砂漠の嵐 -16:吹き荒れる嵐
1991年1月17日。モスクワの深夜、電話のベルがドミトリー・ヤトフ元帥の私邸の張り詰めた静寂を引き裂いた。受話器の向こうから聞こえてきたのはGRUの当直将校の短く、極度の緊張を押し殺した報告だった。
「『砂漠の嵐』が開始されました。米軍によるバグダッド空襲、始まっています」
ヤトフは「分かった」とだけ答え、受話器を置いた。そして深く目を閉じた。ついに始まった。歴史の奔流が堰を切って溢れ出したのだ。
彼の脳裏にイラクの砂漠のどこかに潜ませた現場指揮官、ウラジーミル・イワノフ中佐の顔が浮かぶ。ワルシャワ条約機構軍の最精鋭。T-80U戦車大隊長。彼はただの優秀な軍人ではない。アフガニスタンという泥沼の地獄から部下を一人残らず生還させた実績を持つ、稀有な指揮官だった。
その研ぎ澄まされた状況判断能力と、部下を無駄死にさせないという鋼の自制心。だからこそヤトフは、この国家の命運を左右する極秘任務を彼に託した。
だがヤトフの胸中には、決して消えない一抹の不安があった。
(憎悪だ……)
イワノフには個人的な傷がある。アフガニスタン紛争末期。パンジシール渓谷での撤退戦。彼の兄もまた戦車長だった。その兄の乗るT-62は、安全とされていたルート上で突如として爆発炎上した。地雷ではない。ムジャヒディンには本来扱えるはずのない、高度な電子信管を用いた遠隔操作式のIED。正確に戦車の底部装甲を狙い澄ましたプロの仕事だった。
イワノフは知っている。兄を殺し友軍将兵の手足を吹き飛ばしたその技術を供与し、戦場の糸を引いていたのが誰なのかを。彼はNATOを、アメリカを、そしてCIAを骨の髄まで憎悪している。
その憎悪が戦場での爆発的な闘志となるか、それとも冷静さを曇らせる致命的な毒となるか。ヤトフは暗い部屋の中でただ祈るしかなかった。復讐心が彼を軍人ではなく、制御不能な怪物に変えてしまわないことを。
同時刻、モスクワ市内。ボリス・エリツォンの私邸。テレビの画面にはCNNが中継するバグダッドの夜空が映し出されていた。緑がかった暗視映像の中を対空砲火の曳光弾が無数に飛び交い、着弾の閃光が夜を切り裂く。
「……始まったか」
エリツォンは食い入るように画面を見つめていた。その額には脂汗が滲み、ソファの肘掛けを掴む指の関節は白く変色している。怯えているのではない。これは全財産を一点に賭けたギャンブラーが、ルーレットの回転を見守る時の極限の緊張だ。自分の政治生命、いや、物理的な命そのものをチップとして積んだ大博打の開始合図。
「ヴィクトル」
エリツォンは画面から目を離さず、低い唸り声のような声で傍らに控えるヴィクトル・ペトロフに問いかけた。
「軍は……イワノフ中佐たちは本当に仕事をこなせるのか?」
その問いには政治家としての焦燥が含まれていた。もし彼らが米軍の圧倒的な物量に恐れをなして逃亡すれば? あるいは逆に功名心に駆られて暴走し、ソ連軍の関与という決定的な証拠を晒してしまえば? ゴルバノフによる粛清の嵐が吹き荒れ、エリツォンの野望は露と消える。
ヴィクトルはテレビの閃光に照らされた顔を、ゆっくりとエリツォンに向けた。その表情は砂漠の夜のように冷え切っていた。
「ボリス・ニコラエヴィチ。一つだけ認識を改めてください」
ヴィクトルは静かに、しかし断定的に告げた。
「彼らを我々のような『政治的判断』で動く人間だと思わないことです」
「何だと?」
「彼らは軍人です。専門家です。本音を言えば、あなたや私のような安全な場所から指図する政治家を軽蔑しているでしょう」
ヴィクトルは動揺するエリツォンを諭すように、淡々と言葉を継いだ。
「ですがそれでいいのです。これは政治ではない。ビジネスです」
彼は画面の中の爆撃を見つめた。
「彼らはプロフェッショナルです。そして西側に対する個人的な、そして組織的な『借り』を返す機会を長年待ち望んでいた連中です。我々への忠誠心など必要ない。ただ敵を殺すというその能力と、職人としてのプライドだけを信じればいい」
ヴィクトルはテーブルの上のミネラルウォーターをエリツォンに差し出した。
「我々は舞台を整えました。金を用意し、武器を送り、敵をおびき寄せた。政治家の仕事はここまでです」
ヴィクトルの瞳に揺るぎのない確信が宿る。
「あとは専門家に任せるのです。彼らがどれだけ優秀な『職人』であるか。それを信じて待つのみです」
エリツォンは差し出されたグラスを受け取り、一気に飲み干した。乱暴にグラスを置くと、彼は再び猛禽類のような目でテレビ画面へと向き直った。
「……いいだろう。見せてもらうぞ、専門家の仕事を」
バグダッドの空がまた一つ、激しい閃光に包まれた。世界が注目するその爆炎の陰で、誰も知らない本当の戦争が今始まろうとしていた。
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