表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
43/58

砂漠の嵐 -11:モスクワ地下鉄

ヴィタリーは、地下鉄駅の重厚な木の扉を肩でこじ開けるようにして構内に雪崩れ込んだ。


ムワッとした熱気。古びた潤滑油とオゾンの匂い。そして、濡れたウールのコートと数百人の市民が放つ、生活の疲労が凝縮されたような湿った息遣い。改札口には、制服を着た無気力な監視員の老婆が座っていた。ヴィタリーは、5カペイカ硬貨を探すふりはしなかった。上着のポケットから、期限切れの鉄道省の身分証を一瞬だけちらつかせ、老婆が老眼鏡の位置を直そうとしている隙に、ゲートを強引に突破した。


背後で咎めるような声が上がったが、すぐに怒号にかき消された。追っ手のKGBたちが、さらに乱暴にゲートを乗り越えてきたからだ。


長い、長いエスカレーター。スターリンが「人民の宮殿」として築き上げ、有事には巨大な核シェルターとなるこの地下要塞の底へ向かって、ヴィタリーは駆け下りた。左側を駆け下りながら、ふと見上げると、エスカレーターの頂上に、革コートの男たちの姿が見えた。彼らは一般客を押しのけ、手すりを滑り降りるような勢いで迫ってくる。


プラットホームにたどり着くと、そこは灰色の海だった。ラッシュアワーでもないのに、ホームは人で溢れ返っている。燃料不足で地上のバスが減便され、誰もが地下鉄に殺到しているのだ。


轟音と共に、青い車体の列車が滑り込んでくる。ドアが開くと同時に、吐き出される人波と、乗り込もうとする人波が衝突し、怒号が飛び交う。ヴィタリーは、その混沌を歓迎した。彼は体をねじ込み、満員電車の中へと強引に割り込んだ。肋骨が軋むほどの圧力。だが、これこそが最高の盾だ。


「どけ! 道を空けろ!」


ホームの階段から、よく通る怒鳴り声が響いた。KGBだ。彼らはもう、隠密性をかなぐり捨てていた。男の一人が、頭上の空間に向けて、赤い手帳を高々と掲げた。金の縁取りに、剣と盾の紋章。国家保安委員会の身分証。


かつて、ブレジネフの安定した時代、彼らは「我らがチェキスト」として、ある種の敬意と親愛を集める存在でもあった。町の駐在警官のように秩序を守り、西側のスパイや反社会的な分子から、市民の平穏な生活を守るエリートたち。彼らが声を上げれば、市民は頼もしさと共に、進んで協力を惜しまなかったはずだ。


「国家保安委員会だ! 捜査中である! そのドアを閉めるな!」


男は叫びながら、群衆を乱暴に掻き分けた。その瞬間、ホームの空気が変わった。


人々は、KGBの紋章を見て、確かに道を空けた。だが、その目にあるのは、秩序の守護者に対する敬意でも、畏怖ですらない。まるで、泥のついた靴で家に上がり込んできた酔っ払いや、忌まわしい疫病神を見るような、嫌悪と諦めが混じった冷たい目だった。


崩れつつある国家において、特権を振りかざす治安機関は、もはや市民を守る存在ではない。物資を横流しし、自分たちのささやかな生活の動線を乱す、ただの暴力装置に成り下がっていたのだ。


「チッ、委員会かよ……」

「また誰かを連行するのか。忙しいこった」


誰かの舌打ちが聞こえた。そのわずかな反感の空気が、人々の動きを鈍らせた。彼らは道を空けるふりをして、微妙に足を出し、肩を入れ、追っ手の進路を無意識のうちに阻んだ。それは、崩壊前夜のソビエト社会に蔓延する、権力への静かなるサボタージュだった。


「発車するぞ! ドア閉め!」


運転士のアナウンスが響く。運転士は、ホームで叫ぶ男がKGBであることに気づいていた。だが、彼はブレーキを解除した。今のモスクワ地下鉄は、過密ダイヤと整備不良で綱渡りの運行を強いられている。ここで数分でも止まれば、後続の列車がトンネル内で立ち往生し、信号システムの不備による追突事故さえ起きかねない。彼にとっての恐怖は、KGBの怒鳴り声よりも、背後から迫る数百トンの鉄塊の衝突だった。


プシューッ、という音と共に、ドアが閉まり始める。KGBの男が、人波を強引に突破し、閉まりかけたドアの隙間に革靴をねじ込んだ。その目は血走り、ヴィタリーを完全に捉えていた。


「降りろ! 貴様!」


男の手が、ドアの隙間から伸びてくる。ヴィタリーは、すし詰めの車内で身動きが取れない。万事休すか。


その時だった。ドアの脇に立っていた、大きな旅行鞄を持った巨漢の男が、列車の揺れによろめいたふりをして、ドアの隙間に背中から倒れ込んだ。


「おっと、すまねえ!」


巨漢は、KGBの男の手を押し潰すようにして、ドアの隙間を埋めた。


「痛っ! 貴様、公務執行妨害で……!」


KGBの男が悲鳴を上げ、反射的に手を引っ込める。その一瞬の隙に、ドアは無慈悲に閉まった。


ドン、という鈍い音。巨漢の男は、何食わぬ顔で体勢を立て直すと、窓の外で悔し紛れにドアを叩き、遠ざかっていくKGBの男たちに、大げさに肩をすくめてみせた。


列車が動き出す。加速するGの中で、ヴィタリーはその巨漢の男を見た。薄汚れた労働者の服。無精髭。だが、その耳の形は、サンボかレスリングの有段者のように潰れており、その瞳は、鋭く澄んでいた。


男は、ヴィタリーとは目を合わせなかった。ただ、混雑に紛れて、小さく、誰にも聞こえない声で呟いた。


「……次は、『革命広場』駅だ。反対ホームへ乗り換えろ」


潰れた耳。澄んだ瞳。この男が何者か、ヴィタリーには分かった。この地下迷宮には、KGBだけではない、もう一つの力が息づいている。


ヴィタリーは、無言で小さく頷くと、懐の封筒を抱く手に力を込めた。列車は轟音を立てて、暗黒のトンネルへと吸い込まれていった。

更新の励みになります。ブクマ・感想・評価いただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ