ソ連邦離脱法
「…ご一緒しても?」
彼女は、ヴィクトルの許可を待たずに、向かいの椅子に腰を下ろした。その顔には、交渉の場で見せたような敵意はなく、深い疲労と、そして指導者としての苦悩が色濃く浮かんでいた。
「非公式な話として、お聞きします」
彼女は、テーブルの上で両手の指を組みながら、単刀直入に切り出した。
「あなたの、本当の要求は何ですか。謝罪でも、賠償でもないのなら。あなたは何を我々に求め、そして何を我々に与えるつもりなのですか」
それは、敗北宣言にも似た問いかけだった。公式の場では、他の二人の手前、決して口にできない言葉。このままでは、何も得られずに時間だけが過ぎていくことを、彼女は誰よりも理解していた。
ヴィクトルは、スプーンを静かに皿に置いた。待っていた魚が、ようやく針にかかった。
「要求、ですか」
彼は、穏やかに問い返した。
「それは、あなたの個人的なご意見として? それとも、三国を代表しての発言ですかな?」
「…私個人の、問いです」
アルドナは、悔しそうに唇を噛んだ。
「よろしいでしょう」
ヴィクトルは、鞄から一枚の紙を取り出した。何の変哲もない、無機質な紙に印刷された書類。
「これは、ロシア共和国の公式見解ではない。あくまで、私個人の思考実験としてお聞きいただきたい」
彼は、その紙をテーブルの上に滑らせた。アルドナが訝しげに目を落とす。そこに記されていたのは、箇条書きのリストだった。
主題:バルト地域におけるソビエト連邦軍の段階的撤退に関する合意草案(私案)
前提条件: 三国における全住民(民族的出自を問わない)の市民権、財産権、言語使用の権利を保障する国内法の、OSCE(欧州安全保障協力機構)の監視下における制定。
撤退期間: 上記前提条件の完了確認後、5年をかけて駐留軍の完全撤退を完了する。
費用負担: 撤退に伴う兵員の輸送、施設の解体費用は、ロシア側が負担する。ただし、撤退後に三国へ譲渡される軍関連施設(港湾、飛行場、兵舎等)の資産価値を算定し、費用の一部と相殺する。
特別事項: カリーニングラード州への、リトアニア領土を通過する人道・経済目的の陸路交通権を保障する。
アルドナは、その一行一行を、息を詰めて読んだ。
それは、ロシア側の要求をほぼ全面的に盛り込んだ、あまりにも一方的な内容だった。だが、同時に、それは彼女が初めて目にする、具体的な『出口』でもあった。交渉のテーブルにすら乗らなかった軍の撤退が、そこには確かに記されていたのだ。
「これを…」
彼女は、かすれた声で言った。
「これを飲めと?」
「いいえ」
ヴィクトルは、静かに首を振った。
「これは、あなた方が他の二人の代表を説得するための『弾丸』です。このまま不毛な言い争いを続けて、冬を越せないほどの経済危機と、コントロールを失った数十万の駐留軍という時限爆弾を抱えたまま独立ごっこを続けるのか。それとも、屈辱的ではあっても、この現実的な取引に応じ、国家としての実利を取るのか」
彼は、冷めてしまったスープを一口すすった。
「選ぶのは、あなた方です。ですが、我々が待てる時間は、そう長くはありません」
アルドナの眉間に、深いしわが刻まれた。提示された草案は、屈辱に満ちている。だが、それは確かに具体的な未来への道筋を示していた。彼女の頭の中で、理想と現実が激しくせめぎ合っているのが、ヴィクトルには見て取れた。
彼はただ、待った。目の前の、まだ若い女性指導者が、このあまりにも重い事実を、その小さな肩に一人で背負う覚悟を決めるかどうかを。
「もし、ですが」
沈黙が重くのしかかる中、彼はそっと口を開いた。その声は、彼女の葛藤を見透かした上で、さらに深い迷宮へと誘うかのように響いた。
「これは譲歩の余地というわけではありません。ですが、あなた方には、一つだけ別の機会がある」
アルドナは、はっと顔を上げた。その瞳に、かすかな希望の色が浮かぶ。
「その書類に『5年』と書いたのは、無論、数十万の兵員と機材を動かすという実務的な理由もありますが、いくつかの…厄介な法的論点を整理する時間が必要だからです」
彼は、人差し指をそっと立てた。まるで、生徒に講義をする教授のように。
「思い出していただきたい。あなた方が独立を宣言される直前、ゴルバノフ政権下のソビエト政府が、連邦を構成する共和国の離脱に関する新しい法律を制定し、その手続きを提示したことを」
アルドナの表情が、わずかにこわばった。ソ連邦離脱法。5年間の移行期間と、国民投票を義務付けた、事実上の独立妨害法。バルト三国は、それを無視して独立を宣言したのだ。
「あの法律は、あなた方の独立を阻むためのものだった。だが、見方を変えれば、それはソビエト連邦が、あるいは"大国"が史上初めて『合法的な離婚手続き』を認めたということでもある」
ヴィクトルの声は、静かだが、蠱惑的な響きを帯びていた。
「もし、あなた方が今からでも、あの手続きのテーブルに戻り、形骸化したソビエト政府を相手に再交渉し、『正規の手順』で離脱の承認を取り付けるというのなら…」
彼は、そこで一度言葉を切り、決定的な一言を放った。
「そうなれば、我々ロシアは、法的に完全に独立した主権国家から、その軍を撤退させることになる。もはや厄介な法的論点は存在しない。その時は、軍の早期撤退も可能になるはずです。1年、あるいは2年で」
その瞬間、アルドナの顔から血の気が引いた。
彼女は、その提案の裏に隠された、底なしの罠に気づいたのだ。
その提案を飲むということは、「我々はソ連邦の一部でした。そして、その国内法に従って、合意の上で離脱します」と、自ら宣言するに等しい。
それは、彼らが命を懸けて掲げてきた”ナチスとソ連による不法な併合からの、独立の『回復』”という、国家の根幹を成す物語そのものを、自らの手で否定する行為だった。半世紀にわたる抵抗の歴史が、ただの茶番の”離婚手続き”へと矮小化されてしまうのだ。そして、バルトの民衆が望み、代表団が要望したロシアの『不法占領』の責任は、完全に消滅する。
「"あなたたちが"考える、歴史的な名誉と、国家の正統性を取るか」
ヴィクトルは、彼女の心の動揺を正確に読み取りながら、冷酷に選択を突きつけた。
「それとも、そのプライドを捨てて、軍の早期撤退という、現実的な利益を取るか」
彼は、空になったスープ皿を静かに押しのけた。
「選ぶのは、あなたです、代表。そして、あなたの選択が、あなたの国の未来の形を、決定することになる」
【補足①】
ここまで数話に渡って描いてきた交渉の舞台裏には、史実のソ連崩壊直前の、極めて緊迫した歴史的現実が存在します。
当時、ゴルバチョフ書記長が進めた「ペレストロイカ(改革)」によって、ソ連で初めて比較的自由な選挙が行われました。バルト三国(リトアニア、ラトビア、エストニア)では、これを好機と見た独立派勢力が地滑り的な勝利を収め、各共和国の議会の多数派を合法的に占拠します。彼らは、ソ連が自ら用意した民主化のルールを使い、独立を宣言するための権力基盤を手に入れたのです。
しかし、これはゴルバチョフの想定を遥かに超える事態でした。彼が目指したのは、あくまでソ連邦という枠内での権限拡大や改革であり、決して連邦の解体ではありませんでした。そのため、バルト三国の独立宣言は、モスクワの中央政府から見れば、許されざる「憲法違反」の反乱行為と映りました。
これは主権と領土の尊重という概念として、読者諸賢にも伝わってほしいと筆者として願います。
さらに重要なのは、バルト三国が必ずしも一枚岩ではなかったという点です。
リトアニアは、国民の約8割をリトアニア人が占めており、独立運動は国民の圧倒的な支持を得た、統一された国民運動でした。
一方、ラトビアとエストニアの状況は、遥かに複雑でした。ソ連時代に移住してきたロシア系住民が人口の3〜4割を占めていたため、独立運動は常に国内の鋭い対立と隣り合わせでした。彼らにとって独立は、リトアニアのように熱狂だけで進められるものではなく、国内の反対派を説得し、時に抑えつけながら進める、薄氷を踏むような政治闘争だったのです。そして、最終的にソ連邦崩壊によって、反対派は敗北。その後数十年、今なお続く人権弾圧が発生します。
【補足②】
『ソ連邦離脱法』は、西側諸国では一般に「独立を妨害するための法」として知られています(逆に非西側では逆の見方が強い)。確かにその側面はありました。しかし、その条文を一度、先入観を排して冷静に読んでみると、奇妙なほど"理にかなっている"ことが書かれていることに気づけます。
国境の画定、共有資産の分割、そして何よりも、共和国内に残される少数民族の権利保護――これらは、一つの主権国家が平和的に分裂するために、絶対に避けて通れない議題リストそのもので、そして史実におけるソ連崩壊ではこの法は無力な存在となり果てました。その結果ご存じの通り泥沼となり、ゼロ・オプション拒否による国籍問題、『非市民』制度へと至ります。
本作ではこの法律を、不器用で、多くの罠が仕掛けられてはいたが、それでもなお「話し合って別れよう」という、論理的な離婚協議書の体裁をなしていた…と見なして書いています。
そして一つの相対事例として、知的エッセンスを。
植民地独立紛争で、西側諸国がやらかした一例です。
例えば、インドの独立に際し、定規で一本の線を引くことで100万の死者と1000万の難民を生み出し、今なお続く紛争の火種を植え付けた、という。
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