共依存
ジュネーブ、ロシア代表部 1991年12月19日、午前2時。
ひっそりと静まり返った大使館の廊下をヴィクトルは一人歩いていた。
シェルパとの会合は再開から2時間経過した時点で一時中断となった。最終的な合意には至らない。
だが巨大な氷山は確かに軋み、動き始めていた。
(譲歩の範囲は見えた…)
彼は執務室に戻りながら今日の会議の内容を頭の中で反芻していた。
西側はもはや"ショック療法"という棍棒を無邪気に振り回すことはできない。
棍棒で殴りつけた巨人が倒れた時、その死体が世界中に撒き散らす放射性の毒がいかなるものか、
ヴィクトルが突きつけた『現実』によって彼らは嫌というほど理解させられたからだ。
激論は続くだろう。支援の額、改革の速度、一つ一つの条項を巡って、
血を吐くような交渉が数日にわたって続くに違いない。
だが彼らも気づきつつある。
彼らが夢見るバラ色の未来、冷戦後の平和という配当金は、
ロシアという巨大な国家の安定なくしては決して手に入らないということを。
交渉の主導権は今や完全にこちらの手にある。
ふと廊下の突き当たりにあるエリツォンに割り当てられた執務室のドアの隙間から、
一条の光が漏れているのに気づいた。
守衛に目配せして下がらせ、彼は音を立てずにドアへと近づく。
部屋をのぞくとエリツォンは起きていた。酒瓶はない。
ただ巨大な体躯を椅子に沈め、机の上に広げられた経済指標の報告書を苦闘するように睨みつけている。その横顔にヴィクトルは深い影が走っているのを見た。
権力闘争の興奮でも勝利の昂りでもない。
自らが背負うことになった国家の重責に押し潰されそうになっている男の、孤独な影だった。
「…ヴィクトルか」
エリツォンはヴィクトルの気配に気づき顔を上げた。
「終わったのか」
「いえ、一時中断です。夜明けと共に再開します」
「そうか…」
エリツォンはふっと息を吐くと報告書を指でなぞった。
「難しいものだな。数字というやつは。スヴェルドロフスクで党の予算を差配するのとは訳が違う」
その声には酔いの澱みはなかった。ただ深い疲労があった。
ヴィクトルはエリツォンがこの数日間、酒を断っていることを知っていた。
ジュネーブという世界が注目する舞台でロシアの指導者として、みっともない姿は見せられないと。
そして何よりも彼は本気で経済を理解し、この国を立て直すための指導者になろうと必死にもがいていた。ヴィクトルは何も言わなかった。ただ静かに頷いた。
頑張ってください、ボリス。あなたは英雄なのだから。
その言葉を彼は飲み込んだ。この男を信じよう、と。
エリツォンの執務室を辞し自室へと向かう廊下を歩きながら、
ヴィクトルは己の中に奇妙な感情が芽生えているのを感じていた。
それは安堵に似ていた。あるいは希望と呼んでもいいのかもしれない。
だがそれは甘えだったのかもしれない。彼らしくない、致命的な。
ジュネーブ、国際会議場・大ホール。翌日、午後3時。
スポットライトが壇上の巨大な男を照らしていた。ボリス・エリツォン。
彼は両腕を広げ、まるで群衆を抱擁するかのように立っていた。
詰めかけた三百人の記者たち、G7首脳の代表団、そして世界中に中継されているテレビカメラ。
その全てがこの男に注目していた。
「諸君!」
エリツォンの声がホールを震わせた。
同時通訳のヘッドホンを通してなお、その声の力は失われていない。
「今日、我々は歴史の転換点に立っている!45年間世界を二つに引き裂いた『鉄のカーテン』は、ついに、完全に、そして永遠に取り払われるのだ!」
拍手が湧き起こる。
エリツォンはその波を待った。
彼は拍手のタイミングを本能的に理解していた。
いつ間を取り、いつ畳み掛けるか。
それは計算ではない。ありとあらゆる名政治家の演説、それをうつし込んだまさに"歴史的"な演説だった。ホールの最後列、報道席の影に立つヴィクトルはその光景を無表情で見ていた。
「新しいロシアはもはや世界の脅威ではない!」
エリツォンは拳を振り上げた。
「我々は民主主義と、自由市場と、法の支配を選んだ!
そして今日ここに集まった友人たち—アメリカ、ドイツ、フランス、イギリス、そして日本—と共に、
新しい時代を築こうではないか!」
再び拍手。今度はスタンディングオベーションになった。
アメリカ代表団が立ち上がり、続いてドイツ、フランスも立つ。
やがてホール全体が立ち上がって拍手していた。
エリツォンはその喝采を全身で受け止めた。
彼の顔には子供のような歓喜があった。
ヴィクトルは腕を組んだまま動かなかった。
「我々は核軍縮に合意した!
我々は透明性のある軍事政策に合意した!
そして我々は自由で公正な経済への移行に合意した!」
エリツォンは壇上を歩き回り始めた。まるで舞台俳優のように。
「これは勝者と敗者の会議ではない!
これは共に未来を築く者たちの会議なのだ!
冷戦は終わった。だがそれは敗北ではない。
それは全人類の勝利なのだ!」
その言葉にホールは再び沸騰した。
西側の記者たちはメモを取りながら興奮している。
「エリツォンは本物だ」「彼こそが新しいロシアだ」と。
そんな囁きがヴィクトルの耳にも届く。
彼は静かに踵を返した。
もう見る必要はない。エリツォンは彼の役割を完璧に演じている。
控室。午後5時。
記者会見が終わり、握手と写真撮影の嵐をくぐり抜けてエリツォンが控室に戻ってきた時、
彼の顔からは先ほどの輝きが消えていた。ドアが閉まると同時に彼は大きく息をついた。
そしてよろめくようにソファに倒れ込んだ。
「ヴィクトル...水を...いや、ウォッカだ。だめか?」
ヴィクトルはすでに部屋にいた。
彼は小さなテーブルの上に水の入ったグラスを置いていた。
ウォッカのボトルはどこにもなかった。
「水です、ボリス・ニコラエヴィチ。あと一時間で英首相との晩餐会があります」
「くそ...」
エリツォンは顔を手で覆った。
「もう限界だ。笑顔を作り続けるのは...疲れる」
ヴィクトルは何も言わずにグラスを差し出した。
エリツォンはそれを受け取り、一気に飲み干した。
「どうだった」
エリツォンが疲れ切った声で聞いた。
「進展しています。IMFの条件はある程度緩和させることができました。核管理の枠組みも概ね合意です」
「『概ね』か」
エリツォンは自嘲するように笑った。
「お前の『概ね』はいつも完璧を意味する」
彼はヴィクトルを見上げた。
その目は先ほどホールで輝いていた目とは別人のようだった。
「俺は...俺は何も理解していない。お前が何を交渉し、何を約束したのか」
「理解する必要はありません」
ヴィクトルは静かに答えた。
「あなたの仕事は、あの舞台で世界にロシアの顔を見せることです」
「操り人形、というわけか」
「いいえ」
ヴィクトルは首を振った。
「あなたは英雄です。本物の。誰もあなたのようには演説で人々を魅了できません」
エリツォンは長い時間ヴィクトルを見つめていた。
そしてゆっくりと立ち上がった。
「ヴィクトル」
「はい」
「お前は...俺を軽蔑しているか」
その問いにヴィクトルは驚きと、胸をつかれたような痛みで一瞬口ごもった。
彼はとっさにゆがんだ表情を隠すために窓の外に広がるレマン湖を見た。
冬の湖は鉛色に沈んでいた。
「いいえ」
彼はやがて答えた。
「あなたは必要な人です。この国には希望の象徴が要る。それは私にはできません」
「だが実際に国を動かしているのはお前だ」
「それぞれの役割があります」
エリツォンはふっと息をついた。そして鏡の前に立ち、乱れたネクタイを直し始めた。
鏡に映る自分の顔を見つめながら彼は呟いた。
「スヴェルドロフスクにいた頃は...もっと単純だった。敵は明確で、戦い方も分かっていた」
「今も同じです。敵はこの国を滅ぼそうとする全てのものです」
「だがそれが誰なのか、分からなくなってきた」
エリツォンは鏡の中のヴィクトルを見た。
「時に、それは自分自身なのではないかとすら思う」
ヴィクトルは答えなかった。答えられなかったのだ。
ノックの音が響いた。
「アーロン首相がお待ちです」
秘書の声だ。エリツォンは深く息を吸った。
そして鏡の中の自分に向かって、あの朗々とした笑顔を作った。
それはまるでスイッチを入れるかのように、一瞬で完成した。
「行くぞ」
彼はドアへ向かった。その背中は再び英雄のものだった。
ヴィクトルはその背中を見送った。
部屋に一人残されて、ヴィクトルは小さなテーブルの引き出しを開けた。
そこにはウォッカのボトルが隠されていた。
エリツォンが秘書に用意させたものだ。
ヴィクトルはそれを手に取り、しばらく見つめていた。
そして静かに洗面台に中身を全て流した。
液体が排水口に消えていくのを見ながら彼は思った。
英雄を守ること。それもまた自分の仕事なのだと。
たとえその英雄から憎まれようとも。
廊下ではエリツォンの豪快な笑い声が響いていた。
アーロン首相を前に彼はもう完全に「ボリス・エリツォン」になっていた。
カメラのフラッシュがその姿を捉える。
ヴィクトルは誰にも見えない場所で、空になったボトルをゴミ箱に捨てた。
二人の男。一人は光の中で、一人は影の中で。
それぞれがこの国を背負っていた。
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