鏡の中の姿
「ふざけないでいただきたい!」
エストニア代表の怒鳴り声が、ヘルシンキの冷たい空気を震わせた。彼は思わず立ち上がり、ヴィクトルを指差した。
「ロシアが、ロシアSSRが被害者だと? 半世紀もの間、抑圧者として我々の上に君臨し、その軍靴で我々の祖国を挽き潰してきたお前たちが、よくもそんな戯言を言えたものだ!」
彼にとって、それは許しがたい冒涜だった。歴史の真実を、目の前で根こそぎねじ曲げられているに等しい。
「なにか、勘違いをされているようですが」
ヴィクトルは、その激昂を、まるで遠い国の出来事のように眺めながら、淡々と説明を始めた。
「ご存じのように、我がソビエト連邦は最高会議を含めて、15の自治共和国が、その自主的な意思で参加し、この国を維持してきました」
彼の冷めきった目が、怒りに顔を歪める三人の代表を順番に見やった。
「国家運営の責任は、ロシア人だけにあるのではありません。あなた方を含めた、15の共和国全てが、その担い手だったはずです」
いや、と彼はわざとらしく小首をかしげた。その仕草の一つ一つが、計算され尽くした侮辱であることは明らかだった。
「おっと、失礼。あなた方はすでに独立を宣言されているのでしたね。ならば、12と訂正した方がよろしいか。これは失礼をいたしました」
その言葉は、火に油を注いだ。今度はアルドナ・カヴァラウスカイトが、静かに、しかし燃えるような声で反論した。
「自主的な参加、ですって?」
彼女は法学者だった。その言葉は、感情論ではなく、冷たい事実に基づいていた。
「1939年に、ナチス・ドイツとあなたの国のスターリンが交わした秘密協定…モロトフ=リッベントロップ協定によって、我々三国の運命が売り渡されたことを、お忘れですか。我々は参加したのではない。不法に併合され、占領されたのです。これは、国際法に照らしても明白な事実です」
歴史という、動かしがたい事実。それこそが、彼らの正義の拠り所だった。だが、ヴィクトルは、その正義の刃を、ひらりとかわした。
「それは、歴史家や法学者が、今後何十年もかけて議論すればよろしいことでしょう」
彼の声には、何の感情もなかった。
「ですが、代表。その『不法行為』を行った当事者であるスターリン書記長も、当時のソビエト政府も、もはやこの世には存在しない。あなたたちの目の前にいるのは、ロシアSSRの代表者です。そして、我々が今ここで議論すべきは、過去の解釈ではなく、現在の、そして未来の現実です」
そして、ヴィクトルは、この交渉における真の爆弾を、静かにテーブルの上に乗せた。
「例えば、あなた方の共和国に、今も暮らしている、数百万人の我々の同胞についてです」
三人の代表の顔色が変わった。スターリン時代に強制的に移住させられてきた、ロシア系住民。彼らは今や、バルト三国の人口の無視できない割合を占めていた。独立後の彼らの処遇は、最も繊細で、爆発しやすい問題だった。
「あなた方が独立国家として、彼らの市民権、財産権、そして文化的な尊厳を、完全に保証すると、この場で約束していただけますか?」
ヴィクトルは、そこで一度言葉を切り、その瞳に底冷えのする光を宿した。
「もし、あなた方が『過去の清算』と称して、彼らを二級市民として扱ったり、あるいはその財産を奪うようなことがあるならば」
彼の声が、わずかに低くなった。
「我々新生ロシアは、『自国民を保護する』という、国際社会が決して否定できない大義名分を得ることになります。そうなった時、”駐留軍”が、果たして本当におとなしく撤退するのかどうか……」
それは、交渉ではなかった。剥き出しの脅迫だった。
ロシア系住民という“人質”の安全と引き換えに、過去の賠償請求を全て放棄しろ、と。さもなければ、この『撤退交渉』そのものが、新たな”介入”の口実に変わるぞ、と。
「それは軍靴による新たな脅迫だ!」
ラトビア代表が、怒りに震える声で叫んだ。エストニア代表も、固く拳を握りしめている。
「半世紀にわたる占領を、今度は『同胞の保護』という美名にすり替えて、永遠に続けるつもりか!」
「いいえ」
ヴィクトルは、静かに首を横に振った。その声は、彼らの激昂を、まるで分厚い氷の壁で遮るかのように、冷たく、平坦だった。
「国際法上、あなた方の独立を、少なくともソビエト連邦政府は、いまだ承認しておりません」
その一言が、会議室の温度をさらに数度下げた。
三人の代表は、まるで頭を殴られたかのように、言葉を失った。今、この男は、彼らが命を懸けて勝ち取ったはずの独立そのものを、根本から否定したのだ。
ヴィクトルは、そんな彼らの動揺を意にも介さず、冷徹な事実を淡々と述べ始めた。
「あなた方が一方的に独立を宣言されたことは承知しております。ですが、我々から見れば、あなた方は今なお、ソビエト連邦の法的な枠内に存在する構成共和国です。そして……」
彼は、そこで一度言葉を切り、決定的な刃を突きつけた。
「一国内の、特定の地域の住民に対し、その民族的出自を理由に権利を剥奪しようとする動きがあるならば、それを座視することはできません。それは、もはや国家間の問題ですらなく、我々が対処すべき『国内問題』ということになります」
独立派にとって、悪魔の論理だった。
彼らの独立を法的に認めないことで、ロシア系住民の問題を”内政問題”へと置き換える。そして、その”内政問題”を立て看板に、軍の駐留と介入の権利を正当化する。
アルドナ・カヴァラウスカイトは、その論理の罠に気づき、戦慄した。彼女は唇をかみしめ、かろうじて声を絞り出した。
「……我々は、独立国家だ。あなた方の国内法など、我々を縛るものではない」
「ならば、それを証明していただきたい」
ヴィクトルは、即座に切り返した。
「独立国家であるならば、その主権が及ぶ領域内の、全ての住民の人権を無差別に保障するというのが、近代国家の最低条件です。まず、あなた方三国が、ソビエト構成共和国の住民に対し、西側諸国が納得するレベルの完全な市民権と財産権を保証すると、明確に宣言してください」
彼は、まるで最後の審判を下す裁判官のように、静かに宣告した。
「その『誠意』が確認できた時、初めて我々は、あなた方を対等な交渉相手と認め、軍の撤退に関する具体的な協議を開始しましょう」
それは、完全な役割の逆転だった。
賠償を求めに来たはずの彼らが、逆に独立を承認してもらうための”踏み絵”を、突きつけられている。
そしてその踏み絵とは、彼らが最も認めたくない相手であるロシア人に対し、自分たちの手で完全な権利を与えるという、彼らにとって飲みがたく、屈辱的なものだった。
三人の代表は、もはや反論する言葉もなかった。彼らは、ヘルシンキのこの小さな会議室で、自分たちが持っているはずだった『歴史の正義』がいかに無力であるかを、そして国家間の交渉がいかに冷酷なものであるかを、その骨の髄まで思い知らされていた。
あぁ……と、ヴィクトルは心底不思議だというように、沈黙する三人の代表を眺めた。
なぜ、こんなにも簡単な理屈が分からないのか。なぜ、自らが立たされている崖っぷちの現実が見えないのか。その表情は、まるで聞き分けのない子供を見るような、純粋な困惑を装っていた。
彼は、ゆっくりと口を開いた。その声は、諭すようでありながら、刃物のような鋭さを隠している。
「貴殿らが、ラトビアとエストニアで今まさに進めようとしておられる、非先住民に対する国籍法の厳格化、公用語以外の言語使用の制限…。そういった『人権剥奪』にも等しい行為を、ソビエト連邦政府が、いえ、我々ロシアが黙って見逃すと、本気でお思いでしたか?」
その口は、つい先ほどまで自らをソビエトの被害者と語っていた口だった。だが今、彼はまるでソビエト連邦という死に体の巨人の正当な後継者であるかのように、その権威を振りかざしている。自分で被害者だと主張しながら、同時に加害者の代理人として振る舞う。その矛盾に、彼は一片の良心の呵責も感じていないようだった。
誠意ある振る舞いなど、この交渉のテーブルに持ち込む気は最初から捨てていた。
だが、ヴィクトルの瞳はどこまでも理知的だった。その行動は、決して感情的な気まぐれや、単なる意趣返しではない。彼の狙いは、極めて単純で、そして冷酷だった。
彼らに、彼らが行おうとしていることの『報い』を、自らの手で選択させること。
独立という悲願を達成した高揚感の中で、彼らがナショナリズムに身を任せ、ロシア系住民を排除するという安易な道を選んだとしよう。その先にあるのは何か。国内には、市民権を持たない数十万、数百万の『非国民』が生まれ、社会は分断される。そして、国境の向こう側では、巨大な隣人であるロシアが同胞を保護するという、決して消えることのない介入の口実を、その手に握り続けることになる。
ヴィクトルは、その地獄への扉を、彼らの目の前にそっと開いてみせたのだ。
そして、その扉をくぐるか、あるいは引き返してロシア系住民との共存という茨の道を選ぶか、その選択を、彼ら自身に委ねている。
どちらを選んでも、彼らが夢見たような輝かしい独立とは程遠い、困難な未来が待っている。
ヴィクトルは、その当然の帰結を、彼らにただ受け入れさせようとしているだけなのだ。
自らの理想のために、どれだけの現実的な代償を支払う覚悟があるのか、と。
彼は、ただ静かに、彼らの答えを待っていた。
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