。
政治局の重鎮たちが平均年齢七十歳を超えるこの国で、四十手前の官僚など、子供に等しい。
誰もが、エリツォンが連れてきた田舎者を、せいぜいお飾りの専門家くらいにしか見ていなかった。
だが、その小僧――ヴィクトル・ペトロフは、ソビエト連邦の最高指導者たちが居並ぶその場で、一切物怖じすることなく立ち上がった。
そして、堂々とした振る舞いで、レニングラードで集めた膨大なデータと、西側の経済理論を武器に、ゴルバノフ書記長の進めるペレストロイカの矛盾点を、一つ、また一つと、冷徹なまでに論理的に突き崩していったのだ。
それは、もはや批判ではなかった。レニングラードの実践という名の弾丸を込めた、事実上の罵倒だった。
理想論にすがり、現実から目を背ける指導者への、容赦のない断罪だった。
会議室は静まり返り、ゴルバノフの顔からは色がなくなり、重鎮たちは呆然と、その若き官僚の独演会を見つめるしかなかった。
話は野火のように広がった。
「エリツォンの連れてきた若手が、書記長を完膚なきまでに論破した」
この一件は、エリツォンの”ブレーンの力”をモスクワ中に見せつけ、彼の評判を劇的に高めた。
人々は、エリツォンの背後に、単なる田舎者の腕力だけではない、恐るべき知性が存在することを知ったのだ。
勢力争いの天秤は、明らかにエリツォンへと傾き始めた。
勝利の匂いを嗅ぎつけたエリツォンは、剥き出しの権力欲で、ゴルバノフ派閥の切り崩しにかかる。怒声と恫喝、そして甘い約束。彼の政治スタイルは、良くも悪くも単純明快だった。
そして、その背後で静かに糸を引いていたのが、ヴィクトルだった。
彼は決して表には出ず、エリツォンにそっと耳打ちをする。
「あの局長は、西ドイツの企業から不正な利益供与を受けています。証拠はありませんが、揺さぶりをかければ動揺するはずです」
「こちらの次官は、息子の留学費用に困っている。金に弱い」
ヴィクトルは、レニングラードで頭に叩き込んだ機密ファイルの情報を元に、誰が金に弱く、誰が不正蓄財を隠し持っているかを的確に見抜き、エリツォンを陰で動かし続けた。
エリツォンが表の破壊者であるならば、ヴィクトルは裏の設計者だった。
二人の奇妙な共闘によって、ゴルバノフの権力基盤は、まるで砂の城のように、静かに、しかし確実に崩れ始めていった。
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