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砂漠の嵐 -14:副官

数ヶ月後、ヴィクトルの執務室。窓の外では、モスクワの冬が本格化し、鉛色の空から重たい雪が落ちていた。だが、ヴィクトルのデスクの上には、灼熱の砂漠の地図と、カフカース山脈の軍事境界線図が広げられていた。


「……釣れましたね」


ヴィクトルは、西側の通信社が配信したニュース記事を指で弾いた。


『ソ連軍、カフカース南部およびイラン国境付近で大規模演習を予告。参加兵力は十万規模か』『NATO、ソ連の意図を警戒。トルコ国境の緊張高まる。米中央軍、偵察衛星の軌道を修正』


ゴルバノフ書記長がどれほど国連で「平和」を唱えようと、軍が独自に、しかもあからさまに発表したこの演習計画は、西側の軍事筋に強烈な冷や水を浴びせていた。


あと数ヶ月。世界が注目する「砂漠の嵐」作戦の開始時期に合わせ、ソ連軍がその背後で巨大な体躯を動かす。ペンタゴンの作戦室は今頃、偵察衛星のリソース配分と、トルコ方面への戦力分散の検討で蜂の巣をつついたような騒ぎだろう。


「隙が、できました」


ヴィクトルは、部屋の隅に直立していた男に視線を向けた。ヤトフ元帥の副官、ボロディン大佐。無骨な軍人だが、口が堅く、元帥の影のように動く実務のプロだ。


「西側の『目』がカフカースとクウェートに釘付けになっている今が、唯一の機会です。ですが、陽動を行っているイラン国境やカスピ海ルートを使うのは愚策です。そこは今、世界で最も注目されている場所ですから」


ヴィクトルは、地図上の視点を大きく西へずらし、ヨーロッパ大陸を指し示した。


「東ドイツです。あそこには今、撤退準備中の西部方面軍の膨大な物資があります。その混乱を利用します」


彼は、指を地中海へと滑らせた。


「『老朽化した機材の本国送還』および『シリア海軍基地への定期補給』という名目で、ロストック港から輸送船を出します。ルートは地中海を経由し、シリアのタルトゥース港へ。そこから陸路でイラク国境を抜けます」


それは、大胆不敵な迂回ルートだった。ドイツから撤退する膨大なコンテナの中に、最新鋭のT-80U戦車と、選りすぐりの乗員を紛れ込ませる。西側は「敗れたソ連軍の撤退」という油断の中にあり、中東に向かう船が「兵器の墓場」行きではなく「最前線」行きだとは夢にも思わないだろう。


ヴィクトルは、一枚の書類を大佐に渡した。それは、輸送計画書でも、作戦命令書でもない。資金の裏付けを示す、財務書類だった。


「予算は、ご心配なく。連邦政府の財布は使いません。ロシア共和国が、極秘費として負担します」


ボロディン大佐の眉が、わずかに動いた。連邦の軍隊を動かすのに、一共和国に過ぎないロシアが金を出す。それは、ソビエト連邦軍が、実質的にモスクワの、いや、エリツォンの私兵となりつつあるという、危険極まりない前例だった。


「……ボリス・エリツォン議長の、承認済みということですか」

「ええ。議長は、ウラルの工場とご自身の政治生命を守るためなら、悪魔とでも契約しますよ」


ヴィクトルは淡々と答えると、地図上のイラク南西部、サウジアラビア国境に近い広大な砂漠地帯をペンで叩いた。


「大佐。元帥にお伝えください。確実に『地の利』を取れるよう、展開を急いでほしい、と。米軍が侵攻を開始する前に、我々は砂の中に潜り込み、待ち構えている必要があります」


そして、ヴィクトルは声を低くした。


「それと、GRUの現地班に、追加のオーダーを」

「オーダー?」

「敵の選定です」


ヴィクトルの瞳に、演出家の光が宿った。


「米軍であれば誰でもいいわけではない。狙うのは、GRUの報告にある最新のM1A1、劣化ウラン装甲型を装備した主力ではありません。州兵上がりの部隊か、あるいは装備更新が遅れている、最も慢心し、最も連携が取れていない脆弱な機甲大隊です。GRUの鼻で嗅ぎ分けさせてください」

「……政治家が、戦術に口を出すおつもりか」


ボロディン大佐の声に、抑えきれない反発の色が混じった。官僚風情が、神聖なる戦場の標的選定にまで手を伸ばすのか、という軍人としての矜持。


だが、ヴィクトルは動じなかった。彼はただ静かに、大佐を見つめ返した。


「政治ではありません、大佐。これは『コマーシャル』です。我々が必要としているのは、苦戦の末の辛勝ではない。世界中に衝撃を与える、一方的な『虐殺』という名のショーなのです。誤解なきよう、相手は米軍です。最弱の部隊であっても、世界の他のどの国の精鋭より強い。それを一方的に殲滅すれば、効果は十分です。逆に、最強の部隊と互角に戦って双方に損害が出れば、それは『ソ連製兵器でもこの程度か』という評価にしかなりません」


ボロディンは、奥歯を噛み締めた。目の前の男は、戦争すらも数字と演出の道具として見ている。その容赦のなさに、生理的な嫌悪感を覚える。


だが、同時に——軍人であるボロディンには、この男が見落としている、もう一つの真実が見えていた。


ヴィクトルは米軍を「世界最強」と呼んだ。だが、それは冷戦時代のプロパガンダが作り上げた幻影でもある。あの軍隊は、つい15年前にベトナムのジャングルで泥にまみれ、サイゴンの屋上からヘリコプターにしがみつく醜態を全世界に晒した。


徴兵制は廃止され、士気は地に落ち、「世界の警察官」の看板は錆びついていた。先の大統領の大軍拡で装備こそ刷新されたが、実戦の洗礼を受けていない。1983年のグレナダ侵攻は、人口十万の島国相手に友軍誤射を連発した茶番だった。


ペンタゴンもそれを知っている。だからこそ、彼らはこのイラクへの懲罰攻撃を、ベトナムの亡霊を祓い落とす復権の舞台として欲しているのだ。弱い相手を確実に叩きのめし、「我々は帰ってきた」と世界に宣言する。ヴィクトルが言う「コマーシャル」を、米軍もまた必要としている。


つまり、これは鏡だ。瀕死のソ連軍も、傷を負った米軍も、共にこの砂漠の戦場で己の価値を証明しようとしている。どちらが先に相手を食い物にできるか。


ボロディンは理解していた。この男が動かなければ、ヤトフ元帥は動けなかった。軍は予算不足で死に体となり、誇り高い戦車たちはスクラップとして二束三文で西側に売り飛ばされていただろう。この男は、軍を救うために、地獄への道を選んだのだ。


「……承知いたしました」


ボロディンは、短い敬礼をした。それは、上官に対するものではなく、同じ罪を背負う「共犯者」への、苦い合図だった。


「GRUに伝達します。砂漠で、最高の獲物を見繕わせると」


大佐は踵を返し、部屋を出て行った。ドアが閉まると、ヴィクトルは再び地図に目を落とした。タルトゥースからバグダッドへ。そして死の砂漠へ。砂漠の嵐。その巨大な砂嵐の中に、彼は一粒の、致死性の毒を混ぜ込んだのだ。

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