砂漠の嵐 -4:ソ連邦軍
暖炉の火が、エリツォンの顔を赤く照らし出していた。
ヴィクトルに突きつけられた「政治基盤の死」という冷たい刃。
だが、この政治的怪物は恐怖に震えてはいなかった。
彼は唇を噛み締め、充血した目で虚空を睨んでいた。
それは、追い詰められた獲物の目ではない。罠にかかった猛獣が、自らの足を食い千切ってでも生き延びようとする、狂気じみた生存本能の目だった。
しばしの重苦しい沈黙を破ったのは、部屋の隅で彫像のように動かなかった、ドミトリー・ヤトフ元帥だった。
「……狙いは?」
その声は低く、短かった。だが、その二文字には、国家の命運を左右する「公然たる反乱」の真意を測りかねる軍人の、全神経が込められていた。ヴィクトルは、エリツォンからヤトフへと視線を移した。
その顔には、もはや何の感情も浮かんでいなかった。
「我々が送るのは、輸出用の安っぽいT-72(モンキーモデル)の露払いではありません」
ヴィクトルの声は、暖炉の熱気とは裏腹に、絶対零度の響きを持っていた。
「現在、東ドイツ駐留軍に優先配備されているガスタービンエンジン搭載の最新鋭、T-80U。その中でも選りすぐりの乗員で編成された、最高の精鋭大隊です。彼らの任務はただ一つ」
ヴィクトルは、そこでわずかに間を置いた。
「米陸軍の機甲騎兵連隊……M1エイブラムス戦車大隊を、砂漠のどこかで『伏撃』し、これを一方的に『撃破』することです」
ヤトフの目が、わずかに、しかし確かに見開かれた。T-80U。ソビエト陸軍の至宝。
西側がその性能を恐れながらも、実戦データを持たない未知の怪物。それを、米軍の最強部隊に真正面からぶつけると言うのか。
「目的は二つあります」
ヴィクトルは、この密議の核心を、まるでゴスプランの生産計画を報告するかのように淡々と告げた。
「第一に、兵器の価値証明です」
彼は、指を一本立てる。
「『砂漠の嵐』が本格化する前に、世界最強と謳われる米陸軍に対し、我々の一撃を加える。ソ連製兵器は安物ではない。運用次第で米軍を殺せる兵器であると、全世界に実証します。これにより、兵器の市場価値……我々の貴重な外貨獲得源を、死守します」
ヴィクトルは、二本目の指を立てた。
「第二に、外交の破壊です」
彼の口元に、歪んだ微笑みが浮かんだ。
「ソ連軍の精鋭が米軍を攻撃した。その事実が露見すれば、ゴルバノフ書記長が西側と築き上げてきた蜜月関係は、修復不可能なまでに破壊されます」
その言葉にヤトフは、ヴィクトルが狙っている波及効果を即座に理解した。
老元帥の脳裏には、その方程式の解がはっきりと浮かんでくる。
(ゴルバノフと西側の関係が破壊されれば、多国籍軍の足並みは乱れる。戦争は泥沼化し、中東の混乱は長期化する。……つまり、石油価格は高止まりし、軍を養う予算が確保される)
それは、この若き官僚が最初に提示した問題……「軍の生存」に対する、唯一にして最も危険な回答だった。
一方エリツォンは、ヴィクトルの言葉を聞きながら、ソファの肘掛けに爪が食い込むほど強く指を立てていた。
(ゴルバノフの外交の破壊……)
それは、自らの政敵の完全な失脚を意味する。西側との関係が切れれば、ゴルバノフはもはや「西側の寵児」ではいられない。アメリカの怒りを買った指導者を、軍部も国民も見放すだろう。
エリツォンの口元が、獣のように裂けた。
彼は、この危険な賭けの先に、自らがクレムリンの主として君臨する姿を幻視していた。
ゴルバノフの「平和」という首輪を引きちぎり、強いロシアの指導者として立つ未来を。
エリツォンの猛りとは異なり、ヤトフ元帥は、腕を組み直し、静かに目を閉じた。気に食わない、だが兵器の価値証明。それは、ゴルバノフの弱腰外交によって地に落ちた、ソビエト軍の威信そのものを回復する戦いだった。最強の敵を、最強の矛で穿つ。軍人として、これ以上血が滾る提案はない。
エリツォンは「権力」を。ヤトフは「威信」と「糧」を。
二人の巨頭は、ヴィクトル・ペトロフが差し出したこの狂気の「賭け」に、自らが求める全てが揃っていることを悟った。
暖炉の火が揺らめき、三人の影を壁に黒々と焼き付ける。
ヴィクトルは、黙って二人の答えを待っていた。やがて、ヤトフがゆっくりと目を開けた。
その瞳には、もはや迷いはなく、作戦指揮官の冷たい光が宿っていた。
エリツォンが、テーブルの上の水を一気に飲み干し、不敵に笑った。
誰も「イエス」とは言わなかった。言葉にする必要などなかった。
その雨の降るダーチャの一室で交わされた重く、熱い沈黙こそが、この国家の命運を賭けた「反乱」に対する、彼らの共犯の署名となった。
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