砂漠の嵐 -3:離反
第一の暗躍は、失敗に終わった。
ソビエト連邦は、ゴルバノフ書記長の「新思考外交」という名の空虚な理想と共に、石油価格の暴落という崖に向かって突き進むことが確定した。降りしきる雨の中、チェルノフが運転する自動車に揺られながら、ヴィクトルは歯を噛みしめた。
(政治局が自殺へと向かうならば、チェス盤そのものをひっくり返す)
もはやゴルバノフという「ルール」に従うことを、彼はやめた。
モスクワ郊外、ルブリョフカ。
党幹部や政府高官の別荘が点在するこの地域に、雪が降り始めるにはまだ早い、1990年晩秋の冷たい雨が降りしきっていた。一台の黒いヴォルガが、濡れたアスファルトを滑るように走り、森の奥深くにある政府保有の保養施設へと吸い込まれていく。
ヴィクトルが選んだのは、KGBの監視が厳しい都心を離れた、古びているが警備が堅固な、要人のための隠れ家だった。重厚なオーク材の扉が開かれる。
部屋の中は薄暗く、暖炉の火だけが、三人の男の影を壁に長く揺らめくように映し出していた。
「それで、ヴィクトル。わざわざこんな湿気た場所まで呼び出して、次の手とは何だ」
ボリス・エリツォンが、革張りのソファに深々と座り、苛立ちを隠さずに切り出した。ゴルバノフへの「売国奴」批判は軍部の一部には受けたが、決定打にはならなかった。彼は手詰まりを感じ、その鬱憤を晴らす場所を求めていた。
一方部屋の隅、暖炉から離れた影の中に、ドミトリー・ヤトフ元帥は立っていた。軍服のまま腕を組み、彫像のように沈黙している。ヴィクトルは、暖炉の火を見つめたまま、静かに口を開いた。
「ゴルバノフ書記長は、もはや我々の言葉に耳を貸しません。石油価格の暴落も、国家財政の破綻も、彼の『ノーベル平和賞』への野心の前では些末なことなのでしょう」
その声は、外の雨よりも冷え切っていた。
「ならば、我々は我々の手で、その『現実』を動かすまでです」
ヴィクトルは、二人の顔を順番に見据えた。
「ゴルバノフ書記長を、完全に無視します」
「なに?」
エリツォンが、グラスを置く手を止めた。
「国防省の、そして『軍の独自の判断』として、NATO対抗訓練を積んだワルシャワ条約機構軍(WPO)所属の精鋭戦車大隊を、ただちにイラクへ秘密裏に派遣します」
しん、と部屋が静まり返った。暖炉の薪がはぜる音だけが、不気味に響く。
ヤトフ元帥の眉が、わずかに動いた。
「……馬鹿を言え」
最初に沈黙を破ったのは、エリツォンだった。だが、その声は怒鳴り声ではなかった。低く、腹の底から響くような唸り声だった。
「おまえは何を言っているか分かっているのか? それは……公然たる反乱行為だぞ。外交権は書記長にある。それを無視して軍を動かせば、世界中に『ソビエトは統制を失った』と宣言するようなものだ」
エリツォンはヴィクトルを睨みつけた。
その眼光は鋭く、政治的なリスクを瞬時に計量していた。もし失敗すれば、ゴルバノフに「反乱分子」として、自分もヤトフもまとめて粛清される口実を与えるだけだ。
だが、ヴィクトルは、そのエリツォンの政治的な圧力を一瞥だにせず、彼の最も痛い部分……その政治基盤へと、冷たいメスを入れた。
「ボリス・ニコラエヴィチ。失礼ながら、ゴルバノフ書記長は経済をご存じない」
ヴィクトルの声色は、スヴェルドロフスクのゴスプラン官僚のものに戻っていた。ただ淡々と事実を指摘する声。ウラルの工場群の数字を知り尽くした、実務家の声だ。
「そしてあなたも、ご自分の足元が今、どれほど危険な状態にあるか、お気づきではないようだ」
「何だと?」
エリツォンの声が低くなる。ヴィクトルは一歩も引かなかった。
「ソビエト連邦は、これまで何を売って貴重な外貨を稼いできたとお思いですか? 石油と天然ガス。そして……」
ヴィクトルは、エリツォンの地盤であるウラル地方を指すように、指を床に向け言葉を続けた。
「あなたの政治基盤、ウラル重機械工場が生産する『兵器』です」
その言葉にエリツォンはかすかに動揺した。
「相手を制圧できる程度の旧式装備……T-72M戦車やMiG-29戦闘機の輸出仕様を、イラクのような友好国に売り飛ばすことで、我々はここ数年、国の破産をかろうじて食い止めてきた」
ヤトフの目が、初めてヴィクトルを正面から捉えた。ヴィクトルはその様子を目の端で確認しながら、
冷めたい目でエリツォンに告げた。
「では、お聞きします。このまま多国籍軍が侵攻し、砂漠で一方的な戦いが始まったら、何が起きるか」
ヴィクトルは、二人に地獄の未来図を提示した。
「我々のT-72Mが、米軍のM1エイブラムスに一方的に撃破される映像が、世界中に配信されます。さらに輸出した戦闘機が、F-15に手もなくひねられる。そうなれば、世界中のバイヤーたちはどう判断しますか?」
ヴィクトルは、答えを待たずに断言した。
「『ソ連製兵器は安物買いの銭失い』。その評価が、一度確定します」
「……!」
エリツォンの眉間に、深い皺が刻まれる。
「そうなれば、我が国の兵器輸出は壊滅的な打撃を受け、外貨獲得の道は完全に絶たれる。それは、あなたの政治基盤である、ウラル工業地帯そのものの死を意味します」
エリツォンは息を呑んだ。だが、怯えたのではない。
スヴェルドロフスクの工場群が次々と停止し、職を失った労働者たちが路頭に迷い、やがてその怒りの矛先を「守ってくれなかった英雄」である自分に向ける未来。
ゴルバノフの「平和外交」が、自分の足元の土台を液状化させようとしている事実を、彼は骨の髄で理解したのだ。
「つまり、座して死ぬか、掟を破って生きるか。その二択だと言いたいのか」
エリツォンは、ソファの肘掛けを強く握りしめた。その指は、込められた力で赤黒く染まっていた。
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