砂漠の嵐 -17:ボーイスカウト
1991年2月下旬。イラク・クウェート国境地帯、イラン国境に近い東部砂漠。時刻は深夜0時を回っていた。
「……クソッタレな寒さだ」
米陸軍中佐ハンス・シュルツはM1エイブラムスの車長用ハッチから身を乗り出し、防寒着の襟をかき合わせながら悪態をついた。昼間の灼熱が嘘のように夜の砂漠は氷点下近くまで冷え込む。ドイツ系移民の三世である彼はかつてベトナムのジャングルで腐った湿気と戦った経験がある。だがここの寒さは質が違う。骨の髄まで凍らせるような乾いた殺意に満ちた静寂だ。
「大隊長、先行するブラボー中隊より報告。セクター・クリア。熱源反応なし。あるのは冷えた岩とトカゲだけです」
「了解。警戒を怠るな。特に東側だ」
無線機越しの部下の声には隠しきれない弛緩した空気が漂っていた。無理もない。「砂漠の嵐」陸上作戦開始から数日が経過したが、イラク軍の抵抗は予想以上に脆かった。
多国籍軍の圧倒的な航空戦力によって通信網を寸断され指揮系統を失った彼らは、米軍の姿を見るや否や白旗を掲げるか装備を捨てて敗走している。前線の兵士たちの間には「これは戦争ではない、ただの実弾演習だ」という慢心が砂埃と共に蔓延していた。
だがシュルツは違った。古参兵の勘が冷たい夜風の中で首筋の毛を逆立てていた。
(何かが、おかしい……)
彼が指揮するこの大隊はバグダッドを目指す主力侵攻部隊ではない。進軍は浅くイラク領内に入ってすぐの地点で停止し、東のイラン国境沿いの側面を警戒するための「壁」部隊だ。ワシントンはイランとソ連を刺激することを極端に恐れた。だからこそあえて主力を避け、意図的に戦力を薄くしたこの部隊を配置したのだ。
その編成はお世辞にも「最強」とは言えなかった。本国での機種転換訓練が間に合わず、急遽かき集められた州兵部隊が基幹となっている。最新鋭のM1エイブラムスと旧式化しつつあるM60A3パットンが混在するいびつな混成大隊。
M1は強力なサーマルを持つが、M60の暗視能力は劣る。速度も違う。連携を取るだけで一苦労だ。本来であればこのような部隊を戦場に投入すべきではない。だがカフカースでのソ連軍大規模演習を監視するため、正規軍の一部がトルコ方面に急遽派遣され、玉突きとしてこの部隊が側面防御を受け持つことになったのだ。
「おい、2番車。車間が詰まりすぎだ。散開しろ。ここはピクニック会場じゃないぞ」
シュルツは苛立ち交じりに無線で叱責した。彼らがこの危険な国境地帯で足を止めている唯一の拠り所は、頭上の航空支援だけだった。
制空権を握るF-15Cの編隊が常時上空を旋回し、何かあればA-10サンダーボルト——兵士たちが「ウォートホッグ(イボイノシシ)」と愛着を込めて呼ぶ醜悪だが頼もしい対地攻撃機——が30ミリ機関砲の雨を降らせてくれる。
この「空の傘」がある限り地上でどんな敵が現れようと対処できる。それが砂漠の嵐における米軍の絶対的な戦い方だった。
その時ヘッドセットにAWACSからの通信が割り込んだ。ノイズ混じりの緊迫した声。
『"オーバーロード"より"アンヴィル6"へ。緊急通達。北方の国境空域でソ連軍機と思われる複数の"アンノウン"がコースを逸脱、イラク領空へ南下中。貴隊担当のF-15C編隊をインターセプトに回す。繰り返す、CAPを一時解除する』
シュルツは思わずマイクを握りしめた。
「待て、オーバーロード! CAS(近接航空支援)はどうなる。A-10は残るのか!」
『ネガティブ、アンヴィル。アンノウンの機種未確認につき、ATO(航空任務指令)により当該空域の全航空アセットを一時退避させる。A-10は対空能力を持たない。ソ連機の脅威下に置くわけにはいかない』
シュルツの血の気が引いた。F-15Cだけではない。A-10まで引き上げる。空の傘が丸ごと消えるのだ。米空軍の教範通りの判断ではある。低速で無防備なA-10を正体不明の戦闘機がうろつく空域に残すことは許されない。だがその「正しい判断」が地上の彼らを完全な裸にする。
『状況が解消され次第CAPを復旧する。それまで地上で持ちこたえろ。アウト』
通信が切れる。シュルツは満月が照らす冷たい夜空を見上げた。今まで彼らを守っていた頼もしいジェットエンジンの残響が遠ざかり、代わりに死のような静寂が砂漠を支配した。
「……マズいぞ」
シュルツは呟いた。エア・カバーを剥がされた未熟な混成大隊。そして青白い月光が照らす砂丘の向こう側、深い闇の中。
彼らは気づいていない。そこには狩られるだけの哀れなイラク軍の旧式戦車ではなく、この暗闇の中で息を殺して待ち構える"本物"の捕食者たちがいることを。
ふと遠くの砂丘の稜線で何かがキラリと光った気がした。それは星の瞬きではない。青白い月光を反射した照準器のレンズの輝きだった。
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