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それは誰のためか

数時間後、会議は完全な停滞に陥っていた。午後の陽光が大きな窓から差し込み、部屋に舞う埃を金色に照らし出す。その光の中で、倦怠感だけが濃密に満ちていた。


だが、その澱んだ空気の中、ヴィクトルだけはただ一人、アルドナ・カヴァラウスカイトを見ていた。


彼女は、この現実を受け入れられるか。大使でもない、法的な裏付けもまだ曖昧な、一民間運動から生まれた代表者が。自分たちに都合のいい、被害者としての絶対的な物語を手放し、ソビエトという共同体の一員として、その功罪も全て引き受けた上でロシアと向き合い、この半世紀という日々をどう総括するのか。その覚悟を、決められるかを。


ラトビア代表の、もはや誰の心にも響かない空虚な言葉が、議場を空転していた。その、意味のない響きの最中だった。


アルドナが、すっと立ち上がった。


その静かな動作が、まるで号砲のように、淀んだ空気を切り裂いた。ラトビア代表の言葉が途切れ、エストニア代表が驚いたように彼女を見る。


「ペトロフ特使」


その声は、震えていなかった。彼女は、ヴィクトルをまっすぐに見つめていた。 ヴィクトルもまた、ただ静かに、彼女の次の言葉を待った。


「リトアニアは…」


彼女は一度、強く唇を結んだ。その一瞬に、彼女が何を捨て、何を選ぼうとしているのか、その全ての葛藤が凝縮されているようだった。


「リトアニア共和国は、ソビエト連邦離脱法に基づき、ソビエト連邦政府との公式な離脱交渉の席に着くことを、ここに要求します。ミハイル・ゴルバノフ書記長との、直接交渉の場を設けていただきたい」


その宣言は、共同戦線を張っていた仲間に対する、事実上の訣別通告だった。


「アルドナ!君は、何を言っているんだ!」


ラトビア代表が、裏切られたという表情で叫んだ。


「我々の独立回復宣言を、自ら否定する気か!」


アルドナは、激昂する仲間を、哀しみの色を浮かべた瞳で振り返った。


「我々には、もう時間がないのです」


その声は、静かだったが、議場にいる全ての者の耳に届いた。


「そして、国家の未来は、感傷では築けません。兵士たちは飢え、経済は崩壊寸前です。我々が今掴むべきは、過去の名誉ではなく、明日のパンです」


それは、ヴィクトルが彼女に突きつけた、冷たい現実の言葉そのものだった。 ヴィクトルは、そのやり取りを、表情一つ変えずに見ていた。彼は、勝利の笑みも、安堵のため息も漏らさない。ただ、事実を確認するように、静かに、そして事務的に告げた。


「承知いたしました。リトアニア代表の、賢明なご判断に敬意を表します」


彼は立ち上がり、アルドナに向かってわずかに頭を下げた。


「早速、モスクワとの調整に入りましょう。エストニア、ラトビア両国の代表におかれましても、このリトアニアの決断を踏まえ、再度ご検討いただければと存じます」


その言葉は、最後通牒だった。リトアニアが抜けた今、あなた方が単独で我々と対峙できるのか、と。

ヘルシンキでの交渉は、終わった。 バルト三国の結束は崩れ、主導権は完全にロシアの手に渡った。ヴィクトルは、自国の歴史と名誉を取引材料に差し出した一人の女性指導者の、その痛ましいほどの決断によって、この不毛な戦いに終止符を打ったのだ。



別れの握手は、やはりなかった。


ラトビアとエストニアの代表が、侮蔑と怒りを露わに肩を怒らせて去って行く中、ヴィクトルはオブザーバーとして立ち会っていたアメリカ合衆国の外交官と、事務的な後処理について言葉を交わしていた。感情を排し、あくまで国際法と手続き論の観点から話を進めてくれるこの男との会話は、ある意味で気が楽だった。


しばらくして、外交官も立ち去った後、静まり返った広い会議室には、ヴィクトルとアルドナの二人だけが残された。ヴィクトルは、後片付けをするスタッフに目配せして下がらせると、ぽつりと囁いた。


「あなたの、お立場が…悪くなるでしょうな」


リトアニア一国だけがロシア(ソ連)に屈した、と見なされるだろう。仲間を裏切り、国家の誇りを売り渡した指導者として、彼女は内外から激しい非難に晒されることになる。 アルドナは、窓の外に広がるヘルシンキの灰色の空を見つめながら、かすかに、諦めたように微笑んだ。


「それを理解した上で、私にご提案なさったのでは?」


その言葉には、静かな棘があった。あなたは、私がこの茨の道を選ぶことを見越して、この罠を仕掛けたのでしょう、と。 ヴィクトルは、その問いには答えなかった。代わりに、彼の口から漏れたのは、かすかに、そして紛れもなく苦い響きを帯びた、意外な言葉だった。


「…聞いて、いただけますか。戯言に聞こえるかもしれませんが」


ヴィクトルは、椅子に座り直した。目の前には、誰もいなくなった会談用の巨大なテーブルが広がっている。その純白のテーブルクロスに、彼はそっと手を置いた。そして、指先で布地を寄せ、小さなしわを作る。彼の心の波が形になったかのように、その純白はかすかに歪んだ。


「私たちは、…いや、違うな。私は、あなたがこの提案をのめるとは、思っていなかった」


その告白に、アルドナはわずかに目を見開いた。


「正直に言えば」


ヴィクトルは続けた。


「私は、あなたが最終的には『名誉』を選び、5年という時間のかかる、あの最初の草案を受け入れるものと踏んでいました。なぜなら、その方が…あなた個人にとっては、はるかに『楽な』道だったはずだからです。国民には最後まで抵抗した英雄として映り、貴国の歴史書にもそう記録されたでしょう」


彼は顔を上げ、アルドナの瞳をまっすぐに見た。


「ですが、あなたは最も困難な道を選んだ。仲間から裏切り者と罵られ、国民からは国の誇りを売り渡したと非難されるかもしれない道を。なぜです?そこまでして守るべき『実利』とは、一体何だったのですか」


それは、交渉相手としてではなく、同じく国家の重責を背負う同業者としての、純粋な問いかけだった。 アルドナは、彼の問いから逃げるように、一度視線を伏せた。だが、再び顔を上げた時、その瞳には揺るぎない光が宿っていた。


「英雄になど、なりたくてなったわけではありません」


彼女は静かに言った。


「私はただ、私の国がこれ以上血を流し、国民が、この冬を越せずに飢えるのを見たくなかった。ただ、それだけです」


彼女は、テーブルの上の、あの草案に目を落とした。


「あなたは、私に二つの選択肢を与えたと言った。ですが、あれは選択肢ではなかった。私の国が生き残る道は、初めから一つしか残されていなかった。あなたは、それを知っていたはずです」


そして、彼女はふっと息をついた。


「そして…昨夜、あなたの瞳にも、私と同じ苦悩の色が見えたからかもしれません」


その言葉に、ヴィクトルは何も答えられなかった。 長い沈黙の後、彼はゆっくりと立ち上がった。そして、ヘルシンキに来てから初めて、自らの意思で、彼女に向かって右手を差し出した。


「アルドナ・カヴァラウスカイト代表」


その声には、もはや交渉官としての冷たさはなかった。


「あなたの勇気に、一人の人間として、敬意を表します。モスクワでの交渉は、誠意をもって対応させていただくことを、お約束します」


アルドナは一瞬ためらった。だが、やがて意を決したように、その手を固く握り返した。 その握手は、和解ではなかった。 それは、これから始まる、より困難で、しかし初めて現実の上に立った交渉の始まりを告げる、二人の孤独な指導者の間の、静かな契約の印だった。



歴史は、静かに、しかし後戻りのできない音を立てて転換しつつあった。


リトアニア代表アルドナ・カヴァラウスカイトによる衝撃的な交渉要求を受け、モスクワの動きは驚くほど迅速だった。ヴィクトルが描いた筋書き通り、ボリス・エリツォンは「バルトの同胞たちの賢明な判断を歓迎する」とテレビカメラの前で満面の笑みを浮かべた。


ヤトフ元帥を中心とする軍部も、この決定を支持する声明を発表。そして、もはや魂が抜けた人形と化していたゴルバノフ書記長を交渉の席に着かせ、”ソビエト連邦”として実務的な離脱交渉を行うための第二次ヘルシンキ会議の開催を、矢継ぎ早に提案した。 それは、リトアニア側がアルドナという一個人の発言を覆し、再び混乱に舞い戻る前に、全てを既成事実化するための、計算され尽くした政治的な電撃戦だった。


その報を受け、リトアニアは荒れに荒れた。


首都ヴィリニュスでは、アルドナを『モスクワに魂を売った裏切り者』と罵る大規模な抗議デモが発生。ラトビアとエストニアは、共同で「リトアニアの独断的な行動は、バルト三国の結束を裏切るものであり、断じて容認できない」とする、激烈な抗議声明を発表した。


だが、もはや誰にも、この流れを止めることはできなかった。


ヘルシンキでの彼女の発言は、彼女に全権を預けたはずの独立政府自身の決定であり、何よりも、その場に立ち会っていたアメリカ合衆国によって、公式な議事録として記録されていた。 ただでさえその存立基盤が危うく、国際社会のごく一部からしか国家承認を得られていない自称”国家”が、一度公にした国際的な約束を覆すことなど不可能だった。それは、政治的な自殺行為に等しい。


数日後、リトアニア独立政府は、深い沈黙の末に、アルドナの発言を公式に追認した。そして、その日の夕刊の片隅に、彼女が全ての政府役職を辞任した、とだけ静かに発表した。国を救うための決断を下した英雄は、その代償として、全てを失ったのだ。



モスクワ、ゴスプラン本部の薄暗い執務室。

ヴィクトルは、海外通信社が配信したその短い電文を、ただ無表情に読んでいた。無地の紙に、インクが滲んだ、何の変哲もない紙切れ。だが、そこには一人の人間の政治生命の終わりが、冷たく刻まれている。 彼は、その紙を静かに机に置くと、ゆっくりと目を閉じた。 彼の脳裏に、ヘルシンキの凍てつく風の中で、静かに彼を見つめていた彼女の瞳が蘇る。


(これもまた、勘定書の一部だ)


彼は、心の中で静かに呟いた。彼女の犠牲もまた、ソビエト連邦という巨大な国家を解体し、ロシアという新たな国を生かすための、避けられないコストの一つに過ぎない。彼は彼女の勇気に敬意を払った。だが、彼女を救うことはしない。それは彼の仕事ではなかった。


長い沈黙の後、彼はゆっくりと目を開けた。その瞳には、もはや感傷の色はひとかけらも残っていなかった。 彼は、執務室の隅で控えていた腹心のチェルノフに、静かに声をかけた。


「ラトビアとエストニアの経済状況に関する、最新の報告を」


その声は、冬のフィンランド湾のように、冷え切っていた。チェルノフは気圧された。上司が、ここまで怒っているのは、初めて見たのだ。


「彼らが、我々のテーブルに泣きついてくるまで、あとどれくらいの時間が残されているか。正確な数字が知りたい」

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