立ち直る権利
変革への道は結実に至る。
圧縮された軍事費、そして情報の透明性。
その二つを新生ロシアが差し出す最大の商品として携え、ヴィクトルはボリス・エリツォンを伴って西側世界の中心へと乗り込んだ。
舞台は冬のジュネーブ。
レマン湖のほとりで開かれる臨時G7サミット。
それは45年続いた冷戦の終結を公式に宣言し、旧ソビエト連邦という巨大な遺産の分割とその未来を決定づけるための歴史的な会議だった。
ロシアの専用機からタラップを降りるエリツォンの隣には招待客としてカザフスタンのナザルベフが、そして中央アジア諸国の代表たちが並んでいた。
少し離れてヴィクトルの尽力で同道したリトアニアの代表団がいる。
彼らは皆、ロシアが描く新たな共同体の最初のパートナーだった。
その光景をテレビの向こうでウクライナのクラフチェンコが、そしてジュネーブへの招待を最後まで拒絶したラトビアとエストニアの指導者たちが見ている。
手を取り合える者と、そうでない者。
世界はソビエトの死体の上で早くも新たな線引きを始めていた。
ヴィクトルがとりまとめてきた最後の交渉内容は極めて単純だった。
ソビエト連邦はワルシャワ条約機構より遥かに縮小された集団安全保障条約(CSTO)として再出発する。
そしてその軍備は完全な透明性を維持し、ロシアとそれに同意する各国はCSCEの厳格な査察の下にCFE条約(ヨーロッパ通常戦力条約)を遵守する。
我々はもはや西側への脅威ではない。
その代わり経済的な交流と体制移行を支えるための金融支援を求める。
そして何よりもウクライナやカザフスタンに残された核兵器の管理について、ソビエト継承国家による管理体制をまとめ上げる国際的な合意を取り交わすこと。
これがソビエト連邦の歴史に対する最後の精算であった。
――ジュネーブ、国連欧州本部地下会議室。
1991年12月18日、午後11時。
本会議とは別の実務者たち――G7各国の事務方トップ、『シェルパ』と呼ばれる影の世界指導者たちとの会議は、七時間目に入っていた。
ヴィクトルの喉は渇ききっていたが、テーブルに並んだミネラルウォーターのボトルには手を伸ばさなかった。
水を飲めば相手は「疲れている」と判断する。疲労は弱さだ。
彼は背筋を伸ばしたまま目の前の五人を見渡した。
アメリカ国務次官、ロバート・フィッシャー。
ドイツ首相府官房長、クラウス・ヴェーバー。
フランス大統領外交顧問、ジャン・デュポン。
イギリス財務省事務次官、デイヴィッド・ハミルトン。
そして日本外務審議官、田中誠一。
五つの顔。五つの国益。
そして一つの共通した敵意。
「ペトロフ氏」
フィッシャーが分厚いファイルをテーブルに置いた。乾いた音が響く。
「IMFの専門家チームが精査した結果です。あなたの国の提案する『段階的市場移行』は、率直に申し上げて時代遅れです。ポーランドが成功したショック療法こそが――」
「ポーランドは失敗しましたが」
ヴィクトルは通訳を待たずに鋭い英語で遮った。
フィッシャーの眉が動く。
「GDPは18%縮小し、失業率は16%に達しました。成功とは呼べないでしょう」
「しかし市場経済への移行は――」
「飢えた人間に市場経済など関係ありません」
部屋の温度が下がった。
ヴィクトルの一切の遠慮がない英語がまるで冷たいナイフのように突き刺さる。
ヴェーバーがゆっくりとコーヒーカップを置いた。
「ペトロフ氏。我々は慈善事業をしているのではない。経済支援には構造改革が前提です。それが、西側が提供できる条件だ」
「ではお聞きします」
ヴィクトルは自分の前に広げた書類の一枚を取り上げた。
それはドイツ連邦銀行の報告書だった。
「ドイツは東ドイツ統合に年間1500億マルクを投じています。その多くが旧東ドイツ企業の段階的な再建に使われている。なぜ我々には同じ『段階的アプローチ』が許されないのですか」
ヴェーバーの顔が硬直した。
「それは、全く異なる――」
「どう異なるのです? 計画経済から市場経済への移行という点で同じではありませんか」
デュポンが細い指で机を叩いた。
「問題は規模だ、ペトロフ氏。あなたの国は東ドイツの10倍の人口を抱えている。我々にそれだけの支援能力はない」
「ならば」
ヴィクトルは全員を見渡した。
「なぜここにいるのですか」
その問いに誰も即答できなかった。
時計の秒針が部屋の静寂を刻む。
ヴィクトルは五人の顔を値踏みするように観察した。
フィッシャーの傲慢、ヴェーバーの頑なさ、デュポンの計算高さ。
ハミルトンはやや柔軟か。だが突破口があるとしたら…彼だ。
日本の田中。
彼の目には他の四人にはない純粋な『困惑』の色がある。
傲慢な西側指導者ではなく、巨大で予測不能な隣国の扱いに苦慮する実務家の顔だ。
ここを突く。そのとき田中が初めて口を開いた。
「ペトロフさん」
日本語が通訳を介して届く。
その声は他の四人とは違う響きを持っていた。
「我が国は貴国に12億ドルの支援を検討しています。しかし国内世論が厳しい。なぜロシアを助けるのか、と」
「それは承知しています」
「ならば理解してください。我々も国民に説明責任がある。『ロシアは変わる』と示さなければ支援は通らない」
田中の言葉には他の四人のような傲慢さがなかった。
ただ率直な困難の共有があった。
ヴィクトルはわずかに姿勢を変えた。
「田中さん。一つ質問してもよろしいですか」
「どうぞ」
「日本は戦後の復興をどのくらいの期間で達成されましたか」
田中はかすかに口ごもった。
「…約20年です」
「その間、市場は完全に自由でしたか」
彼は言葉を探したのだろう。だが諦めたように言葉を紡いだ。
「いいえ。通産省が産業政策を主導し、銀行融資も政府が誘導していました」
「つまり段階的な移行だった」
「…その通りです」
フィッシャーが苛立ちを隠さずに割り込んだ。
「日本のモデルは冷戦という特殊な状況下での例外です。今は違う」
「何が違うのです」
ヴィクトルは初めて声を荒げた。
「ロシアには冷戦の廃墟から立ち上がる権利がないと?」
部屋が再び凍りつく。
その言葉を聞いた瞬間、田中誠一は戦後の焼け野原を思い出していた。
焼け落ち、飢えと寒さに包まれた帝都、子供の頃に見た荒れ果てたあの姿を。
そこから立ち上がることを許されたのは幸運だった。
では目の前の男には?彼の国には?田中は内心小さく、しかし確かに頷いた。
だが表には出せない。それは彼の立場ではなかった。彼は"米国のジュニアパートナー"である
自分の立ち位置を抜け出すことはできないのだ。
そこでハミルトンが眼鏡を外して拭き始めた。
それは緊張を和らげるための仕草だった。
「ペトロフ氏。感情論は脇に置きましょう。我々が懸念しているのは、あなたの国が改革を先延ばしにする口実としてこの『段階的移行』を使うのではないか、ということです」
「では担保を提供します」
ヴィクトルは新しい書類を取り出した。
「四半期ごとの経済指標の公開。CSCEの監査官による財政の透明性確認。そして約束した改革が履行されない場合の支援停止条項」
五人が顔を見合わせた。
「つまり…」
ヴェーバーがゆっくりと言った。
「あなたは自らの首に縄をかけると?」
「国家の再建には信頼が必要です。信頼は言葉ではなく、制度で担保されるべきです」
長い沈黙の後、デュポンが小さく笑った。
「興味深い。だがまだ足りない」
「何が足りないのです」
「核だ」
デュポンはタバコを取り出そうとして、この部屋が禁煙であることを思い出した。
彼は苛立たしげにライターをポケットに戻した。
「ウクライナの核兵器。あなたはそれを『彼らの資産だ』と言った。だが我々はそれを受け入れられない」
それは建前を超えた恐怖だった。ウクライナが参加していない今だからこそ、彼らはその権利すら引き剥がそうと試みた。
「ならば」
ヴィクトルは最後のカードを切った。
「三者協定を結びましょう。ロシア、ウクライナ、そして西側諸国による核管理の枠組みです」
「それは…」
フィッシャーが身を乗り出した。
「具体的には?」
「ウクライナは核を放棄する。その見返りに安全保障の保証を西側が提供する。そして廃棄費用を西側とロシアが分担する」
五人が再び顔を見合わせた。今度は驚きの色が混じっていた。
「つまり」
ハミルトンが慎重に確認した。
「あなたは核廃棄の費用を我々と『割り勘』にすると?」
「その通りです。我々だけではその費用を負担できません。しかし西側の支援があれば可能です」
ヴィクトルはそこで一度言葉を切った。
そしてその瞳に底冷えのする光を宿した。
「そしてこの三者協定こそが今後の欧州の安全保障の礎となります。ウクライナが非核化し、西側がその独立を保証し、ロシアがその監視役の一端を担う。つまりロシアを新たな安全保障の枠組みに『組み込む』のです。あなた方はロシアを敵として封じ込めるコストを払い続けるか、パートナーとして迎え入れ共に安定を築くコストを支払うか。選ぶのはあなた方です」
田中がメモを取り始めた。
ヴェーバーとハミルトンが小声で協議している。
フィッシャーは長い時間ヴィクトルを見つめていた。
「あなたは」
彼はゆっくりと言った。
「交渉が巧みだ。しかしこれは交渉ではない。あなたは我々に選択肢を与えていない」
「いいえ」
ヴィクトルは首を振った。
「選択肢はあります。支援するか、しないか。ただし支援しない場合に何が起きるかは、私の責任ではありません」
「脅迫ですか」
「現実です」
ヴィクトルは静かに続けた。
「私が今ここで席を立ち、交渉が決裂したとしましょう。我が国は破綻し、軍は統制を失い、飢えた兵士たちは銃を持ったまま国中にあふれるでしょう。あなた方が最も恐れている核の管理はどうなりますか?
テヘランや平壌のバイヤーがいくらで戦術核弾頭を買うか、興味はありませんか?」
ヴィクトルはそこで嫌悪をみせて吐き捨てた。それは演技であり、そして本心でもあった。
「欧州には数千万の難民が押し寄せ、あなた方の安らかな日常は終わる。
それが、あなた方が支援を拒んだ場合に訪れる『現実』です。これは脅しではない。ただの未来予測ですよ、フィッシャーさん」
時計が深夜0時を告げた。
フィッシャーはため息をついた。
そして他の四人を見渡した。
「…休憩を取ろう。15分後に再開する」
五人が立ち上がり、部屋を出ていく。
最後にドアが閉まる音。
ヴィクトルはようやく水のボトルに手を伸ばした。震える手で。
彼は勝ったのか、負けたのか。
まだ分からなかった。
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