雪に埋もれる善悪
カザフスタンでの一件は、静かだが確実な波紋として中央アジア諸国に広がった。
新しいロシアは、かつての帝国のように傲慢に振る舞うのではなく、過去の過ちに向き合い、理と利で話ができる相手かもしれない。
それは危険な期待でもあった。一度与えた希望は、裏切られたときに何倍もの憎悪に変わる。だが同時に、その甘い香りは、混乱の中にあった人々の心を惹きつける抗いがたい力にもなった。
ナザルベフとエリツォンによるモスクワでの会談は、その期待をさらに加速させた。
数日後、両国のテレビは、クレムリンで固く握手を交わす二人の指導者の姿を映し出す。発表された共同声明は、新時代の到来を告げるものだった。
新しい共同経済圏の構想。
そして、各国の主権を完全に認めた上で、その運営議会への代表選出には、民主的な選挙を導入することを、ロシアとカザフスタンは共に目指す、と。
だが、声明には巧みな一文が添えられていた。
「我々はこの理想を、他の共和国に強制するものではない。それは、各々の人民の自主的な意思によって決定されるべきである」と。
その日の午後、ヴィクトルの執務室の黒電話がけたたましく鳴った。相手は、アメリカ大使アーサー・ハリントンだった。
「ペトロフ君、話が違うではないか!」
珍しく感情を露わにした大使は、ヴィクトルを詰った。
「我々が交わした約束は、民主的な選挙を『全ての共和国』が行う、というものだったはずだ!」
「お言葉ですが、大使殿」
ヴィクトルは、冷静に返した。
「独立した主権国家に対し、ロシアが選挙を強制すること自体が、あなた方が最も尊重するべき民族自決の原則への、重大な内政干渉となり得ますが?」
電話の向こうで、ハリントンが息を呑む音が聞こえた。
ヴィクトルは、アメリカが掲げる理想そのものを盾にして、その抗議を完璧に押し返したのだ。
ここまでの動きは、あまりにもめまぐるしかった。だが、時計の針は、まだ1991年の10月に入ったばかりだった。
そして、モスクワに最初の雪が舞う頃、冬の到来と共に、次なる交渉が近づいていた。
バルト三国との会談。
リトアニア、ラトビア、エストニア。
彼らは、カザフスタンとは全く違う。彼らが求めるのは、対等なパートナーシップではない。
ソビエトという名の監獄からの、完全で、即時で、無条件の解放だ。
「彼らは、共同体として三カ国合同での交渉を望んでいます」
執務室で、チェルノフが最新の公電を読み上げた。
「単独では、国力で切り崩されることを警戒しているのでしょう。交渉の場所は、中立国であるフィンランドのヘルシンキを要求しています」
「当然の手だ」
ヴィクトルは、壁に貼られた巨大な地図を見つめていた。彼の視線は、バルト海に突き出た小さな三つの共和国に注がれている。
「ナザルベフは、商談に来た。だが、彼らは違う。離婚調停に来るのだ。財産分与ではなく、慰謝料と、彼らにとっての”占領軍”、ソビエト軍の即時撤退を求めてな」
チェルノフは、ごくりと喉を鳴らした。
「では、カザフスタンでのやり方は…」
「通用しない」
ヴィクトルは、断言した。
「彼らが欲しいのは、共同体での対等な席ではない。その共同体からの『出口』そのものだ。我々が提示すべきは、もはや未来への投資ではない。撤退のスケジュールと、その代償だ」
ヴィクトルは、地図上の一点を指でなぞった。ロシア本土から切り離された、カリーニングラード。
「我々の要求は三つ。駐留軍の段階的撤退の承認、カリーニングラードへの陸路交通権の保証、そして、彼らの国内に残る、我々の同胞の市民権の保護」
彼はチェルノフに向き直った。その目は、近づく冬のように冷え切っていた。
「ヘルシンキへ飛ぶぞ。そして、彼らに現実を教えてやる。離婚には、金がかかるという現実をな」
フィンランドは、複雑な歴史を持つ国だ。
ヴィクトルは、モスクワからヘルシンキへ向かうイリューシン62の窓から、眼下に広がる純白の大地を眺めながら考えていた。
彼らは、帝政ロシアという巨人に蹂躙され、その足蹴にされてきた重い過去を持つ。だが同時に、彼ら自身がその過程で周辺の弱小な民族を抑圧し、あるいは歴史の大きなうねりの中で犯した咎を、この降り積もる雪の白さの下に深く埋めてきたことも、ヴィクトルは知っていた。
帝政ロシアが革命の炎で崩壊し、近代国家としてフィンランドが奇跡的な独立を果たしてからここまで、彼らの内に秘められた強烈な熱情は、いくつかの決定的な過ちを犯した。
継続戦争における、ナチス・ドイツとの事実上の協力関係。北方サーミ人に対する同化政策。そして、大祖国戦争の混乱の中で行われた、東カレリアでの『純化運動』。
レニングラードの師、セミョーン・アレクサンドロフの家族を奪った惨劇の舞台も、その東カレリアだった。フィンランド兵が、彼の家族を殺した。
だが、その歴史をフィンランド側から見れば、それはスターリンのソビエトが、彼らの国家そのものを殺しに来たことに対する、必死の防衛反応だったということになる。それもまた、一つの動かしがたい真実なのだ。
誰もが、自らの正義と、自らが生き残るために都合のいい物語に浸り、それを真実として生きている。
このヘルシンキという街もまた、その例外ではない。
やがて機体が高度を下げ、車輪が滑走路を叩く鈍い衝撃と共に、ヴィクトルは初めてフィンランドの地に降り立った。
タラップの扉が開くと、肺を刺すような鋭い冷気が流れ込んでくる。松の木の匂いと、ジェット燃料の匂いが混じり合った、北国の空港の匂い。
空は、モスクワと同じように、重く垂れ込めた鉛色だった。
彼はコートの襟を立て、随行するチェルノフと共にターミナルへと歩き出す。
これから始まるバルト三国との交渉。彼らもまた、自らの悲劇の歴史という、絶対的な正義を武器に、この交渉のテーブルに着くのだろう。
だが、ヴィクトルの心は不思議と静かだった。
この雪と氷に閉ざされた土地の歴史が、彼に教えてくれていた。
正義とは、見る角度によってその姿を全く変える、極めて不確かなものであると。そして、国家間の交渉とは、どちらの物語が正しいかを競う場ではないのだと。
それは、互いの物語の、どの部分を認め、どの部分を飲み込み、そして未来のために、どれだけの”勘定”を支払うかを決める、ただそれだけの、冷たい作業なのだ。
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