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被害者の権利書

三カ国の代表者は、ヘルシンキの交渉会場であるホテルの会議室で、まるで一つの生き物のように肩を並べていた。

彼らの瞳には、長年溜め込んできた怒りと、ソビエトという巨人が崩れゆくことへの恐怖。そして、その背後から囁かれているであろう西側からの支援がもたらした、かすかな慢心が混じり合っていた。


ようやく、多少なりともグリップが効くようになってきたKGBの対外情報部門がもたらした資料は、ヴィクトルの予測を裏付けていた。

アメリカが、何らかの形で三カ国に知恵をつけた痕跡がある。モスクワがカザフスタンと結んだ”民主的選挙を強制しない”という共同声明を”約束違反”だと理屈立てし、この交渉の場でロシアからペナルティを引き出すための大義名分として使わせるつもりらしい。

つまり、交渉の枠組みそのものを壊す気はないが、可能な限り有利な条件を引き出せ、というわけだ。


ヴィクトルは、かすかな笑みを浮かべながら、彼らと相対した。


「本日はお集まりいただき、感謝いたします。私はロシア共和国より派遣されました、ヴィクトル・ペトロフです」


差し出した手は、宙を掻いた。握手は、冷たく拒絶された。


三人の中心に立つリトアニアの代表が、敵意を隠そうともせずにヴィクトルを睨みつけた。

まだ若い。三十代に入ったかどうかだろう。アルドナ・カヴァラウスカイトと名乗ったその女性は、学者か法律家だったと聞いている。

ソ連からの独立を求める民衆運動の中から生まれ、ソビエトが非合法と断じたリトアニア独立回復法に署名した、新時代の指導者の一人だった。彼女の瞳に宿る光は、理想に燃える者のそれだった。


「ペトロフ氏」


カヴァラウスカイトは、まるで汚いものでも見るかのような目でヴィクトルを見据えた。


「我々は、あなた方と握手を交わすためにここへ来たのではありません。半世紀にわたる不法な占領に対する、正当な清算を要求するために来たのです」


その声は、若さに似合わず、鋼のように硬かった。隣に座るラトビアとエストニアの、年配の男性代表も、固い表情で頷いている。


「そして、その前に一つ確認したい」


彼女は続けた。


「あなた方ロシアは、全ての共和国で民主的な選挙を実施するという、西側諸国との約束を、一方的に反故にした。その事実を、まずはお認めいただきたい。我々との交渉は、その前提から始めさせていただきます」


それは、最初からマウントを取ろうとする、計算された一撃だった。だが、ヴィクトルは動じなかった。

彼は差し出した手を静かに下ろすと、ただ穏やかに微笑んだ。


「お言葉ですが、カヴァラウスカイト代表。その『約束』とやらは、一体誰と誰が、いつ、どこで交わしたものか、私は寡聞にして存じ上げません」


彼は、わざとらしく小首をかしげた。


「私がアメリカのハリントン大使と確認したのは、『全ての当事者が合意する、誠意ある交渉を行う』という一点のみです。主権を持つべき各共和国に対し、選挙を強制することが、果たしてその『誠意ある』態度と言えるのか。私には、はなはだ疑問ですが」


ヴィクトルは、アメリカが彼らに与えた武器そのものを使い、その論理を無力化した。

カヴァラウスカイトの眉が、ぴくりと動く。


「さあ、そのような不毛な前提の話は、そこまでに致しましょう」


ヴィクトルは、まるで会議の議長であるかのように、自然に話を続けた。


「我々には時間がありません。あなた方が求める『清算』について、具体的なお話を始めませんか?。

 まず、皆様のご要望を…」


とヴィクトルは言いかけて、わざとらしく言葉を切り、にこりと微笑んだ。その表情は、これから始まるであろう激しい応酬を前にした、嵐の前の静けさのようだった。


「その前に、まず一点、明確にしておきたいことがございます」


彼の声のトーンが、わずかに変わった。親密さを装う仮面が剥がれ落ち、冷たい実務家の声になる。


「私は、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の官僚として、本日こちらへ出向いております。ソビエト社会主義共和国連邦政府の、公式な代表者ではございません」


その言葉が放たれた瞬間、部屋の空気が凍りついた。

三人の代表の目が、一斉に厳しさを増す。


この男は今、我々を対等な国家として認めていないと告げたのだ。我々は違法な分離勢力に過ぎず、ソ連邦政府が相手にする価値もない存在だと。


侮辱されたのだと、彼らは瞬時に理解した。

そして、我々を半世紀にわたって蹂躙してきたのは、紛れもなくソビエト連邦そのものだ。その中核であるロシアが、今になって「自分は関係ない」とでも言うつもりか。そんな子供だましの言い逃れで、我々が騙されるとでも思っているのか、と。


「……ふざけた、物言いだな」


ラトビアの代表が、吐き捨てるように呟いた。

カヴァラウスカイトの顔からは表情が消え、その瞳には静かな、しかしマグマのような怒りが燃え上がっていた。


彼らの脳裏に、つい数ヶ月前の悪夢が蘇る。

リトアニアが独立を回復すると宣言した後、ヴィリニュスのテレビ塔に突入し、非武装の市民に発砲し、死傷者を出したソビエト軍。その暴挙を指揮し、武力鎮圧を命じた張本人、ドミトリー・ヤトフ国防大臣。

その男が、今や『民主化の旗手』であるはずのボリス・エリツォンを公然と支持している。

その事実が、ヴィクトルの今の言葉を、耐え難いほどの欺瞞に満たしたものに変えていた。

結局、やっている人間は同じではないか。看板を掛け替えただけで、我々を支配しようとするその本質は、何も変わってはいないのだ。あまりにも、ふざけた茶番だ、と彼らは思った。


「ペトロフ氏」


カヴァラウスカイトが、静かに、しかし刃物のような鋭さで口を開いた。


「あなたのその言葉が、我々に対する最大限の侮辱であると、理解した上でおっしゃっているのですか」


「ええ、もちろん」


ヴィクトルは、即答した。その顔には、先ほどの微笑みも、冷徹さもない。ただ、深い哀しみを湛えたような、静かな表情があった。


「”ソビエトの被害者である私たち”からの侮辱的な提案を、あなた方に飲んでいただくために、私は今日ここへ来たのです」

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