革命の震源地、レニングラード
レニングラードは、二つの魂を持つ都市だった。
それは、レーニンの名を冠した革命の聖地。アヴローラ号の砲声が冬宮に響き、世界を揺るがしたプロレタリアートの蜂起が始まった場所。
街の隅々には、赤旗と労働者の像が、その栄光の歴史を今に伝えている。
だが同時に、その石畳の下には、もう一つの記憶が息づいていた。
大祖国戦争で九百日に及ぶ包囲を耐え抜いた英雄都市としての誇り。
そして、さらに深い層には、ピョートル大帝が西欧への憧憬を込めて築き上げた「サンクトペテルブルク」としての、壮麗で、どこか憂いを帯びた魂が。
ツァーリが定めた壮麗な帝都は、革命によってその名を消されたが、運河沿いに並ぶ壮麗な宮殿や、ネヴァ川の凍てつく風に混じる微かな潮の香りは、欧州との交わりの深さを物語っていた。
ヴィクトルは、フィンランド駅の喧騒を抜け、コートの襟を立てて街を歩き始めた。
目指すは、レニングラードのゴスプラン支部。彼の新たな職場だ。
その瞬間、彼は自分が完全なお上りさんであることに気づき、わずかな居心地の悪さを感じた。
無理もなかった。ウラルの山々に抱かれたスヴェルドロフスクは、工業では大都市であったが、文化的には中規模の地方都市に過ぎない。
彼が知っているのは、工場の煤煙と、機能性を最優先した労働者の集合住宅が並ぶ、無骨な風景だけだった。生まれてこの方、彼は地方から一度も出たことがなかったのだ。
目の前に広がるレニングラードの光景は、何もかもが違った。
建物のファサードに施された繊細な彫刻、歴史の重みを感じさせる石造りのアーチ、そして何より、行き交う人々の顔つき。
スヴェルドロフスクの人々が持つ実直さとは違う、どこか洗練され、同時に皮肉めいた知性を感じさせる都会人の表情。
彼はまるで異国に来たかのような感覚に囚われながら、地図を頼りに歩を進めた。
灰色の空の下、壮麗な建築物が並ぶ街並みは、彼に畏敬の念と、同時に場違いな疎外感を抱かせた。
この古都で、ウラルから来た無骨な官僚に、一体何ができるというのだろうか。
レニングラードのゴスプラン支部は、スヴェルドロフスクとはまるで空気が違っていた。
そこに渦巻いていたのは、複雑に絡み合った感情の混合物だった。
モスクワで始まった改革の動きを、どこか冷ややかに、「また中央のお歴々が何か始めた」と皮肉に見ている節はある。革命と戦争を生き抜いてきたこの都市ならではの、中央に対する不信感と、自らの文化的な優越性からくる誇り。
だが、それ以上にヴィクトルが感じたのは、焦燥感にも似た必死さだった。
スヴェルドロフスクの官僚たちが諦観の中で日々の嘘を積み重ねていたのとは違う。
ここの人々は、迫り来る国家の崩壊を前に、まだ何かをしようともがいていた。
会議室で交わされる議論は熱を帯び、廊下ですれ違う官僚たちの眼差しには、厳しい光が宿っている。
ここで彼は、この都市が持つもう一つの魂に触れた。
彼らは何があっても祖国を――彼らの祖父や父が、九百日の包囲戦で凍え、飢えながら、文字通り命を捧げて守り抜いたこの国を――自分たちの代で終わらせるわけにはいかないのだ。
その想いが、彼らを突き動かしていた。
配属初日、ヴィクトルは支部長代理の老官僚の部屋に呼ばれた。
白髪で、眼鏡の奥の瞳が鋭い、いかにも学者肌の男だった。
「ペトロフ君、スヴェルドロフスクでの君の評判は聞いている」
老官僚は、挨拶もそこそこに切り出した。
「だが、ここでは一度、その頭をリセットしてもらおう」
彼はそう言うと、机の上に山積みになった書類の中から、一際分厚い、何の変哲もないボール紙のファイルを取り出し、ヴィクトルの前に滑らせた。
「見ろ、この数字を」
ファイルを開くまでもなかった。表紙に貼られたグラフは、石油価格の急落と、国家歳入の絶望的な減少を示していた。
「君も知っての通り、我々の世代が築き上げたものが、わずか二十年で腐り落ちつつある。スターリンの粛清も、ドイツ軍の包囲も乗り越えた我々が、今、平和の中で自滅しようとしている。だがな、ペトロフ君、私たちは諦めるわけにはいかないんだ」
その声には、悲痛なほどの切実さが込められていた。
ヴィクトルは、促されるままにファイルを開いた。そして、息を呑んだ。
そこに綴じられていたのは、ゴスプランの統計データではなかった。
キリル文字に翻訳され、油紙で謄写された、西側の経済学者の論文。アダム・スミス、ケインズ、そしてフリードマン。
資本主義のメカニズムを冷徹に分析した、ソビエト国内では発禁処分とされているはずの資料だった。
ページの端は擦り切れ、行間には無数の書き込みがある。
これは、ここの官僚たちが何年もかけて回し読みし、議論を重ねてきた珠玉の資料集なのだ。
ヴィクトルは衝撃に打たれた。
ウラルの工業都市で、彼はたった一人、計画経済の壁と格闘してきた。
だが、この西の果ての都市では、彼と同じ問題意識を持つ者たちが、禁忌を犯してまで、敵であるはずの資本主義の中に答えを探し求めていたのだ。
彼は自分が孤独ではないことを知った。
そして同時に、自分が足を踏み入れた場所が、単なる左遷先ではなく、この国で最も危険で、最も未来に近い思想が渦巻く、革命の新たな震源地であることを悟った。
ヴィクトルは、指先が微かに震えるのを感じた。
目の前のファイルに収められた、禁断の知識の奔流。それはまさしくカルチャーショックだった。
自分が今まで必死に積み上げてきた計画経済の常識が、足元から崩れ去っていくような感覚。
だが、彼はその衝撃に飲み込まれる寸前で、ぐっと奥歯を噛み締めた。
(落ち着け。飲み込まれるな)
彼は心の中で自らに強く命じた。
(お前はソビエトの人間だ。人民への奉仕という、その原点を決して忘れるな)
西側の思想に焦がれ、その目新しさに狂ってしまえば、それはかつてマルクスの言葉を金科玉条とし、現実を無視して思想の純化へと突き進んだオールド・ボリシェビキの先達たちと何も変わらない。
思想のための国家ではない。人民の生活のための国家なのだ。
道具は道具として使いこなし、決して目的と履き違えてはならない。
ヴィクトルが顔を上げると、老官僚は彼の葛藤を見透かしたかのように、静かに頷いた。
「驚いたかね。だが、君のその慎重な眼差し、気に入ったよ」
彼は、まるで教師が生徒に語りかけるように、穏やかな口調で続けた。
「我々は西側になりたいわけではない。あれはあれで、多くの問題を抱えている。だがな、ペトロフ君、彼らがなぜ我々より豊かになったのか、その仕組みを知らずして、我々が彼らに勝つことなどできんのだ」
老官僚は、自らのこめかみを指でとんとんと叩いた。
「柔らかい発想が必要なのだ。頭をひねり、使えるものは何でも使え。そして、我々の現実に合わせて、その適用を広げろ。ただの猿真似では意味がない」
その言葉は、ヴィクトルが抱いた懸念への、完璧な答えだった。
彼らは西側の思想に心酔しているのではない。それを解剖し、分析し、ソビエトという患者を救うための手術道具として使おうとしているのだ。
「いいか、ペトロフ君」
老官僚は、その鋭い瞳でヴィクトルを射抜いた。
「党の連中が何を言おうと、イデオロギーがどうだろうと、関係ない。我々の仕事は一つだ」
彼は立ち上がり、窓の外に広がる革命の都を見やった。
「凝り固まったこの国を、我々の手で救うんだ。我々官僚は、そのためにこそ存在する」
その言葉に、ヴィクトルはもはや何の迷いも感じなかった。
スヴェルドロフスクの無骨な実務家と、レニングラードの老練な知識人。
生まれも育ちも違う二人の官僚が、国家を救うというただ一つの目的のもと、静かに、しかし固く手を結んだ瞬間だった。
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