再建への道筋
会議の合間、雪が舞うモスクワの片隅で、ヴィクトルは一人の女性と密会していた。アルドナ・カヴァラウスカイト。全ての公職を追われ、今は彼の私的な法律顧問という奇妙な立場にある、かつての敵。
場所は、モスクワ大学に近い古いカフェだった。亡命貴族の屋敷を改装したその店は、西側の人間が時折利用する以外、今のモスクワの喧騒からは切り離されたように静かだった。GRUの護衛は、雪の中に立つ街灯のように、店の外に気配を消している。
「軍の規模で西側と張り合おうとすること自体が、時代遅れなのです」
アルドナは、熱い紅茶の湯気を見つめながら、静かに言った。その声は、ヘルシンキで対峙した時のような鋭さはなく、ただ淡々と事実を述べる学者のようだった。ヴィクトルは、ヤトフとエリツォンを前にした、あの息詰まるような議論の膠着状態を、簡潔に彼女に説明していた。
「あなた方が今、必死で守ろうとしているその軍隊は、西側から見れば『計算不能な脅威』でしかありません。そして彼らが最も恐れているのは、軍の数そのものではない。その『不透明性』です。次に何をするか分からない、制御不能な巨人が国境の向こうにいる。その恐怖が、彼らを警戒させ、財布の紐を固くさせるのです」
ヴィクトルは黙って聞いていた。彼女の言葉は、クレムリンの会議室で交わされる権力とメンツの議論とは、全く違う次元にあった。それは、ロシアの外から、ロシアがどのように見えているかという、冷たい客観性に基づいていた。
「彼らが本当に欲しているのは、軍事的な譲歩ではありません。予測可能性と、対話のチャンネルです」
アルドナは、カップを置き、ヴィクトルの目をまっすぐに見つめた。
「つまり、こういうことです。バルト方面軍を維持したいのなら、すればいい。その代わり、その活動の透明性を国際社会に保証し、査察を受け入れる。OSCE(欧州安全保障協力機構)の枠組みを利用して、『我々の軍は、もはや侵略のためのものではなく、自国防衛と地域の安定のためだけに存在する』と、行動で証明するのです」
その瞬間、ヴィクトルの頭の中で、固く絡み合っていた知恵の輪が、音を立てて解けていくのが分かった。 それは、まさに目から鱗の逆転の発想だった。軍縮という“引き算”で譲歩するのではなく、信頼醸成という“足し算”で相手の懸念を払拭する。安全保障と経済支援。二律背反だと思われていた問題を、外交という一つのテーブルの上で両立させる。
「軍事的な譲歩ではない」
ヴィクトルは、アルドナの言葉を反芻するように呟いた。
「西側が最も欲しがる『安心』という名のカードをこちらから提示し、その見返りに経済支援という実利を引き出す…」
「ええ」
アルドナは頷いた。
「それは、対等な国家間の取引です。ロシアは、もはや軍事力だけで虚勢を張る帝国ではない。法と条約に基づいた、理性的なパートナーなのだと、世界に示すのです。その『信頼』こそが、今のあなた方が外貨よりも先に獲得すべき、最も重要な資産です」
アルドナという西側の論理を翻訳する水路を得て、ヴィクトルは自らの戦略の誤りを悟った。ヤトフやエリツォンを、国内の論理だけで説得しようとしていた。だが、彼らに提示すべきだったのは、内向きの妥協案ではなく、世界というより大きな舞台でロシアが生き残るための、全く新しいゲームのルールだったのだ。
「…感謝します、アルドナ・ヴァレリエヴナ」
ヴィクトルは、静かに頭を下げた。その言葉には、何の計算も含まれていなかった。
「あなたの知恵が、我々の道を照らしてくれた」
カフェを出ると、雪はさらに強くなっていた。ヴィクトルは、降りしきる雪の向こうにあるクレムリンの尖塔を見据えた。彼の足取りには、ここへ来る時にはなかった確信がみなぎっていた。
彼はこれから、会議室の男たちに新たな提案を突きつける。軍は維持する。だが、その運用を国際ルールに乗せる。これは譲歩ではない。西側を手玉に取り、実利を得るための、高度な外交戦略なのだ、と。
ヤトフは、軍の実体を守れるその論理を受け入れるだろう。エリツォンは、西側と対等に渡り合う『強いロシア』という、その新たな物語に熱狂するはずだ。
かくして、新生ロシアは最も困難な課題であった軍縮に、細く、しかし確かな道筋を見出した。 だが、それは同時に、次なる戦いの始まりを意味していた。西側諸国という、新たな交渉相手との、より狡猾で、より巨大な利権が渦巻くゲームの幕開けだった。ヴィクトルの描く国家再建の青写真は、まだその第一章が書き始められたに過ぎない。
クレムリンの会議室に戻ったヴィクトルの顔には、もはや膠着状態に陥った交渉人の疲労はなかった。彼の瞳には、新たな地図を描き終えた設計者の、静かな確信が宿っていた。彼は、エリツォンとヤトフに向き直り、一枚の白紙をテーブルの中央に置いた。
「ボリス・ニコラエヴィチ、元帥閣下。先ほどの議論の前提を、一度覆させていただきたい」
ヴィクトルは、アルドナから得た知恵を、彼らが理解できる”言語”へと翻訳し、語り始めた。
「我々の目的は、軍を単に『縮小』することではありません。軍を『変革』するのです。そして、その変革自体を、西側から経済支援を引き出すための、最強の外交カードとして利用するのです」
彼は、ヤトフに向き直った。
「元帥。あなたの懸念は、兵士たちの未来と、西側への抑止力。それは正しい。ならば、兵士たちを解雇するのではなく、彼らに新たな任務を与えましょう。『祖国再建』という任務を。彼らは軍籍を維持したまま、規律ある労働力として、停止した民生工場へと派遣されるのです。我々は、百万の失業者と暴徒を生み出す代わりに、百万の国家建設の担い手を得る」
次に、エリツォンへと視線を移す。
「そしてボリス・ニコラエヴィチ。我々はこれを『軍縮』とは呼びません。『国家再建プログラム』と呼びます。強い軍隊を、今度は強い経済のために役立てる。これは国民の目には、ロシアの弱体化ではなく、新たな時代の始まりとして、力強く映るでしょう」
ヤトフの眉が動き、エリツォンの目が輝いた。ヴィクトルは、彼らの心が動いたのを確信し、最後の駒を進めた。
「バルト方面軍は維持します。ただし、その活動規模と内容は、OSCEの査察団に完全に公開する。我々が侵略の意図なきことを証明し、その『誠意』の見返りとして、西側から経済支援を引き出す。これは譲歩ではない。信頼を武器に、実利を得るための高度な外交です」
こうして、縮小の絵図は引かれた。
新生ロシアが正式に引き継ぐのは、撤退が始まる旧東ドイツ駐留軍、規模を維持するバルト方面軍、そして中央ロシア方面に点在する基幹部隊。それが、ソビエト連邦軍という巨大な遺産の、ロシアが相続する分だった。
だが、装備と人員の戸籍を引き継いだとしても、即応可能な実戦配備部隊は、国防に最低限必要な規模まで限界まで圧縮される。それでも、総人員の規模は80万を超える。人口1億4700万の新生ロシア共和国には、あまりにも過大な、財政を圧迫する存在だ。だが、である。
紙の上の人員を維持することと、彼らを軍事費で養うことは別の話だった。建前としての軍と、その労働力を民生工場へ派遣し、国家再建の歯車として組み込むことは両立する。 なにより、これはヴィクトルとアレクサンドロフが描く、市場経済の段階的な導入、その壮大な社会実験の模範プログラムとなるはずだった。国家の規律の下で、元兵士たちに新たな技術を習得させ、民間経済へと軟着陸させるための、巨大な移行措置。それを使うしかないのだ。
数日後、アレクサンドロフの執務室で、ヴィクトルは圧縮され、書き直された国家予算案を眺めていた。軍事費という名の巨大な癌は切除され、新たな”国家再建費”という項目に姿を変えていた。その額は、決して小さくはない。だが、生産活動に繋がるそれは、もはや単なる消費ではなかった。
二人は、最終的な収支の数字を見つめた。それは、ルーブルの信認をかろうじて保ち、ハイパーインフレという最悪の悪夢を回避できる程度には、妥当な数字だった。 死の淵にあった国家は、ひとまず止血を終えた。だが、痩せ衰えた患者の長いリハビリは、まだ始まったばかりだった。
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