何を残すのか
1991年12月。ソビエト連邦の死亡診断書が書かれるのを待つモスクワは、静かな死の淵にいた。
ヴィクトルが各共和国に突きつけた冷徹な『離婚協定』は、国家解体の道筋を決定づけた。だが、クレムリンの一室、彼とレニングラードから呼び寄せた師・アレクサンドロフが向き合う執務室の空気は、勝利とは程遠い絶望に満ちていた。歴史を動かしたという高揚感など、どこにもない。あるのは、巨大な死体の後始末を前にした、葬儀屋の疲労だけだった。
「これを見ろ、ペトロフ君」
アレクサンドロフが広げた最新の国家財政報告書――それはロシア自身の”勘定書”だった。そこに並んだ数字は、もはや警告ではなく、断末魔の叫びそのものだった。西側との交渉で得たわずかな時間稼ぎも、日に日に溶けていく雪のように消えていく。外貨準備高は、数週間で完全に底を突き、国家は文字通り破産する。
「ソビエトの税収は事実上、存在しない。各共和国は中央への納付を停止した。ルーブルを刷れば、我々はジンバブエの後を追うことになる」
老官僚は、乾いた声で言った。
「そして、歳出の半分以上が、今も一つのブラックホールに吸い込まれ続けている」
その視線の先にあるのは、国防省の予算報告書だった。
「出血を止める。それが最優先だ」
アレクサンドロフの言葉を受け、ヴィクトルは国家再建のための最高会議を関係者へ打診した。それは公式な記録には残らない、新生ロシアの運命を決定づける密議だった。
クレムリンの奥深く、かつて政治局員がソ連邦の方針を決めた重厚な会議室。そこに集まったのは、四人の男。政治の象徴として、クーデターを未遂として防いだ英雄として国民的人気を誇るボリス・エリツォン。軍の尊厳と数百万の将兵の未来をその両肩に背負う最後の元帥、ドミトリー・ヤトフ。レニングラードの知性、経済再建の設計図を描くセミョーン・アレクサンドロフ。そして、その全てを非情なまでのリアリズムで束ねる、顔のない官僚ヴィクトル・ペトロフ。
エリツォンは、不機嫌そうにテーブルを指で叩いていた。彼の望みは、偉大なロシアの輝かしい船出だった。破産報告を聞かされるためではない。
「それで、どうするんだ、ヴィクトル」
エリツォンは、苛立ちを隠さずに言った。
「金がないのは分かった。だが、我々は国を救った英雄だ。国民に、いきなりパンを半分にしろとは言えんぞ」
「パンではありません、ボリス・ニコラエヴィチ」
ヴィクトルは静かに答えた。
「削るのは、軍備です」
会議の議題は一つ――ソビエト連邦軍の解体。国家歳出の半分以上を飲み込み、もはや維持不可能なこの巨象を、いかにして手懐け、あるいは屠るか。
ヴィクトルは立ち上がり、まるで企業の再建計画を発表するコンサルタントのように、淡々と説明を始めた。ソ連軍の兵力をまず半分に削減する。ウクライナや中央アジアなど、独立する共和国に駐留する部隊を、その地の『負債』として法的に切り離す。そして、残った新生ロシア軍として引き継いだ兵力を、さらにその半分にまで削減する。それは、外科手術にも等しい、痛みを伴う大胆な軍縮案だった。
その言葉を聞いた瞬間、それまで黙って腕を組んでいたヤトフが、ゆっくりと顔を上げた。その目は、長年戦場で見てきたであろう死の光景よりも、さらに冷たい光を宿していた。
「正気かね、ペトロフ君」
ヤトフの声は静かだったが、部屋の空気を震わせた。
「君の提案は、軍の解体ではない。国家の後退だ。自ら武装を解除し、喉元を西側に見せてやれと言っているに等しい」
「元帥、これは観念論ではありません。数字の問題です」
ヴィクトルは一歩も引かなかった。
「今この瞬間も、動かない戦車のために燃料が消費され、任務のない兵士のために給料が支払われている。その金で、我々はパンと、越冬のための薬を買わねばならないのです」
激しい視線が交錯する。その緊張を破ったのは、ヤトフのため息だった。彼は、ただの頑迷な軍人ではなかった。キューバ危機を乗り越えた、冷徹な現実主義者でもあった。彼は、ヴィクトルの数字が正しいことを、誰よりも理解していた。
「…よかろう」
老元帥は、苦渋に満ちた表情で、重い口を開いた。
「譲歩しよう。南西方面軍(ウクライナ駐留軍)を法的に切り離し、中央アジアの部隊は現地の共和国に適宜委譲することには同意する。もはや彼らは、我々の声を聞かぬだろう。断腸の思いだが、やむを得ん」
それは、ヤトフにとって最大の譲歩だった。だが、彼は続けた。その声には、決して曲げられない鋼の意志が込められていた。
「だが、バルト方面軍だけは維持せねばならん」
ヤトフは苦渋に満ちた声で言った。
「君がリトアニア側と同意した以上、あの方面軍を撤退まで維持するのは”ロシア“の義務だ。ソビエトではない。君が行ったウクライナでの悪辣な手口、あれは使えない」
なにより、とヤトフは鋭い目線を向ける。
「我々は西側に対する全ての緩衝地帯を失い、飛び地であるカリーニングラードは完全に孤立する。情勢が、本当にコントロール不能になるぞ」
それは軍人の意地ではなく、地政学的な現実だった。NATOがこの混乱に乗じて東方へ拡大しないという保証はどこにもない。ヤトフの主張に、エリツォンは大きく頷いた。
「元帥の言う通りだ、ヴィクトル。国民に『弱体化したロシア』を見せるわけにはいかん。軍は、我々の誇りなんだ」
会議は完全に暗礁に乗り上げた。軍縮なくして財政再建はなく、財政再建なくして国家の未来はない。だが、その軍縮が新たな安全保障の危機を招き、政治的な支持を失わせる。八方塞がりの状況に、ヴィクトルは唇を噛んだ。真正面からの正論だけでは、この壁は崩せない。 彼は静かに立ち上がり、三人の顔を見渡した。
「…一度、休憩としましょう。それぞれ、頭を冷やす時間が必要です」
その言葉は、敗北宣言にも似ていた。だが、彼の頭脳は、諦めてはいなかった。別の道、別の論理、別の武器を探し、猛烈な速さで回転を始めていた。クレムリンの論理が通用しないのなら、外の論理を持ち込むしかない。
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