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隣人への敬意

敬意、そして尊厳。

それは単なる言葉ではない。何十年にもわたって心の中に打ち込まれ、制度に組み込まれた、思想そのものだ。


ヴィクトルは一瞬、心を過去に飛ばした。

公然と、あるいは隠然と。ソビエトという国家が、建前の上では全ての人民の平等を謳いながらも、その実、決して人種差別という見えざる檻を壊したわけではなかったことを、彼は知っている。


スラブの民が第一にあり、その下に他の人民がいる。

その暗黙の序列を、誰もが知っていた。


(手に余る...)


かすかに歯を噛む。これは国家の制度に、人々の無意識に根差した巨大な偏見との戦いだ。

だが、できないわけではない。敬意を、尊厳をどう保証するのだというならば、こちらも魂を賭けるしかない。


「議長閣下」


ヴィクトルは、意を決して顔を上げた。

「いくつか、具体的なご提案がございます」


その声には、先ほどまでの冷静な響きとは違う、誠実な覚悟が込められていた。


「ほう。どうぞ、聞かせてほしい」


ナザルベフは表情を変えず、静かに促す。

ヴィクトルは一度、乾いた唇を舐めた。


「まず、公的な責任と、未来の機会についてです。ロシア共和国は、新生ロスコスモスをはじめとする宇宙開発の主要機関、その各専門部署へ、カザフスタン、そして中央アジアの同胞たちを、今後、積極的に受け入れます」


彼は、そこで言葉を選んだ。

「そのための枠組みは...ええ。これから連邦を離れていく西方の同胞たちのために用意されていたポスト、その枠組みを私が直接調整し、確保いたします」


それは、聞く者が聞けば卒倒しかねない、猛烈な爆弾発言だった。

空席となるであろうウクライナ人やバルト人の技術者の椅子に、中央アジアの人々を座らせる。

それはソビエトの「常識」に対する、正面からの挑戦だ。


誰もが肌の色や外見、民族の序列を、たやすく飲み込めるわけではない。


「無論、これには反発も予想されます」

ヴィクトルは続けた。


「故に、これは単なる約束ではありません。受け入れ先の各機関に対し、人種差別的な言動を許さないという監督責任を、ロシア政府として明確に課すことをお約束します」


そして、と彼は続けた。二つ目の、より困難な問題。

「次に、射場周辺の、環境除染についてです」


ヴィクトルは、ナザルベフの瞳を正面から見据えた。


「まず、連邦軍の化学防護部隊と、我が国の科学アカデミーの専門家からなる共同派遣チームを、現地に送り出す許可をいただきたい。彼らの調査結果次第とはなりますが、それに基づき、除染作業計画の策定、さらには除染方法の研究開発に着手します」


その声には、苦渋が滲んでいた。


「迂遠な手段に聞こえるかもしれません。ですが、議長もご存じの通り、ソビエトは工業汚染に対する意識も、それを浄化する技術も、あまりに未熟だった。多くの汚染は、既存の技術では対応できない可能性があります。つまり、ゼロからの技術開発となる。その困難さを、どうかご了承いただきたい」


ヴィクトルは、テーブル越しに、深く、そして誠実に頭を下げた。


「無論、その間の住民への被害調査、および当面の保証金につきましては、かつて宇宙開発の恩恵を受けていた各共和国から基金を募る形で、我々が責任をもって対応させていただきます」


ナザルベフは、黙ってヴィクトルの言葉を聞いていた。

そして、彼が頭を上げたとき、その“微笑みの男”の顔に、初めてかすかな、しかし確かな変化が浮かんでいた。


それは、興味という名の光だった。


目の前の若い官僚は、ただの冷徹な解体屋ではない。

自らが所属した国家の罪を認め、その清算に、本気で挑もうとしている。


ナザルベフは、その覚悟の重さを、正確に測っていた。

そして目の前の男が深く頭を下げるのを、静かに見つめていた。


彼がこの交渉の場で本当に求めていたのは、除染の具体的な約束や、技術移転の確約ではなかった。

もちろん、それらは国益として重要だ。

だが、彼の真の目的は、これから生まれ落ちる巨大な隣人、ロシア共和国が、一体どのような存在になるのか、その本質を見極めることだった。


そして、その新しい国家の性格を、おそらくは誰よりも強く規定するであろうこの男、ヴィクトル・ペトロフという人間を、徹底的に観察することだった。


そのために、彼は意地の悪い要求を突きつけた自覚があった。

国家の根幹に関わる要求を、非公式な場で一官僚に突きつける。

相手の器量を試し、誠意を測るための、危険な賭けだった。


下手をすれば、交渉は決裂し、最悪の関係で新たな時代を始めることになっただろう。

だが、結果は想定よりも、ずっと良かった。


目の前の男は、脅しにも、宥和にも逃げなかった。

彼は、カザフスタンが七十年間抱えてきた歴史的な屈辱と、その根底にある差別構造を、正面から理解した。そして、その是正のために、自らの政治生命を危険に晒しかねない、あまりにも誠実な回答を提示してみせた。


ナザルベフは、初めて、その顔から全ての表情を消した。

長年貼り付けてきた、あの”微笑みの男”の仮面を、静かに外した。


そこに現れたのは、党の書記でも、老獪な政治家でもない。

一つの民族の未来をその両肩に背負う、一人の指導者の、真摯で、そして重い覚悟を宿した顔だった。


「ペトロフ君」


その声は、もはや同志(タヴァーリシ)と呼びかけるものではなかった。

一人の人間が、もう一人の人間に語りかける、静かな声だった。


「君は、私の試みに、見事に応えてくれた」


彼は、ゆっくりと言葉を続けた。

「私が本当に恐れていたのは、飢えた熊だ。ソビエトという檻が壊れたとき、飢えと屈辱で理性を失った巨大な熊が、見境なく隣人に襲い掛かる未来。そうなれば、我々は血の海に沈むしかなかった」


「だから、試させてもらった。君が、そして君が作ろうとしている新しいロシアが、ただの飢えた獣なのか、それとも対話のできる理性的な隣人なのかを」


ナザルベフの目に、かすかな安堵の色が浮かんだ。

「君の目には、理性の光がある。そして、自らの過去の過ちを認めるだけの、強さがある。それが見えただけで、今日ここに来た価値はあった」


彼はテーブルの上に広げられたバイコヌールの地図を、指でなぞった。

「よかろう。17年間のリース契約、その枠組みで合意しよう」


それは、交渉における、彼からの最初の、そして最大の譲歩だった。


「ただし、君が先ほど提示した『敬意』という名の勘定は、その契約の隅々にまで、正確に書き込んでもらう」


ナザルベフは、ヴィクトルに向かって、初めて自らの手を差し出した。

「この17年で、我々は古い兄弟ではなく、新しい隣人としての関係を築く。そのための、最初の礎だ」


ヴィクトルは、その乾いた、力強い手を、固く握り返した。

二人の男は、ソビエト連邦の巨大な死体の上で、全く新しい国家間の、最初の約束を交わした。

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